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第一章 ② 嵐

 今夜は嵐になるでしょう。不要不急の外出は控え、やむを得ない場合は十分に安全を確保して──  アナウンサーが、口酸っぱく繰り返していた。天気予報は大当たりで、今年最初の嵐になった。窓ガラスを見てみれば、雪まじりの雨が、横殴りに叩き付けている。  こんな夜に思うのは、ミーコのこと。社殿の中にいれば、最低限の雨風は凌げる。毛布やブランケットを可能な限り持ち込んでおいたし、それでなくても段ボールは暖かいらしいから、心配はいらないはずだ。けれど……  家が傾くほどの風が吹く。隣の家の屋根も、庭木も、うっすらと白くなっている。迅は、こっそりと家を抜け出した。  荒れ狂う北風に吹き飛ばされそうになりながら、みぞれに頬をぶたれながら、迅はマフラーをきつく締め直す。この風に、ミーコの小さな体は、簡単に飛ばされてしまうだろう。普通の雨すら苦手なのに、冷たいみぞれに打たれては、すぐに凍えてしまうだろう。  雪なのか、雨なのか、もはやよく分からない。視界を遮るように吹き付ける。街灯が、確かに灯っているはずなのに、ほとんど何も照らしてはくれず、ただただ、真っ暗な闇が、口を開けて待っている。  町外れの廃神社。石段を這うようにして上り、迅はようやく辿り着いた。毎日通っているはずなのに、ここはこんなに遠かっただろうか。まるで、知らない世界へ迷い込んだようだった。  神社の周囲は、雑木林に守られている。鳥居をくぐり、境内へと一歩足を踏み入れれば、たちまち風の音はやむ。冷たい雨も、ここまでは追ってこられない。   「……迅?」    無人のはずの社殿に、微かな明かりが見えた。まさか、神様か? なんて、そんなことがあるはずがない。   「碧? なんで」 「それはこっちのセリフだ。早く入れよ」 「う、うん……」    格子戸を開け、社殿の中へ。懐中電灯の明かりに、ほっとした。   「バカだろ、お前。そんなカッコで。びしょ濡れじゃねぇか。さっさと脱げよ」 「バカってなんだよ。お前だって、すげぇ薄着だし」 「おれはあれ、カッパ着てきたから」    碧は、社殿の隅を指す。びしょ濡れの黄色いカッパが脱ぎ捨てられていた。「とにかく、濡れたままじゃよくないぞ」と碧が言うので、迅は濡れたコートを脱いだ。水を吸って重くなったマフラーも外し、部屋の隅に放っておく。  落ち着いて見てみれば、濡れねずみになった迅や碧を尻目に、ミーコは自慢の毛並みをふさふささせたまま、お気に入りの毛布に包まっている。張り詰めていた糸が切れて、迅はその場に座り込んだ。   「なんか……焦って損したわ」 「だな」 「碧も来てるし。ミーコのために、ありがとな」 「別に。うち、この近くだから、ちょっと見に来ただけだ」 「そうだったんだ。初めて聞いた」 「初めて言ったからな。お前ンちも知らねぇし」 「ああ、今度来てみる? っつっても、なんも楽しいことねぇけどな」    普段通りのテンションで談笑していたが、突然、震えが来た。寒い。  それもそのはずで、濡れたコートは脱いだものの、下着にまで雨水は滲み込み、着々と体温を奪っているのである。それは、おそらく碧も同じだろう。肌に張り付く布を不快そうにしていたが、とうとう、脱ぎ始めた。  懐中電灯の光が、薄ぼんやりとしているせいだろうか。白い肌が余計に白く、薄闇の中へと浮かび上がる。何か、見てはいけないものを見たような気がした。迅は咄嗟に目を覆い、しかし、指の隙間からちゃっかり覗き見る。   