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第四章 ② 露見
翌日、桜島を横目に見ながら、錦江湾を渡った。吸い込まれるような青い海に浮かぶ、雄大な火山島だ。噴き上げた煙が雲になり、晴れた空にたなびいていた。白い雲が、太陽の光を乱反射して、眩しかった。
屋久島へ向かう船の切符を買い、出港までの時間を待つ間、短い船旅で桜島に渡った。百年前の噴火で埋め立てられてできた海岸は、冷えて固まった溶岩がごろごろしていた。どこか荒んで、寒々として、暴力的ですらあったけれども、碧は気に入ったと言って笑った。気泡だらけの軽石を投げると、空に高く翻り、小さく飛沫を上げて海に落ちた。
海岸沿いの遊歩道で、猫に会った。野良猫のようだったが、よく懐いた。分けてあげられる餌もないのに、迅はすり寄ってくる猫を撫でた。碧も撫でた。ミーコのことは、あえて口には出さなかった。
碧が食べたいと言っていたラーメンを、島の食堂で食べた。うまかったが、どの辺りがご当地なのかは、よく分からなかった。全国どこででも、似たようなラーメンは食べられると思った。それこそ、昔住んでいたあの町でさえ。
聞き覚えのある町の名前が読み上げられた。迅は、箸を握る手を止めた。
音の出どころは、カウンター奥の棚の上。小さなブラウン管テレビだった。見覚えのある顔が映され、男の名前が読み上げられる。それから見覚えのある家が映り──テレビ画面で見ると、一層みすぼらしく感じられた。
行方不明になっていた男が、自宅の押し入れで遺体となって発見された。顔面を殴打され、全身をめった刺しにされていた。同居していた中学生の甥が何らかの事情を知っていると見て、警察が行方を捜している。アナウンサーが、抑揚のない機械的な音声で、ニュース原稿を読み上げた。碧の表情からは、何の感情も読み取れなかった。
屋久島行きは取り止めた。市内へ戻るフェリーはひどく混雑していた。客室に大型のテレビが置かれていた。船尾付近のデッキに立ち、ずっと海を眺めていた。対岸の港に着くまでの時間が、永遠のように感じられた。
これから、どこへ向かえばいいのだろう。つい三十分前までは、どこにでも行ける気がしていた。今は、見えない壁が四方に張り巡らされている。
雨が降り始めていた。灰まじりの雨だった。灰だらけになりながら、駅に駆け込んだ。駅構内は、雨宿りをする市民で溢れていた。
碧が、路線図の上を指差した。鹿児島本線を北上すれば、博多まで行ける。線路はどこまでも続いている。先へ進めなくなった以上、後ろへ戻る他ない。
博多行きの切符を二枚買った。雨脚は一層激しく、窓に打ち付ける雨粒が滝のように流れていく。席は空いていたが、車両の隅に立ちっぱなしで、言葉もなく、灰に沈んだ車窓を見ていた。
安全確保のため、しばらく運転を見合わせます。アナウンスが入った。運行再開は未定だった。
無音の車内。息が詰まる。時を刻む音が聞こえた。降りしきる雨が、密閉された小さな箱を揺らした。
ピンポン、とチャイムを鳴らして、半自動の扉が開いた。開閉のボタンを押したのは、迅だった。
湿った風が車内に流れ込む。濡れた土のにおいがした。ホームに降りると、再びピンポンとチャイムを鳴らして、ドアが閉まった。
日没まではまだ時間があったはずだが、真夜中と見紛うほどに暗かった。大粒の雨が泥をはねる。稲妻に切り裂かれた空が泣き叫ぶ。どこへ続いているのかも分からない、駅前の古い国道を、当てもなくふらふら彷徨った。
泥水を飛ばして、一台のトラックが路肩に停まった。気のよさそうな運転手が、窓から顔を覗かせた。道はまもなく山へ入ろうというところだった。
トラックに乗せてもらった。今日中に博多まで行くつもりだったが、この雨で足止めを食ってしまって、途方に暮れている。というようなことを話した。迅が言ったのか、碧が話したのか、分からなかった。
「しかし、あんな時間にあんな道、もう暗いのに、ガキ二人でどこまで歩くつもりだったんだ」
ハンドルを握り、男は尋ねた。二人が答えるのを待たず、男は言葉を続けた。二十一世紀とはいえ、山の中は恐ろしい。特に夜は危ない。この辺りに熊はいないが、鹿や猪はよく出るぞ。電車は雨だの風だのですぐ止まるが、トラックは年中無休で安全だから、全国一周するなら鉄道旅よりヒッチハイクだろ。というようなことを、どこの地方かは知らないが、訛り言葉でべらべら喋った。
「遠慮しないで、眠いなら寝ていいからな。着いたら起こしてやるから」
そう男に言われたが、全く眠くなかった。体は疲れていたのに、試しに目を瞑ってみても、全く眠れなかった。
