3 / 15
第二章 ① 桜
早咲きの桜は、入学の頃にはほとんど散っていた。これから毎日通うことになる教室に、初めて足を踏み入れて、迅は目を見開いた。
窓際で、物憂げに空を見上げる。春風の散らした花びらを睫毛に乗せて、払いもしない。その横顔を、迅はずっと探していた。
「碧」
思わず声が震える。迅の声に、碧はいつも通りに振り向いた。
「中学でもよろしくな」
「うん……!」
何となく、二度と会えないような気がしていた。昨年の夏、突然転校してきたように、また突然どこかへ転校して、迅の前からいなくなるのではないかと思っていた。
しかし、心配は杞憂に終わり、二人は一緒に中学へ上がり、再び同じクラスになり、少なくともこの先一年は、同じ教室で学生生活を過ごすのだ。
「お前が来ないんで、ミーコ寂しがってたよ? うまいおやつももらえなくなるし」
「結局餌目当てかよ」
「そりゃそうだろ。お前の持ってくるごはん、うまいもんな」
「お前が食ってどうすんだ」
放課後、特に示し合わせることもなく、二人は共に帰路についた。まだ着慣れない学生服に、学生カバンに、舞い上がる桜の風に、なぜか気持ちが弾んだ。
「それで、お前はどうなんだよ」
「なにが?」
「おれがいなくて、寂しかったか?」
碧は、いたずらっぽく目を細める。神社はもう目の前だ。碧は鳥居をくぐり、境内へ足を踏み入れる。その小さな背中に、黒い制服に包まれた背中に、迅は思い切り飛びついた。碧は驚いたように身動ぎするが、強く抱きしめて離してやらない。
「さみしかったに決まってんだろ、バカ」
「っ、迅……」
「学校にも、ここにも来ねぇし、先生も何にも言わないし、誰も何も知らないって言うし、俺はてっきり……もう、会えねぇのかと……」
「……悪かったな」
抱きしめた手に、碧の手が重なる。あの夜に触れたのと同じ温度だ。碧が肩越しに振り向くから、まるで吸い寄せられるように、唇が近づく。
にゃあん、と足元で声がした。ふわふわの感触がスラックス越しにも伝わる。碧が手を差し出すと、ミーコはくんくんにおいを嗅いで、小さな頭を擦り付けた。
猫は三年の恩を三日で忘れる、などということわざがあるが、犬派の流したデマに違いない。ミーコは、碧を忘れていないどころか、会って数秒で甘えたモードだ。ごろんと転がってお腹を見せ、柔らかいお腹を撫でてもらい、ごろごろ喉を鳴らして喜んでいる。
「ふふ、ミーコは利口だな。なんか、やせたか?」
「たぶん、夏毛に変わる時期だから」
「へぇ。でも、ふわふわだ」
碧は嬉しそうにミーコを撫でる。ミーコばかり構ってもらえてずるい、などと、訳の分からない感情が胸に渦巻く。そんな迅の様子を見て、碧はまたもいたずらっぽく笑った。
「ミーコにやきもちか?」
「どういう意味だよ?」
「なんだ、違うのか」
「だから、意味分かんねぇって」
迅が撫でれば、ミーコはリラックスして目を瞑る。香箱座りで、長い尻尾が春風に揺れる。
「なぁ、迅」
碧の声が、春風に乗って響く。
「あれから、オナニーしたか?」
「ぶふっっ」
情緒の欠片もない問いかけに、迅が思わず吹き出すと、ミーコはびっくり箱のように飛び上がった。碧の身長は優に超える大ジャンプだ。華麗に着地し、物陰に隠れる。
「何やってんだ、バカ。ミーコが驚いてんだろ」
「いやそれこっちのセリフだから! 急になに? お前、いきなり下ネタとか言っちゃうタイプだったっけ!?」
「別に普通だろ。おれたち、もう中学生だぞ。オナニーの話くらい」
「そ、そういうもん……?」
社殿へ上がる階段に、碧が腰掛ける。迅も隣に腰を下ろす。
「で、したのか?」
「まだその話続けんの!? つか、お前こそどうなんだよ? 俺にばっかり言わせようとしやがって」
「おれか? 気になる?」
「ああ、おおいに気になるね!」
半分ヤケになって言い捨てると、碧が学生服のボタンに手をかけ、脱ぎ始めるので、迅は慌てて止めに入った。
「はっ!? なっ、なにしてんの!?」
「気になるんだろ? おれのオナニー」
「そっ、そりゃ、なんていうか、言葉のアレで……別に実践してくんなくてもいいっていうか……。大体、まだ明るいし? しかもほら、こんなとこで……」
「こんなとこ、どうせ誰も来ねぇだろ。今までだって」
「そ、れは……そうかも、だけど……」