「ばっ、ばかっ! なに急に脱いでんだよっ!?」 「知らねぇのか。こういう時は、人肌で温め合うのがいいんだぜ」 「は、はぁ? 何言って……」 「お前も脱げよ。濡れたままの服なんか着てちゃ、風邪引くのがオチだぞ」 「なっ、で、でも……」 「で、二人でこうすれば、あったかいだろ」    碧は、毛布を広げて包まった。もちろん、ミーコも一緒である。「ほら、あったかいぞ。毛がふわふわする」と碧が笑うので、迅はもう、どうにでもなれという気持ちで、濡れた下着を脱ぎ捨てた。   「ほらよ、脱いだぞ。これでいいのかよ」 「ん、こっち来て」    若干不貞腐れて見せた迅を、毛布が優しく包み込む。素肌に触れる毛布の感触は、確かにふわふわとして気持ちよく、服を着たままの時よりも暖かく感じた。   「な。あったかいだろ」 「う、うん……」    暖かいのは、毛布のおかげだけではない。一枚の毛布に一緒に包まっているせいで、碧の体温をじかに感じる。少年二人と、猫一匹分の熱が、毛布の中で重なり合い、倍増しになって、冷えた体を温める。   「なぁ、もっと、こっち」    毛布の中で、碧に抱き寄せられる。肌と肌が触れ合う、その初めての感触に、迅はたじろいだ。   「な、に……」 「もっとくっつかないと、寒いだろ」 「そりゃ、っ……さむい、けど……」    壁際に二人で寄り添い、一枚の毛布に包まって、剥き出しの肌と肌を重ね合う。ミーコは、膝の上で丸まっている。ふわふわの毛が、くすぐったい。   「……なぁ」    碧の手が、胸に触れた。ビクッ、と体が大袈裟に反応する。くす、と碧は頬を緩める。   「すごいドキドキしてる」 「だ、って……」 「あったかいな」 「な、なんか、ヘンだ。こんな……」 「なんにも、おかしくなんかねぇよ」 「あ、ぅあ……」    毛布の中、裸の体で抱きつかれる。密着した碧の肌が温かくて、柔らかくて、寒いはずなのに汗が噴き出す。   「もっと、体温が上がること、するか?」 「も、もっと?」 「だって、このままじゃ、寒いだろ」 「で、でもっ……」    もっと体温が上がることって何だよ。なんてつまらないセリフは、碧の唇に消されてしまった。  渇いた唇に、冷たい唇が重なる。やがて、舌が唇を濡らし、口の中へ入ってくる。火傷しそうなくらい熱くて、壊れてしまいそうに柔らかくて、舌と舌を重ねるだけで、心も体も蕩けていくように感じた。   「っ、ふ……ん、んぅ……っ」    自分でも気づかないうちに、迅は碧を抱きしめて、その舌を、唇を、夢中で吸った。そうして碧の味を知り、音を知り、熱を知って、そうしていると、確かに体は熱くなって、頭も、なんだかぼんやりとしてきて、心臓だけがドキドキバクバクうるさくて、破裂しそうだった。   「はあっ、はっ、はあ……っ、俺、やっぱ、ヘン……」    呼吸が乱れ、獣のような息遣いになっていることに気づく。碧も苦しそうに息を荒くして、涙に潤んだ瞳で、迅を見つめる。   「へんじゃ、ないって……」 「で、も……」    有無を言わさず、再び唇が重なる。触れたところから──唇だけでなく、掌や、お腹や、胸や、太腿や、いろいろなところから──碧の体温が流れてきて、迅の体も熱くなって、おかしくなる。  寒いのに熱くて、気持ち悪いのに気持ちよくて、こんなのおかしいって分かっているのに、頭の中は碧のことでいっぱいで、碧のことしか考えられなくて、もっと触れたくて、繋がりたくて、おかしくなる。   「ぅあっ……!?」    まだ毛も生えていない性器に、碧の手が触れる。初めて覚える感覚に、迅は素っ頓狂な声を上げた。