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最終話 俺の家に、おいで

白い天井。消毒液の匂い。 機械の規則正しい音がやけに響いていた。 俺は硬い椅子に腰を下ろしたまま、握った手を離せない。 「……拓実」 ――俺のせいで、こんなことに。 目を閉じれば、あの瞬間が甦る。 ナイフが振り下ろされる直前、拓実は迷わず俺を庇った。背中からあふれた赤が、頭から離れない。 「……なあ、拓実」 小さく呼んだとき、握っていた指がわずかに動いた。胸がいっぱいになり、声が震える。 「俺を守るために、こんな傷まで……」 涙で視界が滲む。それでも必死に手を握りしめた。 「……はる……」 かすれた声。顔を上げると、瞼がゆっくりと開いていく。 「……拓実っ!」 拓実は痛そうにしながらも、弱々しく笑った。 「泣くなっつーの……。俺、まだ生きてる」 「……泣くに決まってんだろ……! マジ心臓止まるかと思った……」 「お前が無事なら、それでいいんだよ」 耳元の声はか細いのに、不思議と力強い。 こいつは、どんな傷を負っても俺を守るのをやめない。 「でも正直、怖かったんだよ……。お前が消えそうで……」 「消えねぇよ。そう簡単に死なねぇから」 「……触れたかった。会いたかった。離れてても、拓実のことばかり考えてて……!」 拓実の目が驚きに見開き、すぐに柔らかく細められる。 「……そうか」 「……笑うなよ」 「笑ってねぇ。嬉しいんだよ。それ聞けただけで、生きてる意味がある」 拓実の手が背に回り、弱々しくも抱き寄せてくる。張り裂けそうな胸が少しずつ和らいでいった。 「遥って……やっぱり泣く前、目が潤むよな」 「……前にも言われたな、それ」 胸に残る温もりと痛みを抱えたまま、俺は小さく息をついた。 そして数日後――。 拓実の退院の日。 胸の奥に残る罪悪感が、晴れた空とは裏腹に重くのしかかる。 病院の玄関を出ると、拓実はゆっくり俺の歩調に合わせて歩いてくれた。 「外、気持ちいいな。仕事もそろそろ復帰だな」 明るく言う拓実に、俺は俯いたまま小さくつぶやいた。 「拓実……俺、どう責任取ればいいんだよ……俺のせいで怪我させちゃったからさ……」 言葉に力はなく、声はかすれて震えていた。 自分を責める気持ちは止められなくて、ただ、泣きそうな顔を隠して俯くしかできなかった。 拓実は少し立ち止まり、俺の顔を上げさせるように手を伸ばしてくる。 その瞳は、いつも通り真っ直ぐに俺を見つめていた。 「遥」 名前を呼ばれるだけで、胸がドキッと跳ねる。 でも次に続いた言葉は予想外だった。 「じゃあさ。俺が完全に元気になるまで……一緒にいてくんねえ?」 「……え?」 拓実はいつもの調子で、少しだけ口角を上げていた。 「どういう……ことだよ」 「簡単じゃん。しばらく俺の家に住めよ。そばにいてくれたら、俺も安心だし……お前も余計なこと考えなくて済むだろ」 冗談みたいにさらっと言う。 でも、その瞳は冗談なんかじゃなかった。 「……俺が、拓実の家に?」 「ああ。文句あるか?」 強気に言いながらも、ほんの少し照れてる顔に胸が熱くなる。 頭の中が混乱して、言葉が出てこない。 「そ、そんなの……迷惑だろ……」 「迷惑なわけねぇだろ。むしろ、来なかったらそっちの方が迷惑」 軽く笑ってそう言う拓実。 罪悪感に押しつぶされそうでいた心が、少しずつほどけていくのがわかる。 「……ほんとに、俺でいいのかよ」 震える声で尋ねると、拓実は当たり前みたいに答えた。 「遥じゃなきゃ、ダメだ」 その一言で胸の奥が熱くなり、息が詰まる。 喉が痛くなるほど何かをこらえていたのに、気づけば涙が零れ落ちていた。 