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第三章 ④ 花火
翌朝、ホテルを出るタイミングには苦労した。早すぎても目立つし、チェックアウトぎりぎりでも、他の客と鉢合わせることになるだろう。ドアに耳を当て、外の様子を窺いながら、タイミングを見計らってドアを開け、廊下をこそこそと走り抜けた。無事、誰にも会わずホテルの出口へ辿り着き、外の空気を吸った時には、達成感まで覚えた。
晴れた、いい日だ。空は青く澄み渡り、風は爽やかに頬を撫でる。一晩ぐっすり眠ったおかげで、活力が漲っている。頭も体も、心も軽い。
「花火だって」
店先の掲示板に、花火大会のポスターが貼られていた。二人は顔を見合わせる。「行くか」と、どちらからともなく言った。
夜まではまだ時間がある。遠路遥々、こんなところまで来たのだ。観光客のふりをして街歩きをしてみるのも、悪くはない。
写真ではいくらでも見たことのある、道頓堀と戎橋。グリコの看板も、ガイドブックに載っていた写真そのままだ。巨大なカニの看板や、くいだおれ人形や、フグの提灯や、通天閣や、名所と言われる場所は一通り見て回った。
たこ焼きやお好み焼き、串カツや豚まん、名物と呼ばれるものは一通り食べた。クレープやソフトクリームなど、特にご当地グルメというわけではないものでも、食べ歩きをすると格段においしく感じられた。碧と二人で街を歩いているという事実だけで、浮き立つような思いがした。
花火会場の最寄り駅から、打上場所の河川敷まで、凄まじい混雑だった。人の流れには逆らわず、ただ、離れ離れにだけはならないように、しっかりと手を繋いだ。濁流のような人混みの中で、碧の汗ばんだ掌が、迅を導く道しるべだった。
人波に揉みくちゃにされながらも、どうにか会場まで辿り着いた。河川敷の土手の上、ぎりぎりの隅の方に、どうにか席を確保した。腰を下ろし、一息ついたのも束の間に、夜空に閃光が走った。
万華鏡よりもずっとずっと眩しく、色鮮やかな光の華が、一瞬のうちにぱっと夜空へ広がって、暗闇を埋め尽くして、キラキラと瞬いた。そうかと思えば、一瞬のうちに花びらが舞い散り、夜に溶けて消えていく。空をまた、闇が覆う。
しかし、それだけでは終わらない。すぐにまた、鮮やかな光が夜空に閃き、大輪の華を咲かせ、光が消えてしまわぬうちに、次から次へと閃光が放たれる。目まぐるしく移り変わる、光と闇の共演に、目を奪われる。打ち上げの轟音が胸を貫き、息もできない。
涙が出そうになって、迅は咄嗟に俯いた。唾と一緒に涙を飲むと、塩辛い味がした。ふと、隣の碧を見る。花火に照らされ、赤や青や緑に瞬く頬を、涙が伝っていた。
碧は、真っ直ぐに花火を見ていた。夜空よりも黒い瞳を、色とりどりの光に染めて、花火を見ていた。色とりどりの光を灯した瞳から、透明な涙が溢れ出し、静かに頬を伝い落ちる。碧は、濡れた頬を拭いもしないで、ただじっと座って、花火を見ていた。
繋いだままだった手を、迅は握りしめた。そのことに気づいて、碧が振り向く。濡れた睫毛を花火が反射し、キラキラと光って、何よりも綺麗だった。迅が唇を寄せると、碧は目を瞑る。唇が重なり、閉じた瞼を艶やかな光が彩った。
「……なんだよ」
そう言って、碧は笑った。涙は止まっていた。唇には涙の味が残っていた。
「べつに? したかったから」
「そうかよ」
「……お前が、きれいだったから」
碧の輪郭が、花火に彩られる。底なしの闇に浮かび上がる、刹那の煌めき。けれど、そんなものよりももっとずっと、確かなもののはずだ。碧の存在は。それを確かめたかったのかもしれない。
「せっかく来たんだ。おれじゃなくて、花火を見ろよ」
「うん……」
それでも、迅がもう一度唇を寄せると、碧は応えてくれた。
