34 / 36
⑩鮮やかに滲んだ赤
拓実に抱きしめられたまま、しばらくはただ鼓動を感じていた。
「……でも、なんで」
「遥は俺が守るって約束しただろ」
恐怖と絶望が入り混じる中、拓実の冷静な声が耳に届いた。
……拓実は、本当に守ってくれるつもりだったんだ。
その時、床に崩れ落ちていた洋介の体が、小さく痙れるように動いた。
腕を突っ張り、よろよろと支えを探すように床を掴む。
「……ぐっ……」
低く唸りながら、ふらつく足で膝を立ててゆっくりと上体を起こす。
「神谷……お前……」
立ち上がった洋介の声が部屋に響き、胸の鼓動が再び速くなる。
拓実は俺を抱きしめたまま、淡々と声を落とす。
「引っかかってるフリ、大変だったよ」
その一言に、洋介の動きが一瞬止まる。
怒りと混乱が入り混じった視線で、拓実を見返す。
「あの女性が暴露した。SNSの噂も……青木、お前が広めたんだよな」
拓実は俺の肩に手を回し、落ち着いた声で続けた。
「全部わかったうえで逆に利用した。……遥を守るために、俺が動きやすいように。でも、遥を誤解させてしまったのは悪かったと思う」
拓実の言葉ひとつひとつが、胸の奥に少しずつ届いて、ぎゅっと締め付けられる。
全部知ってて、わざと女性と……?
なんだ、そうだったのかよ……。
「……遥にはちゃんと説明しようと思ってたんだけどな。お前、電話出ろよな。メッセージも、読めっつーの……」
苦笑いしながらそう言われて、胸の奥に安心と罪悪感が同時に押し寄せる。
拓実はこんなにも真っ直ぐなのに、信じなかった俺が……悪い。
「拓実……ごめん……」
思わず掠れた声で謝る。拓実は俺の手を握り、少しだけ強く抱きしめてくれた。
そしてさらに淡々と、だが鋭く告げる。
「青木洋介。……ストーカー、脅迫、名誉毀損、住居侵入、暴行、殺人未遂……全部、お前の罪だ」
「は……? バカかよ。ストーカーなんて証明もできねえし、殺人未遂の証拠なんてないだろ……?」
拓実はわずかに微笑むように首を振り、視線を壁や天井に向ける。
「残念だな、この部屋にはカメラがあるんだよ。遥があの日、ここを出た後……俺が設置しておいたからな。今日の出来事も、お前の自供も全部映ってるんだけど」
俺はその言葉に、驚きと同時に安心が混ざる。
「……な、……んなわけ……」
「万が一、ここにお前が入ってきたら証拠として抑えるつもりだったんだ。でも、本当にそうなるとはね」
洋介の顔が見る間に青ざめていく。
「っ、うるせぇ……嘘だ……! カメラなんかあるわけねぇだろ! お前らなんか、ここで……殺してやる!」
焦りが言葉に滲み、喚く姿は醜く見苦しかった。
「遥、逃げよう」
拓実にしがみついたまま部屋の奥へ逃げ込む。
まだ震える手でドアノブを握り、静かに開けると、廊下の生温い空気が顔に触れた。
「……しっかり、離れるなよ」
拓実の低い声に、俺は頷く。
――けれど、背後で軋む音。
振り返る間もなく、洋介の影が見えた。手には、あの銀色のナイフ。
「……クソが! 逃げられると思ってんのか?」
その声に、胸の奥の恐怖が再び波のように押し寄せる。全身が震え、血の気が引いた。
「青木……もうやめろ。これ以上は無駄だ」
拓実は俺を抱きしめたまま一歩下がる。
洋介は笑みを歪め、足を踏み出す。狂気と執念に満ちた瞳が、俺たちを捉えて離さない。
「……お前ら、まとめて……ぶっ殺す」
その瞬間、洋介は一瞬目を見開き、俺に向けてナイフを振りかざした。
「――遥!」
拓実が咄嗟に前へ飛び出し、背中を向けて俺を庇った。
振り下ろされた鋭い刃は、迷うことなくその背を掠めた。
「っ……!」
低く呻く声。
鮮やかな赤い血が、拓実のシャツをじわりと滲ませていく。
――その現実に胸が張り裂けそうになる。
「拓実っ……拓実……っ!」
喉が焼けるように叫ぶ。震える手を伸ばすが、拓実は俺を庇うように押し返した。
「遥……」
彼の声は苦痛に濁りながらも、揺るぎなく冷静だった。
「……遥、はやく逃げろ……」
「いやだ……! 拓実……!」
胸の奥から声が裂ける。拓実は俺を守るように崩れ落ちた。
震える身体と恐怖。俺はその場で息を詰める。
その時――洋介の笑い声が、耳を裂くように響いた。
「……ここで終わらせてやるよ!」
俺を真っ直ぐに射抜く視線。そのまま、ゆっくりと踏み込んでくる。
「神谷と仲良く死ね! 遥! お前も、一緒に地獄に落ちろ!」
狂気に歪んだ声が、部屋中に反響する。
拓実を抱きしめながら、全身に血の気が引き、鼓動が耳の奥で響く。
洋介の瞳がぎらつき、刃が振り上げられた。
ともだちにシェアしよう!

