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第一章 ① 転校生

 今でも時折夢に見る。血まみれになって笑うあいつの姿。怖いくらいに青い空を、直視することもできないで、いつもそこで目が覚める。     『逃避行~12の夏~』      あいつは、いつも夏の匂いがした。小学校六年生の七月。一学期ももう終わろうという頃。三嶋碧は、迅のクラスへ転校してきた。   「みんな、仲良くするように。分からないことも多いだろうから、いろいろ教えてやってくれ。席は寺門の隣な」    今朝になって突然現れた空席の理由を知った。碧は、先生の指示通り、迅の隣の席に座った。「よろしく」と迅が小声で言えば、「うん」と小さく頷いた。  転校生なんて今時めずらしくもないだろうが、小学生にとってみれば一大事件である。地球の裏側では今日も飢えて死ぬ子供がいるとか、戦争で何百人が死んだとか、隣国がミサイルを発射したとか、株価の暴落やら物価の上昇やら、そんなことよりも、いきなり現れた転校生の方が、ずっとずっと重要なのだった。  当然、クラスの話題は、しばらくの間、この転校生のことで持ち切りだった。転校生の顔を一目見ようと、隣のクラスからも人が押し寄せた。碧のまとう、どこか都会的な雰囲気に、女子たちは結構騒いでいた。  しかし、誰かが言った「どうして転校してきたの」という問いに、「母親が自殺したから」と碧が答えたことで、雰囲気は一変する。いきなりセンシティブな話題に触れてしまったことで、みな動揺したのだろう。それ以上突っ込んだことを聞ける猛者はおらず、そのうち、誰も碧のことを話題にしなくなった。    季節は移り、秋になった。赤く色づいた木の葉が、木枯らしに吹かれて舞い落ちる。先生に頼まれて、迅と碧は校舎裏の掃き掃除をしていた。掃いても掃いても、カエデやイチョウが次々に降ってくる。   「こんなの、いくらやったって終わんねぇよ~」 「だな」 「ったく、やってらんねぇ~」    などと、文句をたらたら垂れ流していた時だ。落ち葉の絨毯に隠されて見えなかった小さな段差に、迅は思い切り躓いた。どうにか堪えて身を翻したはいいものの、結局重力には勝てず、落ち葉の山にダイブした。せっせと掃き集めていたカエデやイチョウが、勢いよく舞い上がる。  まるで、下から強風が吹き上げたように、青い空にひらひら舞った。太陽の光が、金や紅に輝いて見えた。  驚いて目を丸くしていた碧だが、「いたた」と迅が木の葉まみれになりながら起き上がると、思わずといった風に笑った。くす、と微かに口元を緩めて、しかしすぐにいつもの真顔に戻った。  初めて、碧の笑うところを見た気がした。こんな風に笑うんだ、と思った。もっと見てみたいとも思った。   「なんだよ。じっと見て」    碧は、少し気まずそうに口元を隠す。「何でもねぇよ」と迅が言えば、そっと手を差し伸べてくる。「どこかぶったんじゃないのか」と心配そうに言うので、「全然だいじょぶ。ケツから行ったし」と迅が答えると、「それは本当に大丈夫なのか?」とやはり心配そうに言う。  一旦休憩することにした。何の手入れもされていない、小さな花壇に腰掛ける。足元には落ち葉の絨毯が広がっている。「あのさ」と迅は切り出した。   「前に、母ちゃんが自殺したって言ってたけどさ、あれ、マジなの」    なぜ今更そんな話を、という顔をしたが、碧は答える。   「マジだぜ」 「マジかぁ」 「みんなの注目ほしさに嘘ついた、イタい奴だと思ってたのか」 「いやいや、全然? あん時のお前、普通にマジっぽかったし、だからみんなビビッたんだろ。ふざけてそういうこと言う奴じゃないってのも、みんなもう分かってるだろうし」 「そうかよ」 「そんで、今はおじさんと二人暮らしってわけか」 「……まぁ、そうだな。