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第四章 ③ 破滅
明け方、古い道路に出た。崩れかけていたが、アスファルトで舗装されていた。歪んだガードレールが、急峻な崖に沿って連なっていた。
曲がりくねった山道を延々歩いた。行き先も分からないまま、峠を越え、坂を下った。汗だくの手は繋ぎっぱなしだった。時折、汗で滑った。
やがて、霧が晴れるように森が果てた。山の裾野の小さな平地に、青々とした田園地帯が現れた。そこは別世界のようにのどかで、昨日のことが全て悪い夢のように思えた。
昨日のことも、その前のことも、世界の全てが悪い夢だ。明日には碧と海を渡り、きっと南の島にいる。
道端に、自転車が一台、停まっていた。畦道に、農作業中の老婆が一人、座っていた。青い制服の警察官が、老婆に話しかけていた。
山道を下って、少年が二人、現れた。泥だらけで、服も手足もぼろぼろだった。若い警官の視線は、自然と畑の外へ向かい、少年二人の足取りを追った。
納屋のそばに、バイクが一台、停まっていた。鍵は刺さったままだった。迅の手を握る、碧の手が震えていた。迅は地面を強く蹴り、バイクに飛び掛かってまたがった。
「乗れ!」と叫ぶと同時に、キーを回してエンジンをかけた。碧が荷台へ飛び乗ると同時に、警察官が何かを叫んだ。サイドミラーに、畦道を走る警官が見えた。
バイクに乗るのは初めてだった。スクータータイプの原付バイクで、迅は感覚のままにアクセルを捻った。小さなバイクは、少年二人を乗せて急発進した。ミラーに映る警官の姿は、あっという間に見えなくなった。
取り返しのつかないことをしてしまったと思っても、心はひどく晴れやかだった。この澄み渡る青い空より晴れやかだった。文字通り二人きりで、どこへだって行ける気がした。
「なぁ。ハワイも、オーストラリアも、きっと行こうな」
迅が言うと、碧は迅の背中を抱きしめた。シャツの下を、汗が流れた。
道路は再び、山の中へ入る。どこへ続いているのかも知らないまま、道の進む方向へバイクを走らせた。初めはぎこちなかった運転も、だんだんとこなれてくる。アクセルを思い切り回し、青い風を切って走ると、汗みずくの肌が乾いて気持ちよかった。
「……なぁ」
「なに」
「猫の声、しないか」
「ねこぉ?」
不意に碧が口を開いたと思ったら、そんなことを言い始める。人里からは遠く離れたはずなのに、山猫でもいるのだろうか。碧の空耳を疑いつつ、迅はバイクを減速させる。すると突然、目の前に猫が飛び出した。
「うわっ、なに!?」
思わず急ブレーキをかけた。後ろに座る碧は、迅にしっかりとしがみつく。
「なぁ、ほら。やっぱり猫だ」
山猫ではなかった。野良猫が道路に飛び出したのでもない。赤い首輪に鈴をつけた三毛猫が、碧の腕に抱かれていた。
「なに、こいつ。どっから来たの」
「カゴに入ってたんだ。見えなかったのか」
「全然……」
スクーターの前カゴを覗くと、猫のものらしいクッションが敷かれていた。
三色の毛が絶妙なバランスでミックスしている、三毛猫らしい三毛猫だった。ただ、目の色は青っぽく、ミーコよりも一回り小さい。この春に生まれた子猫だろうか。出会ったばかりの頃、雨上がりの路地裏で震えていたミーコも、これくらいの小ささだった。
「……思い出してるだろ」
猫を撫でながら、碧は言う。
「……何のことだよ」
「ミーコのこと。元気にしてるといいな」
「いいって、もう……どうせ元々野良だし、元気にやってんだろ」
「……でも、お前は時々、思い出してただろ」
「……」
「知ってたんだぜ」
ふわふわの毛並み。ピンクの肉球。碧に撫でられ、猫は甘えた声を出す。迅に飛び掛かってきた時は、毛を逆立てて怒っていたのに、碧に撫でられるのは余程気持ちがいいらしい。その心地よさは、迅もよく知っている。
「いつまでも停まってんな。先進めよ」
「……ちゃんと掴まってろよ」
背中に、子猫の柔らかい感触と、碧の温もりを感じる。両手は、シートベルトのように、迅の腹部へ回される。汗ばんだ背中に、碧の胸がぴったりと密着して、熱い血潮を送り出す心臓の鼓動が伝わった。
「……なぁ、迅」
迅の肩に、碧の柔らかい頬が重なる。触れた部分から汗ばんでいく。風を縫って、碧の声は迅の耳に届く。甘い吐息さえ、耳が感じた。
「迅……好きだ」
二人と一匹を乗せたバイクは、急な坂を登っていく。山の中だと思っていたのに、海が近づいていた。
「愛してる。世界で一番、お前だけを」
碧の唇が、口の端に微かに触れた。甘くて苦い、海の味がした。
