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⑪惨めな敗北者

ナイフが振り下ろされる寸前、拓実が必死に立ち上がって、洋介の手首を鋭く掴んだ。 「ぐっ……!」 洋介の動きが止まる。 その瞬間、金属音を立ててナイフが床に転がり、洋介の体はよろめいた。 「……遥に触れさせるかよ」 低く響く拓実の声が、耳に突き刺さる。 背中から血が滲んで、痛みに顔を歪めてるのに、その目だけは冷たくぶれない。 「……くそっ、なにしやが……!」 「なぁ青木」 拓実は痛みに耐えながら、洋介の胸倉をぎゅっと掴み上げた。 「お前の歪んだ執念も……ここで終わりだ」 「黙れ!」 洋介が怒声をあげても、拓実は一切怯まずに言い切った。 「お前はもう詰んでんだよ」 その言葉は、洋介にとって逃げ場のない“宣告”のようなものだった。 洋介の顔が恐怖と怒りでぐしゃりと歪み、必死に胸倉を振りほどこうともがく。 「離せ! 殺してやる!」 狂ったような叫びと共に暴れ出したその時――。 「そこまでだ! 動くな、青木洋介!」 その時、鋭い声が背後から響き、ドアが勢いよく開いた。 一斉に飛び込んできた数人の警察官が洋介を取り囲む。 「なっ……!なんで……!」 「暴れるな! 全部証拠は揃ってる!」 洋介の両腕が力づくでねじ伏せられ、床に叩きつけられた。 「……ち、違うんだ、誤解だ!」 洋介は必死にもがいてるが、もう完全に押さえつけられて動けない。 体をバタつかせても意味がなくて、見てるこっちはちょっと滑稽に思えてしまう。 それでも洋介は必死に口だけで抗おうとする。 「お、俺がいなきゃ……遥だって生きてこれなかったんだ! そうだろ、遥っ!」 床に押さえつけられた洋介の叫びは、哀れで情けなく響くだけだった。 「俺は悪くない……全部、お前が悪いんだ神谷! お前が現れたから、遥が……!」 言葉は震え、次第に涙声に変わる。顔を歪めて必死に弁解を繰り出すその姿――こんな洋介を、俺は初めて見た。 「……遥っ……俺を助けてくれっ……! 頼む、遥っ……!」 しかしその叫びも、手錠の鎖が揺れる金属音と警官の怒声にかき消されていく。 洋介が引きずられる姿は、もはや哀れを通り越して、誰の目にもただの惨めな敗北者にしか見えなかった。 張り詰めた空気が、ふと途切れたその時――。 振り返ったら、拓実の顔が痛そうに歪んでる。 背中の傷から血が止めどなく滲み出し、シャツはみるみる真っ赤に染まっていく。 床に落ちた血は滴るたびに広がり、まるで赤い輪を作るように広がった。 「……っ、……」 拓実の呼吸は浅くて、喉の奥から途切れ途切れに漏れてくる。 体の力が抜けて、床にズルッと崩れ落ちた。 「――拓実!」 とっさに抱きとめるけど、思ったより力なく沈む感触に、胸の奥が締め付けられた。 「……拓実、しっかり……!」 震える手で背中に触れると、指先に広がるぬるっとした感触が、現実を突きつけてくる。 「ごめん、俺のせいで……」 「……ばぁか、おまえのせいじゃねーよ……」 かすれた声がかろうじて耳に届く。 その瞳にはまだ俺を気遣う色が残っているのに、まぶたは今にも閉じそうで。 喉の奥からこみ上げる叫びを必死に飲み込んだ。 何としてでも、彼を失うわけにはいかない。 その時――。 「拓実さん! 一ノ瀬さん!」 背後から駆け込むような声が響いた。 振り返った視線の先に立っていたのは、見覚えのある人影――隣人の滝沢さんだった。 「……滝沢さん!? なんでここに……」 思わず声が震える。 滝沢さんは肩で大きく息をつき、真剣な表情で俺を見下ろした。 「拓実さんに頼まれていたんです。遥さんを、青木の危険から避けるために見守れって」 「……え……」 ようやく腑に落ちた。 だから、滝沢さんはマンションの隣人として俺の近くにいたのか。 すべて拓実が先回りして、危険を予測し、準備してくれていた。 胸の奥に、遅れてじわりと理解が広がる。 「……ありがとうな……」 拓実は痛みに顔を歪めながらも、ほんの一瞬だけ俺を見て微かに頷いた。 その場に駆けつけた救急隊員たちは、ためらうことなく素早く処置を始めた。 「すぐに搬送します!」 機械音や指示が飛び交う中、俺は拓実の傍から離れることができずにいた。 「拓実……」 「一ノ瀬さん」 滝沢さんが肩を強く掴み、真っ直ぐに俺を見据えて告げた。 「あなたも病院に行きましょう」 震える足を支えられながら、俺はただその言葉に従うしかなかった。 拓実の傍にいたい気持ちは山ほどあるのに、現実を見るとそうもいかなくて、もどかしさでいっぱいだった。 救急隊員の指示に沿って、担架は慎重に運ばれ、玄関を抜けて救急車へと搬送される。 サイレンが夜の街に鋭く切り込む。 その光と音の中で、俺はただ拓実の無事を祈るしかなかった。

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