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⑥胸を裂く雨、砕けた約束
翌日。休みなのをいいことに、一日布団から出られずにいた。
窓を打つ雨音が、朝からずっと途切れなく響いている。
横になっていても、胸のざわつきはまったく収まらない。気づけば、またスマホを手に取っていた。
――噂のSNS、タイムライン。
そこには、シティホテルのラウンジで食事をする拓実と女性の姿が、新しい写真とともに上がっていた。
落ち着いた灯りの下、笑顔で向かい合う二人。
まるで絵に描いたようにお似合いの光景に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「……これ、昨夜かよ……」
手のひらから力が抜け、スマホが震える。
じわりと冷たいものが広がり、息を吸うのさえ苦しい。
「……あ……」
その下には、次々と流れるコメント。
“やっぱり神谷社長って女好きじゃん”
“すぐに手出すとか前から噂あったけど、ついに証拠出たな”
“表じゃいい顔して裏で遊ぶ典型”
文字のひとつひとつが棘のように胸に突き刺さる。
頭では違うと分かっていても、目の前の写真と並ぶと現実味を帯びてしまう。
画面をスクロールするたび、拓実の笑顔と誹謗中傷が交互に飛び込んでくる。
何度も何度も突きつけられるその光景に、心臓が軋むほど痛んだ。
拓実に電話をしようか、メッセージを送ろうか。
けれど画面の上で指先が宙をさまようばかりで、何も押せなかった。
「……はあ……」
喉の奥からこぼれたため息は、情けなさを帯びて滲んだ。
結局、何もできない。だって俺は――拓実の恋人でも、特別な存在でもないんだから。
突然スマホが震える。
画面には、また見覚えのない番号。
……嫌な予感がした。
それでも指先が勝手に動き、通話ボタンを押してしまう。
次の瞬間、耳に届いたのは――あの声。
「遥、早く帰ってこいよ」
洋介だ。全身が硬直する。
脳裏に刻まれた、あの冷たい嗤い声が鮮明に蘇る。
震える指で、必死に録音ボタンを押す。
「そうそう、ずっとお前の近くにいた奴、神谷だっけ」
「……」
「あいつ、もうお前のことなんか興味ないんだろうなぁ」
一瞬、呼吸が止まった。
雨音も風も消え、世界から音がなくなる。
「SNS見ただろ? お前ほんっと馬鹿だよな。神谷に騙されてたのもわかんねぇの?」
「っ、るせ……んなこと……」
「神谷は女と笑ってんのにさぁ。お前のことなんかとっくに飽きたんだよ」
「……るさい……」
耳を切り裂くような言葉が続く。
「神谷に縋っちゃって、相変わらずめんどくせぇ奴。……結局、お前には俺しかいねえんだよ」
「……いやだ」
「なぁ、また一緒に暮らそうぜ。俺とお前、あの頃みたいに“楽しく”な」
「誰がお前となんか……嫌に決まってんだろ!」
数秒の沈黙の後、低い声が刺さる。
「……は? お前、死にてえの?」
背筋に氷を流し込まれたように、心臓が跳ねた。
受話口から滲むその一言は、刃物より鋭く、容赦なく俺を突き刺した。
通話を切ったあとも、耳の奥で声が残響する。
――お前ほんっと馬鹿だよな、神谷に騙されてたのもわかんねぇの?
――神谷は女と笑ってんのにさあ。お前のことなんかとっくに飽きたんだよ。
「……やめろよ……やめろって……」
声にならない声が漏れる。胸の奥で何かが崩れそうになる、その刹那――
また着信音が鳴り響いた。
画面に表示された名前。
――拓実。
「……っ」
喉が詰まり、呼吸が乱れる。震える指で画面を見つめるが、出られない。
出たいのに、怖い。裏切られるのが怖い。
通話は無情に留守電へ切り替わり、すぐにメッセージ通知が届いた。内容を見るのさえ怖くて、指先が固まる。
――確かめたい。直接、会って。
体は勝手に玄関へ向かっていた。
拓実との約束を破ると分かっていても、二人で会いたい。
「うわっ……」
扉を開けた瞬間、ちょうど隣人の滝沢さんが帰って来たところだった。
傘を片手に、驚いた顔でこちらを見ている。
「一ノ瀬さん? こんな雨の中、どこへ行くんですか」
「ちょっと……出なきゃいけない用があって」
声がうわずり、自分でも落ち着きを失っているのがわかる。滝沢さんは眉をひそめ、心配そうに一歩近づいた。
「さすがに今はやめた方がいい。雨すごいですし――」
「平気です! こんな雨くらい」
言い切った声は震えていた。
その震えに気づいたのか、滝沢さんは少し声を低める。
「……本当に、大丈夫か?」
その響きに――一瞬、拓実の声が重なった。
強引に見えて、けれど本気で心配してくれる、あのときの拓実の声。
胸の奥がずきりと痛む。
守られていた日々が脳裏をよぎり、思わず視線を落とした。
「……俺、会いたい人がいるんで」
滝沢さんの制止の言葉を振り切り、俺は雨の夜へと駆け出した。
胸の奥ではざわめきと不安が渦を巻いたまま。
*
拓実のマンションまでは、それほど遠くない。傘も持たず、ただ雨の中を早足で歩いた。
冷たい水が顔を叩き、服は瞬く間に肌に貼りつく。そんなことよりも、胸を締めつける恐怖に突き動かされていた。
「……っ、はぁ……」
そして――拓実のマンションにたどり着いた瞬間。
視界に飛び込んだ光景に、足が止まった。
エントランスの灯りの下。
拓実が女性を軽く抱き寄せている姿が目に入った。
……え?
全身から一気に力が抜けていく。喉が詰まり、声にならない息が零れた。
ガラス越しに見える、彼女の微笑みと拓実の自然な笑顔。
その何気ない仕草が、胸の奥を深く抉る。
「……拓実」
かすれた声は、雨音にすぐに呑み込まれる。
心の奥では、信じていたものが音を立てて崩れていった。
安心も、守られるはずの世界も、一瞬で形を失った。
だから、俺に会うなと言ったのか。
俺を遠ざけたのは、このためだったのか。
“……拓実、マジでいいヤツだよな”
“うん、惚れてもいいよ?”
“俺、別に優しいわけじゃないよ。どうでもいいやつに、ここまでやらない”
“……俺にとっても、こんなに誰かを大事にしたいって思うの、はじめてだから”
“遥、俺からは逃げんなよ?”
“ただ、俺は――お前に、笑っててほしいだけだから”
“遥、大好きだ”
――あの声が、耳の奥に鮮明に蘇る。
確かに聞いたはずの言葉。確かに感じたぬくもり。
それなのに、目の前の現実は、容赦なくそれを否定してくる。
「……拓実……」
息苦しくて、胸が裂けそうで、立っているのがやっとだった。
水たまりに目を落とす。揺れる光が滲み、雨なのか涙なのか、もう区別がつかない。
容赦なく降りしきる雨が悲しみを増幅させる。体に打ちつける冷たさが、心の痛みをさらに鋭く突き刺す。
あの日、逃げ出した時と同じ――いや、それ以上に痛くて、全てが砕けそうだった。
「なんでだよ……」
呟きは夜に吸い込まれ、答えは返ってこない。雨と涙で視界は滲み、街灯の光もぼんやりと揺れていた。
冷たいアスファルトを踏みしめながら思う。
――もう、守られるのは終わりだ。
雨に打たれた身体は震えていたが、それでも歩みを止めることはできなかった。
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