ごにょごにょと口籠っている間に、学ランが脱ぎ捨てられる。ワイシャツの小さなボタンが、裾から一つずつ外される。スラックスのベルトが緩み、白い腹がちらりと覗く。ただ白いだけじゃない。白の奥に桜を透かしたように、仄かに紅潮して見える。
それは衝動的なものだった。迅は、碧の手首を掴んで、押し倒す。碧は、階段の段差に背を仰け反らせながら、口の端に喜色を滲ませる。迅に押し倒されているというのに、あえて、挑発的な眼差しで誘う。
「言っとくけど、俺、お前で精通したから」
迅が告げれば、碧の瞳は期待に揺れる。愉悦を滲ませた唇が、何か言葉を発する前に、迅はそれを塞いでしまった。
夢の中では何度も触れた、碧の唇。碧の味、碧の音、碧の熱。焦がれていた全てが、今ここにある。
迅は夢中で舌を伸ばす。碧の口内を隈なく探る。碧が舌を絡ませて、奥へ迎え入れてくれるので、迅も必死で舌を絡める。舌先を甘噛みしたり、溢れる唾液ごと吸ってみたり、やりたいことは何でもやった。
「ぁ、はっ……っあ、はあっ……っ」
唇がふやけるほど吸って、顔を上げた。碧は苦しげに息を切らす。口の周りは唾液で濡れて、もちろん、迅の口元もびしょびしょだった。
苦しげに胸を喘がせる碧の姿を見ていると、手首を掴む手に力が入る。迅が、もう一度顔を近づけると、碧は身を捩って首を振った。
「まてっ……せめて、中で……」
「……うん」
錠の外れた格子戸を開け、社殿へ勝手に上がり込む。慣れない制服を乱暴に脱ぎ捨てて、裸の体を重ね合わせた。
木漏れ日は優しく、風はもう冷たくないのに、肌と肌を擦り合って、体温を分け合って、互いの体を温め合った。
初めての夜に比べれば、いくらか手慣れたところはあったが、夢の中と比べれば、ずっとずっと拙い。それでも、本物の碧の熱は、妄想や夢とは比べ物にならないほど熱く、迅の手足を、胸の奥を、体の芯まで、温めた。この温もりは、全てを投げ打ってでも、抱きしめるに値する。
「……なぁ」
腰が動かなくなるまで、互いの熱を貪り食った。床板に直接寝転んで、休んでいる。シャツとズボンだけは身に着け、ボタンやベルトは留めずにいる。
「こういうのって、好き同士の男と女でするもんだよな」
迅が呟くと、碧は軽く寝返りを打った。
「男同士だって、できるだろ。現に、しただろ」
「そりゃそうなんだけど。なんか、不思議な感じ」
「……別に、大したことじゃねぇよ。世の中には、変わった趣味のやつも多いし……男同士でするのなんて、全然普通だ」
「そうなの? よく分かんねぇけど」
「……ああ」
碧の指先が、迅の髪に触れる。手慰みに糸をより合わせるように、指に髪を絡めて遊ぶ。迅が体を起こすと、碧は残念そうに笑った。
「もっかいしたい」
「まだ勃つのかよ」
「ヨユーだし」
「……あと一回だけな」
「分かった」
「ちゃんと外に出せよ」
「分かってるって」
着たばかりの服を脱いで、再び交わった。体はもう疲れているのに、心ばかりが逸って仕方なかった。
あの晩のことを思い出し、迅は何度も、碧で抜いた。あの時は、いくら性器を刺激しても、透明な液体一つ出なかったが、碧を思って一人で性器を弄っていた時、急に、何かが飛び出したのだ。
その正体が精液で、精通と呼ばれるものを迎えたのだと、保健体育の教科書を読み返して知った。迅の体は、碧によって大人になった。
妄想の中で、何度も碧を抱いて、キスをした。その度に少しの罪悪感が芽生え、仄暗い欲求が満たされていくのを感じた。同性の友達でこんなことをするのは、あまり褒められたことではないと、うっすら分かっていた。それでも、性を覚えたばかりの体は、刺激を求めて夜ごと疼いた。
碧が学校に来なくなり、当然、心配する気持ちはあったのに、それでも会いに行けなかったのは、拒絶されるのが怖かったからだ。あんなことをしてしまって、結果的に碧は風邪をこじらせ、迅は碧をおかずに射精を覚え、こんな状態で、どんな顔をして会えばいいというのだろう。
碧は、もう二度と、迅と会うつもりはないのではないか。顔も見たくないから、会いに来ないのではないか。だけど、もしも本当にそうなったら、どうしたらいいか分からない。既に、迅の心の半分以上は、碧が占めてしまっているというのに、この先、一人きりで残されたら、どうしていいか分からない。
だから、また会えてよかった。碧は何食わぬ顔で教室にいて、迅とまた会ってくれて、ミーコのこともかわいがってくれた。何も不安に思うことはなかったのだ。何もかもが、元通り。ただ、一つのことを除いては。
ともだちにシェアしよう!