他に頼れる親戚がいなかった」    それじゃあ、その顔の傷は、おじさんにやられたんだ。とは、まだ聞けなかった。   「なぁ、今日の放課後、ひま?」    あまり遅くならないようにという条件付きで、放課後二人で遊びに出かけた。もちろん、初めてのことだった。  迅が碧を連れていったのは、町外れにある神社だった。苔生した石段を上り、枯草や、絡み付く蔓を掻き分けて、ようやく辿り着く。ほとんど手入れもされていない、荒れ放題の古びた稲荷神社だ。ぴゅう、と軽く口笛を吹けば、ガサガサと茂みを揺らして、猫が姿を現した。   「かわいいだろ。元々うちで飼ってた猫。ミーコっつーの」    ミーコは迅の足元にすり寄って甘える。黒い毛と白い毛と、鮮やかなオレンジ色の毛が絶妙なバランスでミックスしている、三毛猫らしい三毛猫だ。きらりと光る金色の目も、実に猫らしい。  迅がランドセルを下ろすと、ミーコは膝に飛び乗って甘えた。餌をもらえると分かっているのだ。ランドセルに隠してある煮干しの徳用袋から、一掴み取り出して与えると、ミーコはにゃあにゃあ鳴いてがっついた。   「お前もやる?」    碧の手にも、煮干しを一掴み置いてみる。ミーコは、特に警戒する様子もなく、迅の手にある煮干しと交互にそれを食べた。   「……猫きらいだった?」    猫が手から餌を食べているのに、碧が目立ったリアクションをしないので、迅は少し不安になって尋ねた。「いや」と碧は首を振る。   「こういうの、初めてで」 「野良猫とかも?」 「うん。……かわいい」    ふわっ、と蕾が開くように、碧は笑った。こいつの笑顔を見るのは二回目だ。猫を見つめる眼差しが柔らかくて、迅も嬉しい気持ちになった。   「お前、ここで一人で世話してるのかよ」    ミーコを膝の上に乗せて、碧は言う。   「まぁな。一応俺の猫だったし」 「飼えなくなったのか」 「まぁねぇ。あ、そだ。これ見てよ」    迅は社殿の格子戸を開け、仕舞ってあった段ボール箱を引っ張り出した。神社の社殿を勝手に物置として使うなど、不敬にも程があるが、扉の南京錠は元々壊れていたし、雨風を凌ぐのには最も適した場所なのだった。  箱の中身は、ミーコが暖を取るための毛布や、お気に入りのおもちゃなどだ。それらを取り出した後、箱の底に残るのは、銀色に光るスチール缶。元は煎餅が入っていた缶である。   「なんだよ、それ」 「俺の大事な物入れ」    缶の中身は、それこそ、男子小学生にとっては宝の山だ。トレーディングカードゲームのレアカードや、アニメキャラクターのメダル、食玩のフィギュアやシール、もちろん、携帯ゲーム機まで入っている。   「遊べんの」 「いや、電池切れててムリ」 「なんだそりゃ」 「家に置いとくと、捨てられたり売られたりするからさぁ。ここに避難させてんだよね」    迅はランドセルの底をさらい、家からこっそり持ってきていたスーパーボールとビー玉を、新たに宝箱に追加した。   「そんなもんまで?」 「一応、念には念をってやつ? お前、なんかほしいもんある?」 「何かくれるのかよ」 「まぁ、あれよ。秘密のおすそ分け的な? 俺、ここでミーコ世話してんの、親にも言ってないからさ。母ちゃんに、遠くに捨ててこいって言われたのに、内緒で飼ってんの」 「ふぅん。口止め料にゲーム機を?」 「げぇっ!? ゲームはちょっと……」 「冗談だ。それに、どうせ動かねぇんだろ」 「別に壊れてるわけじゃねぇよ」 「そうだな。この中から選ぶなら、これがいい」    碧は、迷わずにビー玉を手に取った。一般的なサイズよりも一回り大きいそれを、太陽に透かして眺める。   「そんなんでいいの」 「これも一応大事なもんなんじゃねぇのかよ」 「そりゃあな? ちょっとでかいし、色もきれいだし」 「カードゲームとか、うちに置いといても、捨てられたり売られたりしそうだしな」    碧はビー玉を握りしめ、大事そうにポケットに仕舞った。   