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第四章 ① 最果て

 大阪から鹿児島まで、海路で向かおうと言い出したのは、迅だった。ただ、船に乗ってみたかった。   「俺、フェリーって初めてだ」    出港の合図に、長声一発、船は汽笛を響かせる。桟橋に繋がれたもやいが外され、煙突は黒煙を巻き上げる。打ち寄せる波に逆らって、船はゆっくりと離岸する。見送りのウミネコが港を飛び立ち、船と並走する。本当に猫のような声で鳴くので、迅が手を伸ばして戯れようとすると、碧は笑った。   「おれだって、こんな船、初めてだ」    少しの間だったが、滞在した大阪の街に別れを告げる。決して寂しいわけではないのに、港が遥か後方に見えなくなるまで、甲板で手を振った。  明日の朝には、鹿児島に着く。着いてしまう。そうしたら、次はどこを目指せばいいのだろう。碧の、死んだ母親の故郷の海を見て、その後は、どこへ行ったらいいのだろう。   「眠れねぇのか」    隣で寝息を立てていたはずの碧が、寝返りを打った。   「……なんか、揺れるから」 「そりゃあ、船なんだから、揺れるだろ」    二人が泊まったのは、一番安価な雑魚寝の大部屋だ。最低限の寝具のみが用意され、一応カーテンで仕切れるとはいえ、赤の他人と肩を並べて眠る。その上、船首に近い位置に詰め込まれているせいか、波の衝撃をもろに受けて揺れやすい。決して快適な船旅とは言えないが、この最安プランで旅をする物好きも意外と存在しているらしく、寝床は半分以上埋まっていた。部屋のあちこちから、いびきだの歯軋りだのが聞こえてくる。   「お前も眠れなかったの」 「こんなとこで熟睡できる方がどうかしてるだろ」 「確かに」    抜き足差し足でドアを開け、こっそりと廊下へ出た。薄暗い照明が、真っ暗だった室内との対比で、ひどく眩しく感じられた。  出港の頃、あれほど賑わっていた船内が、いまや無人と化していた。食堂も売店もとっくに閉まっていたが、自販機コーナーだけは唯一明るく、古い蛍光灯が静かに唸りを上げていた。  船は現在、高知沖数十kmを航行中だ。無人のロビーに、案内の電光掲示板が出ており、リアルタイムで現在地を示している。  デッキへ出ると、真夏とはいえ、海上を吹き渡る夜風は冷たく、身震いした。右舷側から、陸地があるであろう北の方角を眺めていると、頼りない明かりが点々と灯っているのが見えた。その中でも、一際眩しく、夜の闇を薙ぎ払う光があった。   「あれが足摺岬だ。岬の灯台が光ってる」    碧は指を差して言う。それから、すっと指先を滑らせて、西の方角を指した。   「あれが九州」    指の先には、真っ黒な海が、口を開けて待っているだけ。陸地はあまりにも遠く、沿岸の街明かりさえ、目には見えない。それでも確かに、この深い闇の向こうに、目指すべき場所があるのだ。目印のない、茫洋なだけの海の上を、船は迷いなく舵を切って進む。このまま西へ、西へ西へと進んでいけば、いつかは故郷の海へ出るのだ。  甲板の手摺にもたれて、碧は迅に寄り添った。触れる体温が心地いい。   「着いたら、何がしたい」    波の音よりもはっきりと、碧の声は耳に届く。   「何があんのか、よく知らねぇもん」 「案内所に、観光パンフ、置いてあったろ。見てみるか」    無料でもらえる薄い冊子だったが、一晩中ページを捲り、旅の予定を立て、ロビーの隅で寝落ちした。    翌朝、昨晩は闇が広がっているだけだった水平線の向こうに、島影が見えてきた。あれが、九州の山や岬。港が近づくにつれ、ウミネコが船の周りを飛び交って、歓迎してくれているようだった。