「……バカ……。てか、俺、泣いてばっかじゃん」 情けなく笑う俺に、拓実は苦笑しながら手を伸ばす。 ためらいもなく俺の頬を撫でて、溢れる涙を拭ってくれた。 「いいじゃん。でも、泣くのは俺の前だけにしとけよ」 その優しさに、また涙が溢れて止まらない。 ぐしゃぐしゃになった顔を隠そうとすると、拓実は軽く俺の額に指先を当てた。 「なあ、遥」 「……なに」 「俺ん家来たらさ、毎日抱きしめてやるからな」 さらっと言うその言葉に、心臓が爆発しそうになる。 恥ずかしくて目を逸らすと、拓実はわざと楽しそうに笑った。 「なに照れてんだよ。可愛いな」 「かっ……!? 誰がだよっ!」 顔が一気に熱くなる。 けれどその瞬間、胸の奥がふわっと温かくなった。 罪悪感で潰れそうだった気持ちが、少しずつ希望に変わっていく。 「……マジ、拓実には敵わねぇな」 つぶやくと、拓実はどこか満足げに口角を上げた。 「それでいい。黙って俺の傍にいろよ」 彼の言葉が、まっすぐ心に響く。 こいつとなら、前に進めるかもしれない――そう思った。 でも同時に、心のどこかで小さなざわめきがあった。 一緒に暮らすってことは、これから毎日拓実と顔を合わせるってことで……。 嬉しさと恥ずかしさ、そしてまだ知らない未来への不安が入り混じる。 「……遥」 「ん?」 「覚悟しとけよ。俺、独占欲強いから」 不意に耳打ちされて、思わず心臓が跳ね上がった。 「な、何言って……!」 抗議の声をあげる俺を見て、拓実は楽しそうに笑う。 その笑顔に、また胸が苦しくなるほどの“好き”が込み上げた。 久しぶりに拓実の家に来ると、玄関の匂いも空気もどこか落ち着いていて、胸の奥がふっと軽くなる。 「遥」 「……ん?」 「俺、お前が青木から俺を助けようとしたって聞いた時、死ぬほど嬉しかったんだよ」 拓実の声が低く落ちる。 その言葉に胸の奥が熱くなる。自分のしたことが、拓実に届いていた――そう思えただけで、報われた気がした。 「でもな、青木の元に戻るって……それだけは絶対に許したくなかった」 拓実の瞳には悔しさと悲しさが入り混じっていて、簡単な言葉で片づけられるものじゃなかった。 「拓実……」 「ま、あいつは罪が重そうだから、二度と同じことはできないだろうな」 そう言うと、握った手をそっと自分の胸に引き寄せる。 「もう大丈夫。俺がいる。遥は俺の恋人だから」 「……なんかすげー照れる」 「ふはっ、誰よりも愛してやるよ」 拓実は俺の手を軽く握った。その力加減が絶妙で、少しドキッとする。 「……うん」 思わず頷く俺に、拓実はにやりと口角を上げる。 「よし、じゃあ荷物置いて休憩したら、飯でも作るか」 「え、拓実って料理できんの?」 「当たり前じゃん、簡単なもんなら作れるよ。外食ばっかじゃ飽きるし」 拓実はさりげなく俺の肩に触れる。 「あ……でも拓実、まだ無理すんなよ。怪我してんだから」 「わかってる。でもお前がいるから、柄にもなく浮かれてんだよ」 その言葉に、ちょっとだけ照れながら頷いた。 部屋に荷物を置き終えると、拓実は楽しそうに笑う。 「なあ、明日からのルール決めるか?」 「ルール?」 「うん。起きる時間とか、飯とか、どっちが先にお風呂入るかとかさ」 「……そこまで決めんの?」 「決めなきゃ、俺に振り回されるよ?」 ふざけた調子だけど、どこか安心感のある笑顔。 「……まあ、いいけど」 「よし、じゃあ毎朝コーヒー入れてやるからな」 「お、ちょっと楽しみかも」 その瞬間、拓実が俺の耳元で小さく囁いた。 「夜は一緒に寝ような。あ、でも……すぐには寝かせたくねぇな」 「ばっ……、何言って……」 顔が熱くなっていくのを隠すように、思わず視線を逸らした。 * キッチンに立つ拓実の横で、俺も包丁を握る。 トントンとまな板に響く音が、妙に新鮮で、くすぐったい。 「……そういえばさ、拓実のあの女性関係の噂……結局どうなったんだ?」 拓実は特に表情を変えず、鍋の中を木べらで軽く混ぜながら答える。 「あー、あれはもう大丈夫」 思わず手を止める。 「ばあちゃんがすぐに動いてくれた。業界に顔が利くからな、くだらないネタ出すのはやめろって一喝して」 「潔さんが?」 「ああ。広報も裏で火消ししてくれて、記事もSNSの書き込みもおさまってるよ」 拓実は淡々とした調子で続ける。 「俺自身は、あの時も普段通り仕事をしてただけだけど……逆に『やっぱり神谷はブレない』って言われてるらしいな」 派手に弁解するでもなく、堂々と日々を貫いていた姿が、周囲にはむしろ格好良く映ったんだろう。 彼を守ろうと動いた人たちと、拓実自身の揺るがなさが、噂そのものをかき消したってわけか。 「お前のことも表沙汰にはなってねえし。だから、もう心配しなくていい」 拓実はちらりとこちらに視線を投げる。 その目は外の世界に向ける冷静さとは違い、俺にだけ甘くゆるむ。 ……こんなの、惚れるなってほうが無理じゃね? 心の中でそう呟いた瞬間、拓実はそんな俺の反応を楽しむように、声を落として囁く。 「……顔、赤い。俺に見惚れてた?」 「っ……ち、ちげーし!」 慌てて視線を逸らす俺に、拓実は小さく笑う。 「……てゆーか、お前、真剣な顔も可愛いな」 野菜を切る手元を見つめられるだけで、胸の奥が熱くなる。 「かっ、可愛いって……!」 思わず目を逸らす俺に、拓実はくすりと笑った。 「ほら、味見してみ」 差し出されたスープのスプーン。 熱さに注意しながら口に入れると、思わず目を閉じた。 「……うまい……」 「だろ? お前と一緒に作ったからな」 何気ない言葉に、胸がきゅんと締め付けられる。 「……拓実」 「ん?」 「……こうやって、普通に一緒にいられるの、嬉しいな……なんて」 拓実は少し驚いた顔をしたあと、すぐににやりと笑った。 「そりゃ俺も嬉しいよ。俺もお前とずっとこうしてたいんだから」 その言葉を聞いた瞬間、思わず笑みが零れ、拓実は俺の手を軽く握る。 「……これからも、毎日こうしていられるといいな」 「……ああ、そうだな」 キッチンに漂う温かい香りと、拓実の手の温もり。 緊張も不安もまだ少し残っているけど、胸の奥がふわっとほどけていく。 これから始まる、二人だけの生活――少しずつ、でも確実に、幸せに満ちていく予感がした。 * 「お前も、ここで寝るからな」 「……ああ」 俺は照れくささと安心感で胸がいっぱいになりながら、言われるままベッドに入る。 拓実も隣に並び、布団の中でゆっくりと体を寄せてくる。 「……遥、もっとくっつけよ」 「え、ちょ、狭いって……!」 「……いいから、おいで」 有無を言わせず、体を引き寄せられる俺。 拓実の腕が背中に回り、頭が胸に押しつけられる。 その温もりに、安心と幸福感がじわっと広がった。 「……遥」 「ん……」 「俺、やっぱりお前のこと、手放せねぇわ」 「……俺も、拓実のそばにいたいし……」 小さな声で告げると、拓実は布団の中で軽く笑った。 「その顔、やばいな。可愛い」 「また“可愛い”かよ」 思わず顔を背けると、拓実は優しく頭を撫でる。 胸に押しつけられる体温と、耳元での優しい囁き。 俺は初めて心から、泣いても笑っても、甘えてもいい相手が隣にいる幸せを実感する。 「俺の前では素直でいろよ」 その笑みは――甘くて、危険で。逃げ場がなかった。 [完]

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