スターマインも、三尺玉も、目じゃないのだ。会場の歓声も、どよめきも、迅の耳には入らない。打ち上げの爆発音だって、碧に触れて感じる胸の鼓動には敵わない。いつか、刹那のうちに夜へ溶けてしまうとしても、今、ここでこうして触れている温もりは、絶対的に確かなはずだ。
夜の九時には、花火大会は閉幕した。色とりどりの光の華に彩られていた夜空が、いまや真っ黒に塗り潰され、茫洋とした深淵のように感じられた。じっと見ていると、闇に攫われるような気がしてきて、迅は繋いだ手を握りしめた。
今夜もラブホテルに泊まった。花火会場付近のホテルはどこも満室で、空室ありの表示を探すのには苦労したが、昨晩よりもいいホテルを見つけられた。浴室が広く、ジェットバスまでついており、入浴剤を入れて湯を張ると、もこもこの泡風呂になった。「一緒に入るか?」と、碧がいたずらっぽく笑うので、迅は即座に頷いた。
バスタブは、二人で入っても足を伸ばせるほど広かった。ジャグジーをつければ、湯船の底や側面から、気泡が勢いよく噴き出した。しっとりとした泡が二人を包む。真っ白な泡に隠れて、碧の肌が仄かに火照っているのが分かった。
「迅」
碧の足が伸びてきて、つま先でそっと撫でられた。泡が目隠しになってはいるが、触れられれば、反応しかけていることがバレてしまう。己の単純さを、少しばかり恥じた。
「するか」
「で、でもほら、泡がせっかく……」
「ここで、このまますればいいだろ」
「風呂で?」
「ああ。結構いいもんだぜ」
「なにそれ、したことあるみたいな……」
今のは、おそらく失言だった。そのことに気づき、口を噤んでも、一度発してしまった言葉は、二度と元には戻らない。しかし、碧は声のトーンも変えず、「ああ」と答えた。
「あるぜ。たくさん。好きでもない相手と」
こんな時、何と言ってあげればいいのか、迅には分からなかった。どんな言葉を選んでも、碧を傷付けることになる気がして、怖かった。
「でも、風呂でするのは、嫌いじゃなかった。いくら汚れても、すぐに洗い流せるし。嫌なにおいも、石鹼と湯気に紛れるから」
泡を掻き分け、碧は迅の上へまたがる。肩に手を置いて体を支え、尻のあわいに切っ先を導く。
「汚いって、思うだろ」
淡々と言って、碧は笑った。哀しい笑顔だった。もう、流す涙も残っていないという風な、哀しい笑顔だった。迅は碧の肩を抱き、細く震える腰を抱いて、ゆっくりと自身を沈み込ませた。
「あっ…」と碧は甘く声を漏らし、軽く仰け反った。仰け反った体を抱きしめれば、お湯も泡も掻き分けて、濡れた肌が密着する。一分の隙もなく、ぴったりと密着する。頬をすり寄せ、唇が重なる。石鹸と湯気に紛れて、碧の味がした。
「好き……だよ」
迅が言うと、碧は瞼を上げた。
「綺麗でも、汚くても、俺は、お前が……」
拙い告白だった。再び、唇が重なった。湯気に紛れて、涙の味がした。
「おれも……お前となら、どこで何をしたって、嫌じゃない」
ちゃぷ、と湯が跳ねる。白い泡が波間に揺れる。
「お前となら、何だって……もう、何にも、怖くないんだ。今までできなかったこと、全部……お前と、したい」
波はだんだん大きくなる。流された泡が弾けて消える。濡れた肌が擦れ合い、汗も涙も溶けていく。胸の尖りに歯を立てると、水面が大きく波を打つ。
「あ、あっ……迅、じん……っ!」
「俺だって……お前となら、何だって……」
「もっと、つよく……っ、つよくだいて……! だきしめて……っ」
「お前と、だったら……俺は……っ」
水の底で、熱が弾けた。火照った体を重ね合い、抱きしめ合って、のぼせるまでずっと、そうしていた。
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