碧の手を握っていた。雨に濡れて冷え切っていた。太いワイパーが力強く上下に動いて、打ち付ける大粒の雨水を押し流していた。何も言わず、ただじっと、濁流の流れていくのを見ていた。
男の手が、カーステレオのダイヤルに伸びた。ラジオのチューナーを合わせると、音楽が流れた。音楽が何曲か続けて流れ、広告が入り、道路情報と気象情報が読まれ、続けて、全国のニュースが報じられた。
殺人死体遺棄事件の新情報を、アナウンサーの無機質な声が告げた。聞き馴染みのある町名と、被害者男性の名前が読み上げられ、それから碧の名前を──
ぶつん、とニュースは途切れた。ラジオのダイヤルを回したのは、迅だった。運転手の男は、ハンドルを握ったまま、怪訝そうに迅を見た。
「……ここで降ります」
言ったのは碧だった。
「……こんな山奥で?」
男はますます訝しんだ。しかし、一刻も早く、この空間を離れたかった。狭い箱の中から逃げ出したかった。トラックはまだ走っていたが、碧が無理やりドアを開けたので、男はブレーキを踏み込んだ。
こんな場所で降りてどうするつもりだ。麓の町まで何キロあると思ってる。博多まで行くんじゃなかったのか。そう運転手は捲し立てたが、碧はトラックを飛び降り、迅もそれに続いた。街灯もない、雨降る夜道を駆け、藪の中へと消えた。
こんな場所で降りてどうするつもりなのか、二人にも分からなかった。麓の町まで下りてもいいし、下りなくてもいい。一生二人きりで、森に暮らしたっていい。光を見失ったまま、夜の森を彷徨い歩いた。
濡れた葉っぱが顔に張り付いた。飛び出した枝葉が手足を切り裂いた。木の根に足を引っかけて転び、泥だらけになった。濡れた落ち葉に足を滑らせ、斜面を転がり落ちた。苔生した岩場に体を打ち付け、全身が痛んだ。傷口に泥水が沁みた。
「う…う……」
ぐったりと地べたに倒れ伏して、碧の声が暗闇に聞こえた。泣いているのか、笑っているのか、ただ痛みに呻いているのか。迅は手探りで碧の腕を掴んだ。振り払うそれをもう一度掴み、濡れた地面に押さえ付けた。
「あ…あ……や……」
形ばかりの抵抗を示す碧の、濡れた衣服を剥ぎ取った。キスは泥の味がした。濡れているのは雨のせいか、涙のせいか、分からなかった。
冷えた体を重ねたって、寒いだけだ。それでも、そうせずにはいられなかった。碧の熱、脳神経が焼き切れるほどの、体の熱。これに触れていなければ、迅は自分を失いそうだった。輪郭さえも、闇に溶けてしまいそうだった。碧の熱だけが、自分という存在を確かめる、ただ一つの証明だった。
碧が迅の手を握った。冷えた指先を重ね合わせ、自身の首へと導いた。
細い首筋に触れる。頸動脈が強く脈打っていた。熱い血潮を感じた。命の熱さだった。
気づくと雨はやんでいた。月明かりが碧を照らした。細い首筋に、迅の両手が巻き付いていた。
ぎょっとして手を離した。白い首に、赤い手の跡が残っていた。碧は笑っていた。
碧は静かに身を起こした。咳をして、何かを吐いた。迅の胸倉を掴むと、濡れた地面に押し倒し、足を開いてまたがった。
「う゛……うう……っ」
獣じみた悲鳴が響く。奥から溢れ出すのは、碧の血だ。迅の傷口に滲み込んだ。
雲の切れ間に差し込む月光が、碧の白い肢体を照らした。輪郭が青白くぼやけ、白い肌は一際白く透き通っていた。向こう側が透けて見えそうなほどに、白かった。奥に見える闇から逃れたくて、迅は碧を抱き寄せた。
舌をねじ込み、唇を重ねた。とめどなく溢れる唾液を絡めて、舌を絡めた。碧の味が、胸を満たした。肺も、胃の腑も、全てが碧で満ちていた。
ガリッ、と突然衝撃が走った。舌先が痺れて、口いっぱいに、錆びた鉄の味が広がった。鮮血の混じった唾液が糸を引く。月に照らされ、夜露のように艶めいていた。血に濡れた唇を歪め、碧は笑った。
腕を引かれ、迅は体を起こした。導かれるまま、碧に覆い被さった。口を開くと、舌先から血が滴り、碧の舌を赤く染めた。
キスは血の味がした。舌と舌を重ね合わせ、擦り合わせて、傷口が開いた。血のにおいが鼻粘膜を削る。唾液と血液が混ざり合って泥になる。どろりとした熱いものが頬を灼く。舌を灼く。喉を灼く。胸の奥まで、心の臓まで、焦がされる。
このまま一つに溶け合えたなら、どれだけいいだろう。二人で一つ、ゼリー状の生物になって、くっついたり分かれたりしながら、月夜の森を跳ね回るのだ。
そんなこと、できるはずがない。分かっていた。中学生なんて、子供ではなく、大人でもなく、生物として最も中途半端な存在だが、それでも、この世には魔法も奇跡も存在しないということだけは、身をもって知っていた。きっと、碧も分かっていた。碧は全部分かっていた。
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