迅がパンくずを投げると、その黄色いくちばしでキャッチしてくれ、それを碧に自慢すると、碧も張り合ってパンくずを投げた。  船はとうとう入港し、岸壁に接岸する。もやいが繋がれ、タラップが下ろされて、半日ぶりに踏みしめた大地は、どっしりと揺るぎなく構えているように感じられた。  港から路線バスに乗った。市街地へ向かうにつれ、病院へ向かう老人や、学校・塾へ向かう学生で混み合い、市街地を離れるにつれ、車内は閑散としていった。いくつもの長いトンネルを抜け、バスは深い山の中へと入っていく。商店はおろか、屋根瓦の一枚さえ見当たらない。降りる客もいなければ、乗ってくる客もおらず、いつしか貸切バスと化していた。  長いバス旅の果てにようやく辿り着いたのは、小さな漁村だった。そこがバスの終点であるが、目的地はまだ先にある。ここからはバスもなく、鉄道なんてもちろんなく、徒歩で進むしかない。目的地まで直進8kmの看板が見え、気持ちが萎える。げっそりと肩を落とした迅を尻目に、碧は一歩を踏み出して、早く来いとばかりに顎をしゃくった。    道路は、意外にも整備されていた。しかし、やはり秘境の漁村ということで、お世辞にも栄えているとはいえず、廃校になった小学校と、廃墟になったホテルを過ぎると、その先はひたすら山道が続く。つづら折りの山道を登り、峠を越えて、緩やかな坂を下り、すると突然視界が開け、海の青が網膜を焼いた。  静かな入り江だった。険しい山とせり出す岬に囲まれている。まるで、遠い昔に時が止まってしまったかのような、静かな青い入り江だった。  太陽光をたっぷり浴びた砂浜は、その一粒一粒に光を灯したように透き通り、真っ白に輝いている。沖合に小島が浮かび、波はない。限りなく透明に近い、真っ青な海を湛えて、入り江は静かにそこにある。  堤防を越えて、砂浜に降りた。靴なんて履いていられなくて、裸足になって駆けた。「熱い熱い!」とはしゃぎながら、波打ち際を駆け回った。碧が波に足を取られて転び、その上へ覆い被さるようにして、迅も砂浜に飛び込んだ。柔らかい砂が、焼けた肌の下で細かく砕ける。  人目も憚らず、キスをした。どうせ無人の海岸だ。南国の香りがした。  覆い被さったまま、じっと碧を見つめた。前髪がめくれて、露わになった額に汗が浮かんでいる。舐め取ろうとすると、碧はさらに汗を滲ませて、迅を押しのけた。   「だめ?」 「だめ」 「なんで」 「なんでも」    砂浜に二人、寝転んで、寄せる波に足を濡らした。焼けた砂浜は鉄板のように熱いが、海の水はひんやり冷たい。碧がつま先で波を跳ね、迅にちょっかいをかけるので、迅も波を蹴散らしてやり返した。透き通った波飛沫が、碧の黒髪を濡らし、太陽の光を浴びてキラキラ光った。  小さな入り江を過ぎると、道は再び山の中へと続いていく。山肌へ張り付くように通された山道を登り、山を穿って通したトンネルを抜ける。風の音と波の音、硬い地面を叩く足音とが反響した。  トンネルの向こうは一層山深く、道も険しい。南国を思わせる植物が我が物顔で生い茂り、青々とした葉や蔓を縦横無尽に伸ばしている。蝉が、一週間の命を燃やして交尾の相手を探し求め、大地を揺るがす勢いでわんわん鳴き狂っている。  滝のように流れる汗を拭い、息を切らして階段を上り、坂を登り、ようやく青空が見えてきた。咽返るような緑の匂いから一転、青い潮風が頬を撫でる。広大な太平洋が、見渡す限り広がっていた。  絶景を目にした感動と、ここまで登ってきたのだという達成感で、迅は碧を抱きしめていた。焼けた肌の上で、汗が滑った。  入り江で見たのと同じ、底まで見通せるような、透き通った青い海。だが、入り江で見たのとは違い、打ち寄せる波は荒々しい。