何となく恥ずかしくて、口を押さえる。碧は嬉しそうに微笑む。   「ふ、ふ……っ、ちゃんと勃起するんだな」 「あっ、ん、んなとこ……あんま、さわんなよぉ……」 「でも、気持ちいいだろ。こうすると、もっと」 「あっ、あっ、ばかっ……!」    甘やかすように、芯を持った性器を撫でられた。碧の掌が密着していて、碧の熱なのか、それとも、自分自身の体温なのか、区別がつかない。下半身から、蕩けてしまいそうになる。   「あう、あっ、へんだ、へん……っ」 「気持ちいい?」 「きもちっ、けどっ……!」 「もっと、気持ちよくなること、しようぜ」 「も、いいって……おかし、からっ……!」    碧は迅の肩に手を置いて、ぴんと勃ち上がり天を向いている性器の上へ、またがった。はらりと毛布が捲れ落ちる。見てはいけない、裸の体が露わになる。そして、その次の瞬間には、得も言われぬ衝撃が迅を襲った。  体の奥底の、自分自身すらあずかり知らない深い場所から、正体不明の何かが沸き起こり、全身をいっぺんに駆け抜けて、脳天を突き抜けていくような、そんな感覚。初めて知る、感覚。得体の知れない衝撃。衝動。  気づくと、迅は碧に馬乗りになっていた。頭がぼんやりとして、何がなんだか分からないまま、体だけが動いていた。  おちんちんの先っぽから、何かが漏れそう。おしっこが、出そうで出ない。出したいのに出ない。そんな感覚が続いていた。この感覚が、気持ちいいということなのだろうか。体は、熱を求めて勝手に動く。  碧は、迅に組み敷かれ、揺さぶられて、笑っていた。違う。泣いていた。泣きそうな顔で、笑っていた。涙が頬を濡らしていた。  ひとがこんな表情をする時、それはどんな感情の時なのだろう。それを知るには、迅はまだ幼すぎた。こんな時、どうしてあげればいいのかさえ、分からない。頬を濡らす涙を、拭ってあげることしかできない。   「迅……」    碧が小さな手を伸ばす。   「もっと、つよく……」    二人の影が重なる。迅は碧を抱きしめる。   「つよく、だいて……もっと、だきしめてっ……」    碧の声が切なく響く。瞬きをすると、涙が零れる。舌に乗せると、儚く溶ける。   「ああうっ、もっと、もっと、っ……つよく、だいてっ、めちゃくちゃにして……!」    抱きしめた体が震える。かつて二人を包んでいた毛布は、敷物となって床を覆い、柔らかな毛布の上、碧は肢体を捩じらせて、髪を乱して、涙を散らす。  迅が上になったり、碧が上になったり、二人して毛布に包まりながら抱き合ったりした。肌と肌を擦り合わせ、体温を分け与えて、魂まで一つになって、こうして生まれた熱は、一体どこへ行くのだろう。全てを抱きしめて、余すことなく飲み干してしまいたい。  碧の体が、白くぼんやりと霞んで見えた。それはきっと、湯気のようなものだったのだろう。熱を帯び、汗ばんだ体から水分が蒸発して、夜の空気に冷やされて、露を結ぶ。迅は、碧を強く抱きしめた。必死になって抱きしめた。夜が明けなければいいと思った。        肌を重ねて温め合って、いつの間にか眠っていた。格子戸から差し込む朝日に、迅は目を覚ます。毛布に包まれ、裸のまま抱きしめ合って、眠っていた。ミーコも、二人の間に潜り込んで眠っている。ふわふわの毛が気持ちよかった。  気怠さの残る体を起こす。風は冷たいが、嵐はやんでいた。空が淡く色づいている。  さて、いつまでも裸のままではいられない。迅は、脱ぎ捨ててあった下着を拾った。全然乾いていないどころか、氷のように冷たくなっていた。しかし、他に着るものもない。我慢して、濡れた服を着る。   