「ユーモアのわからんおじさんだな」 「その言葉、そっくりそのまま返すぜ」    さて、と碧は立ち上がる。ミーコをぎゅうっと抱きしめて、においを嗅いだ。「くさくない」と笑い、ランドセルを背負う。   「帰んの」 「ああ。あんまり遅いと……」 「明日も来れば」 「来られたらな」 「んで、できれば、猫の餌になりそうなもん、持ってきてくんない? 俺の小遣いじゃ、徳用煮干しが限界でさ。ミーコ、腹空かしてるみたいで」 「……考えとく」    その日はこれで別れたが、以降、この廃神社が、二人の秘密の遊び場になった。      *     「その目、やべぇな。すっげぇ痛そう」    碧の左目は、仰々しい眼帯で覆われている。赤黒く腫れているのが、包帯越しにもよく分かる。  碧の体は、生傷が絶えない。今日は目だが、頬はよく腫らしているし、唇もよく切っている。絆創膏が至るところにペタペタ貼られて、眼帯を巻いてくるのも今日が初めてではない。   「見た目ほどじゃねぇよ。お前だって、どうしたんだよ。そのほっぺた」    今日は、迅も頬にガーゼを貼っていた。しかし、これこそ大したことはない。碧の傷と比べれば、子猫のひっかき傷みたいなものだ。   「ちょっとな。タイミング悪くて」 「ふぅん」    碧は興味なさげに言い、ミーコをじゃらす。近頃は、碧の方がおいしい餌をあげるので、ミーコは、迅よりも碧によく懐いているのだった。   「ふん、ふふ。かわいいやつ。もこもこしやがって」    碧は、ミーコを抱き上げて頬ずりした。ふさふさの冬毛に生え変わったミーコは、カラフルな毛玉のように丸々していて、抱き心地も抜群なのだ。碧の笑顔を見た回数を数えるのを、迅はとっくにやめていた。   「……なぁ。今日、クリスマスだけど」    息が白い。   「ああ。家でケーキ食うんだろ」    碧の息も白い。白く淀んだ空に、溶けて消える。   「さぁ……どうだろ」 「食わねぇの」 「まぁ、どうせ給食で食ったし?」 「それで、サンタが街にやってきて、いい子にはプレゼントを、悪い子にはお仕置きをするんだろ」 「ヤダお前、サンタなんか信じてんの? お子ちゃま~」 「なわけねぇだろ、バカ」 「だよなぁ」    サンタがいるなら、今すぐ両親を仲直りさせてくれ。サンタがいるなら、死んだ碧の母を生き返らせてくれ。それすら叶えられないのなら、サンタクロースなんていらない。   「今日、まだ早いし、どっか飯でも食い行こうぜ」 「ガキ二人でか? 金もねぇのに」 「まぁ、そうなんだけど……ハンバーガーくらいなら、買えるし? この時間なら、小学生二人でも、入れてくれるんじゃねぇの」 「……だといいな」    碧は、抱きしめていたミーコを、そっと地面に下ろす。重そうな体とは裏腹に、ミーコは軽やかに飛び降りた。   「帰んの」 「ああ。やっぱり、クリスマスは家で……だろ」 「そーかもね」 「遅くなると、まずいしな」 「気ィつけて帰れよ」 「お前こそ、暗くなる前に帰れよな」 「わーってるよ。さすがに、この時期野宿はキツいって」    だんだん小さくなる後ろ姿を見送った。空を見上げれば、初雪が舞っていた。  碧の怪我は、碧を引き取り一緒に住んでいるおじさんにやられたのだと、迅は知っている。休み明けに怪我が増えることも知っている。時々、連続して学校を休み、久しぶりに登校した時も、怪我が増えている。迅と違い、碧が家に帰るのは、それも全部おじさんのせいなのだと、迅は知っている。  冬休み中、碧は神社に姿を見せず、休み明けに学校で顔を合わせると、やはり傷が増えていた。

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