この勾配を登るには、このバイクは馬力不足だったのか、いくらアクセルを回しても、進めなくなってしまった。もうまもなく、森を抜けて海に出る。坂の上には青い空が見えているのに、辿り着けそうにない。
碧はバイクを飛び降りた。急に背中が軽くなる。抱いていた子猫を迅の膝に座らせた。碧の温もりが残っていた。
「なぁ。これ、覚えてるか」
碧はポケットの底をさらう。その手に握られていたのは、いつか迅が碧にあげたビー玉だった。
「まだ持ってたのか」
「これを握りしめてたら、どんなことも耐えられたんだ」
碧はビー玉に唇を触れ、迅の手に握らせた。
「お前がいてくれたから、痛いのも辛いのも平気だった。お前とのことを思い出せば、どんなにクソなことでも我慢できた。だから、これはもう、お前に返す」
「……でも、これはもう、お前にあげたもんだぜ」
「ああ。だから、もういらない」
かつては真っ青に透き通っていたガラス玉。手垢にくすみ、削られたように曇っていた。少量の血が、乾いてこびり付いていた。これは誰の血だったか、と考えながら視線を上げると、そこに碧の姿はなかった。
はっと周囲を見回した。碧は一人、崖の上へと向かっていた。迅は急いでハンドルを握り、アクセルを回す。エンジンは唸りを上げるのに、タイヤは一向に回っていかない。
「碧!」
迅の声は届いているはずだった。迅はバイクを飛び降りた。痛いほどに地面を蹴って、青空の覗く崖の上を目指して走る。
粗いアスファルトに足を取られた。深い窪みにつま先が落ちて、全身を強く打ち付けた。鮮やかな真紅の血が地面に流れる。肉の覗いた傷口に、細かい砂利が食い込んだ。
「碧……!!」
それでも、立ち上がらなければならない。走り続けなければならない……のに。
碧はもう崖の上。柵を乗り越え、潮風に吹かれていた。目の眩むような青空に、黒髪が靡いていた。碧は振り向き、微笑んだ。世界中の何よりも、美しい笑顔だった。出会ったばかりの頃、碧が全然笑わないので、笑顔の回数を数えていたことを、迅は急に思い出した。
「迅。愛してたよ」
瞬きのうちに、碧は消えた。紺碧の空に飛び降りた。
蝉の悲鳴が鼓膜を揺るがした。それは次第に金切り声へと変わっていく。その音が、自分自身の喉から響いているということに、気づくまでに時間がかかった。
なんで。どうして。どこまでも一緒に行くって、約束したじゃないか。一人で行ってしまわないでくれ。俺を置いていかないでくれ。お前がいないこんな世界に、生きていたって意味がないのに。
迅の慟哭は、荒波に掻き消された。青い波が断崖を削り、泡となって砕け散り、遥か彼方の海へと返る。ただそればかりを繰り返す。まるで地球の息吹のよう。
足に力が入らない。よろめきながら立ち上がる。傍らで、子猫が鳴いた。碧のカバンのストラップにじゃれていた。迅を見て、もう一度鳴いた。ミーコと似ている、けれど目の色が違う、小さな三毛猫。握りしめていた拳を開くと、青いビー玉が鈍い光を放っていた。
カーブミラーに映る空。千切れた雲が流れゆく。青色が霞み、茜色の光が差して、空が真っ赤に燃え尽きるのを、迅は病院のベッドで見ていた。
*
追ってきた警察に捕まった。病院へ連れていかれ、両親が飛行機で迎えに来た。母に泣きながら叱られ、父も隠れて泣いていた。
一週間かけて来た道のりを、半日もかからずに戻った。病院での検査と、警察署での事情聴取が続き、季節は秋になっていた。学校へも通い始め、家に帰ると、ミーコが玄関で出迎えてくれた。
「……ただいま」
父は仕事を見つけ、母も家に帰るようになった。一度捨てたミーコを、もう一度飼ってもいいと許しが出た。長い長い夏の間、あの廃神社に一人ぼっちで、それでもミーコは待っていた。待っていてくれた。
迅はミーコを抱きしめた。以前よりも毛艶がよく、いい匂いがした。柔らかくて、温かくて、胸に耳を当てると、確かな心臓の鼓動が響いた。生きているのだ。これが命の温度。命の音。碧には、もうない。
迅には帰る家があり、待っていてくれる家族がいた。帰れる場所があるというのは、これほど幸せなことはない。しかし、碧はもう、どこへも行けない。どこへ行くこともできないのだ。
家の中だというのに、雨が降っている。ミーコは不思議そうに首を傾げた。落ちた雨粒を舐めるミーコを、迅は強く抱きしめた。
季節は秋。永遠に続くと思われた夏の暑さは死に絶えた。あの夏に、碧を一人、置き去りにしたまま、迅は今日も生きている。
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