「碧? なぁ、もう朝だぞ。帰ろうぜ」    呼びかけるも、返事はない。ミーコも目を覚まし、気持ちよさそうに伸びをしているというのに。長い尻尾が曲線を描く。   「あおい~? なんだよ。朝弱いとか、そういうタイプ?」    迅は毛布を捲った。寒くて起きるだろうと思った。  碧は、確かにまだ眠っていた。しかし、それはただ眠っているという意味ではない。ぐったりとして、苦しそうで、息は荒いのに顔は白く、唇は青く、冷たい汗が滲んでいた。   「あ、あ、碧!? な、だ、大丈夫かよ!?」    どう見ても大丈夫ではない。昨晩、雨に打たれたのがよくなかった。いや、裸で眠ったのがよくなかった。おそらく両方だ。ただでさえ白い体が、雪よりも白く透けて見える。ミーコも不安そうに、碧の周りをぐるぐるしている。   「な、なぁ、碧! 起きろってば! 起きろよ!」    迅が大声で呼びながら揺さぶると、碧はようやくうっすらと目を開けた。黒い瞳に涙の膜が張っている。   「っじ……ん……」 「うん、俺だよ。苦しいの? どっか痛い? 大丈夫かよぉ……」 「……さむい……」 「とっ、と、とりあえず、服! 服着ねぇと! 家、この近くなんだよな?」    迅は碧を抱き起こし、社殿の隅に放ってあった服を着せた。濡れた服など、余計に体温を奪うだけだが、替えがないのだから仕方ない。ふらつく碧に肩を貸して、朝焼けの道を二人で歩いた。  粗いアスファルトの道路が続く。地面は雨に濡れていた。朝日を反射し、キラキラ光る。まるで、銀の砂を敷き詰めたみたいだった。  昨晩のみぞれは、明け方に雪に変わったらしい。道端の空き地や草むらが、うっすらと白く色づいていた。枯草の雪化粧が少しずつ溶けだして、朝日を浴びて煌めいている。  鳥居の前で二人を見送ってくれた、ミーコの小さな影は、既にはるか後方だ。水たまりに、朝焼けの空と七色の虹が落っこちている。泥だらけのスニーカーを濡らしても、空は変わらずそこにある。  碧の家は、坂を下った先にあった。町外れのあばら家というにふさわしい、古びた借家だった。今にも倒れそうなブロック塀を背にして、碧は立ち止まった。   「もう、いい。ここで……」 「けど、一応玄関まで」 「いい、もう……お前もかえれよ」 「……ほんとに大丈夫か? ふらついてない?」 「大丈夫……玄関、すぐそこだし」 「……じゃあ……」    迅が手を離すと、碧は塀に体を預けた。   「悪かったな、わざわざ……」 「気をつけて帰れよ?」 「ふ、お前こそだろ」 「……」 「……」 「じゃ、じゃあ、また学校で、な?」 「ああ。じゃあな」    家に入る姿を見られたくないのか、碧が塀の前から動かないので、迅は諦めて踵を返した。  少し歩いて、振り返ると、碧はまだ同じ場所にいて、手を振る。今すぐ倒れてもおかしくないくらい、体がしんどいはずなのに、背伸びをして気丈に振舞っている。そう思うと、なんだか胸が苦しくなって、迅はもう振り返らずに、一目散に駆けた。  その日、迅も時間差で体調を崩し、一週間も学校を休んだ。久しぶりに登校すると、碧はまだ休んでいて、卒業まで一度も学校に来なかった。  ミーコにも会いに来ない。迅は何度、碧の家を訪ねてみようと思ったか知れない。しかし、あの晩のことを思い返すと、どんな顔で会えばいいのか分からなくなる。碧はなぜ、あんなことを? どんな気持ちで? 考えれば考えるほど、分からなくなる。  結局、一度も顔を合わさないまま、小学校を卒業した。

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