切り立った崖の険しい岩場に、太平洋の荒波が打ち付け、波飛沫が白く砕ける。覗き込むと、足が竦んだ。  ここが本土最南端。自転車旅に始まり、箱根の峠を越え、ヒッチハイクをし、鉄道に揺られ、海を渡って、バスに揺られて。そして辿り着いたこの場所は、迅にとっては、ほとんど世界の最果てだった。  碧が、海の向こうを指差した。水平線は弧を描き、地球が丸いことを教えている。碧の指の先を、じっと目を凝らして見てみると、ぼんやりと島影が見えた。一つではない。二つ、三つ、それ以上。   「……明日は、もっと南に行ってみるか」    迅が言うと、碧は驚いたように目を見張る。迅は碧の手を握り、指を添えて、海の向こうを指し示した。   「あれが、屋久島。こっちが種子島だろ? その先は?」 「……奄美」 「ふーん。甘そうな名前」 「違ぇよ。奄美大島。その向こうが沖縄で、その先は……」 「その先は?」 「……台湾とか、フィリピン」 「俺ハワイ行きてぇ」 「ハワイはもっとあっちだろ。それ言うなら、おれはオーストラリアがいい」 「お~、いいじゃん。コアラ抱っこしてぇ」 「グレートバリアリーフが見たいんだ」 「なんか珊瑚礁だっけ。魚?」 「ああ。お前も知ってるくらいだから、よっぽど綺麗なんだろうな」 「一言余計なんだよ」    ハワイもオーストラリアも、その響きはあまりに遠く、その分だけ魅力があった。   「俺、お前となら、どこまでだって行くよ」 「どこまでって、どこまでだよ」 「どこまでもはどこまでもだろ。二人で地球一周しようぜ。海だけじゃなくて、雪山とか、砂漠とか、いろんなもん見て回ってさ。絶対楽しいだろ」 「……そりゃあ、愉快な旅になりそうだな」    そんなことは不可能だ。できるはずがない。それでも、この時の迅は真剣だった。叶うはずのない夢物語を、大真面目に語っていた。  展望台のベンチで、日が暮れるまで海を見ていた。屋久島への高速船が、波を蹴立てて走るのが見えた。手を振ってみても、向こうはこちらに気づかない。  世界の全てを置き去りにして、太陽は水平線の彼方に沈む。たとえ走って追いかけても、あの高速船でさえ、決して追いつくことはない。あんなに青かった海も空も、分け隔てなく血の色に染まる。昼と夜の境目に、夕日の最後のひと絞りが溶けていく。このまま時が止まればいい。昼も夜もなく、今この瞬間が永遠になればいい。  どこまでだって、行けると信じていた。碧と二人なら、どこへ行っても、何をしても、生きていけると。隣に碧がいてくれるのなら、碧さえいてくれるのなら、もう決して迷わないと。遠くに霞む微かな光を目印に、長い旅を続けてきたが、光なんか見えなくたって、肩に触れる温もりさえ、そこにあってくれるのなら、きっと真っ直ぐに歩いていける。    野宿になっても構わないと考えていたが、あの入り江の集落に、小さな民宿を見つけた。蛍光灯の切れかけた看板がチカチカ明滅していたが、呼び鈴を鳴らすと玄関が開いた。  老夫婦が経営している民宿だった。事情を話すと──といっても、半分以上は嘘である。まさか日に一本しかバスがないとは思っていなくて、途方に暮れているんです。というようなことを涙ながらに訴えたら、快く部屋を用意してくれた。   「よかったな。泊めてもらえて」    糊の利いた浴衣に袖を通し、部屋いっぱいに敷かれた布団に寝そべって、今日一日の疲れを癒す。かなり歩いたので、足が痛い。   「明日は、屋久島行くんでいいんだよな」 「ああ。日に何本か、船が出てるらしい。岬で見たあれだな」 「結構速そうだったよな。乗ったらどんな感じなんだろ」    旅なんて、予定を立てている時が一番楽しい。ロビーに置かれていたガイドブックは、数年前に刊行された古いもので、多くの旅人にこうして読まれてきたのだろう。表紙は日に焼けていたし、ページは折れたり破れたりしていた。   「俺、これ食べたい。白くま」 「ただのでかいかき氷じゃねぇか」 「んなことねぇって。ここに紹介されてるくらいだし」 「おれはラーメンがいい」 「それこそ、どこででも食えるじゃん」 「どこででもは食えねぇから、ご当地ラーメンなんだろ」    明日なんて来なくていいと願いながら、遠い明日に思いを馳せ、海の彼方に思いを馳せる。ページを繰る碧の指先に、頬に影を落とす睫毛に、見惚れていると時が過ぎる。   「……なぁ」    不意に、碧が口を開いた。同時に本を閉じる。   「さっき言ってたの、本気か」 「……」 「どこまでも一緒にだなんて、馬鹿げた話を」 「本気だぜ」 「……」    こちらを見つめる碧の瞳が潤んで見えたのは、蛍光灯が反射していたからだろうか。   「バカだな」 「お前には負けるけどな」 「でも、うれしい」    視線が絡み、自然と唇が重なる。何度目のキスになるのだろう。あと何回、唇を重ねることができるのだろう。  薄い布団に身を横たえて、体を重ねる。帯を解き、浴衣を脱がすと、露わになるのは、傷一つない美しい体。まるで、降り積もったばかりの新雪。手付かずの雪原。唯一残っているのは、乾燥したカサブタだけ。それももう剥がれ落ちそうだ。生まれたてのピンクの肌が、カサブタの裏に覗いている。  日に日に薄まっていく痣。消えていく傷痕。そんなものを目にする度に思う。絶対に、間違ったことはしていない。自分は正しいことをした。親を捨て、ミーコを捨て、こんな世界の果てにまで来てしまったこと。碧を選んだこと。人を、殺したこと。何一つ、後悔はしていない。   「いてぇよ」 「ごめん」    迅が手を離すと、碧は手首を摩った。   「考え事か」 「お前のことな」 「……しょうがねぇから、おれが動いてやる」    一旦離れた体が、再び重なる。しかし、今更何を変えたところで、何も変わりはしないのだ。  眠れないまま、夜が更けていった。窓を開けると、波の音がした。どこか懐かしい気持ちになった。昼間あれほど鳴き狂っていた蝉は、いまやすっかり眠りにつき、秋の虫が静かに歌っていた。風はすっかり冷たく、秋の気配を匂わせていた。  迅は、じっと手を見つめ、握りしめた。この手で、確かに人の命を奪った。たぶん、きっと、殺したはずだ。ビール瓶で殴り付けた衝撃。肉が裂け、骨の砕ける感触。迸る鮮血の生温かさ。全て知っている。知っているはずなのに、今この手が覚えているのは、碧の温もり。肌の甘さ、柔らかさ。そればかり。それ以外のことは、覚えておく価値もないというのか。  人間は、過去を全て失っても、生きていくことができるのだろうか。過去の記憶、おぞましい出来事、全てをなかったことにして、忘却の彼方に置き去りにして、そうして生きていけるのか。どうやって生きていくというのだろう。   「……するのか?」    布団に潜り込むと、眠っていた碧を起こしてしまった。迅は答えもせずに、碧の肌に手を触れる。   「くすぐってぇよ、ばか」    忍び笑いをして、碧は迅を受け入れる。  碧に触れていると、気持ちが安らぐ。恐怖も不安も消えていく。煩わしいこと全てから解放される。自由になれる。今、ここでこうして息をしているのだということを、証明してくれる。   「っ……なぁ、窓……」 「いいから」 「下に、聞こえる……っ」 「いいって。海が近いから」 「ぁ、っ……」    何がいいんだよ。という碧の文句は、絡め取って呑み込んだ。

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