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第一部 1章 何の匂い?

「晴斗、勉強終わったか?」 「あとちょっと。夕飯できた?」 「うん。それ終わらせたらリビング来いよ」  昔からの癖で晴斗の髪をくしゃくしゃと撫でながらちらりと机の上に広げられた問題集に目を向ける。そこには細かい計算式や解説が書かれており、陽汰は満足気に頷いてから部屋を出た。  東条陽汰と高瀬晴斗は幼馴染だ。  現在、陽汰は大学三年生、晴斗は高校三年生。田舎の小さな村で二人は幼い頃から実の兄弟のように育った。  陽汰が大学に入学する年、当初は一人暮らしをしようとしていたが、晴斗も都会の高校に進学が決まったため二人で暮らすことになったのだ。  陽汰が一人暮らしをすることに不安を滲ませていた両親も晴斗が一緒なら安心だと快く二人での暮らしを許してくれた。  この話が出た時、もういい歳なのだからそこまで心配しなくても良いだろうとも思ったが、陽汰の体質的に両親が心配していたのも無理はない。 「ひな兄~」 「ん?もう終わった…って抱きつくなよ」 「良いじゃん、減るものじゃないし、ちょっとひな兄補充させて……あれ?ちょっと身体熱くない?そろそろくる?」 「あー…そうかも…」  晴斗に指摘されて自身の額に手を当ててみると確かに体温が上がり、身体も少し怠い気がする。  深い溜め息をつき、晴斗に抱きつかれているのもそのままに抑制剤の残りを確認しようと引き出しを開けた。 「前から思ってたんだけどさ、ひな兄のそれ、ちゃんと病院で調べてもらったほうが良いんじゃない?」 「そんな大袈裟にするようなことでもないだろ。数日耐えれば普段は何ともないんだし」  陽汰の返答に晴斗は納得がいかないという表情を浮かべている。しかし、それ以上病院に行くことを勧めることはなく、陽汰に抱きついたまま肩に顔を埋めた。  陽汰は生まれながらにしてのオメガだ。他のオメガと同様に定期的に発情期がくるのだが、陽汰は発情期前によく高熱を出していた。これが両親が一人暮らしをさせることを心配していた理由でもある。  幼い頃に診てもらって成長すれば治まると言われたが、この歳になっても未だに高熱をよく出しているのが現状だ。そして両親の不在時には晴斗が率先して看病をしていたため、長年の経験から陽汰自身が気付くよりも早く彼の不調を見抜けるようになっていた。  晴斗はベータであるため陽汰のオメガフェロモンの影響を受けないというのも看病に適していると言えるだろう。 「よし、抑制剤もまだあるし、薬もある。買い足す必要はなさそうだな。晴斗、俺はまだ大丈夫だから早く宿題終わらせて飯にしよう」 「うん、わかった。すぐ終わらせてくる」  素直に部屋に戻っていく晴斗に微笑みを浮かべながら陽汰はキッチンへと向かった。先ほど夕飯を作りながら飲んでいたビールを喉へと流し込み、料理を皿へと盛り付けていく。  二人で暮らすようになってから二年以上が経ち、晴斗は今年大学受験を控えている。  昔は運動ばかりしていた晴斗だったが、陽汰の都内への大学受験が彼を変えた。最初こそ陽汰も晴斗の両親も無理だろうと思っていたのだが、短期間の勉強で見事に都内の高校に合格したのだから晴斗の努力はすごいものだとみんな大いに感心したものだ。  高校に入ってからもその努力は惜しまず、陽汰と同じ大学にいくのだと今年は更に勉強に力を入れている。  陽汰ももちろんそれを応援しており、勉強を教えてあげたり、大事な試験の前には晴斗の好物を作って喝を入れている。ただ、オメガには付きものの発情期と、その前兆として稀に現れる高熱はどうしても晴斗にも負担をかけてしまっている。  極力迷惑をかけないようにしたいと陽汰が思っていても晴斗がしっかり看病すると言って聞かないのが現状。  今回ももうすぐ大事な試験があるから晴斗には勉強に集中してもらいたいところなのだが……。  陽汰が小さく溜め息を吐きながら夕食に作った唐揚げを皿に盛っていると、背後から伸びた手が盛りつけたばかりの唐揚げをひょいっと持っていってしまった。 「あ、こら!」 「へへっ、もらい!溜め息なんて吐いてどうしたの?おっ、ひな兄の唐揚げはやっぱ美味しいな」 「はぁ、まったく。高三にもなったんだからもう少し大人っぽくなれないのか?」  後ろを振り向くと頬を膨らませながら美味しそうに唐揚げを食べる晴斗と目が合い、無邪気さを浮かべるその瞳につい笑みが浮かんでしまう。  口では大人っぽくなれと言いつつも本当の弟のように可愛がってきた晴斗のこの姿を目にすると、こいつはこのままでも良いか、という気持ちのほうがすぐに上回っていく。 「えー、身体はもう十分大人だよ?」  背後から両腕を回され、陽汰よりも身長の高い彼の温もりに包まれる。  昔は陽汰のほうが大きかったが、気付けば晴斗に抜かされ、今や少し見上げるほどになっていた。  幼い頃から陽汰に抱きつくのが好きだった晴斗は身体の大きくなった今でもよく抱きついてくる。そのせいで近頃ますます広がっていく体格差を意識させられてしまう。  多少の悔しさはあるが、それでも陽汰は年上としての威厳を見せつけるように晴斗の額を指先でこつんと小突いた。 「俺が言ってるのは中身の話だ。図体ばっか大きくなってもダメだぞ。はぁ、まぁいいや。ほら、試験も近いからお前の好物ばっか作ってやったんだ。これ食べて勉強頑張れよ」 「やった!食べよう食べよう!」  二人で食卓へと料理を並べ、晴斗が美味しそうにぱくぱくと料理を口に運んでいくのを陽汰はビールを飲みながら眺めた。  晴斗がこうして美味しそうに食べてくれると作り甲斐もあるというものだ。  陽汰自身が食べることよりもお酒を飲むことを楽しむ傾向があるため、晴斗の食べっぷりを見ていると夕飯の時間が一層楽しいものに思えてくる。 「ひな兄、俺、絶対ひな兄と一緒の大学合格するから」 「じゃあまずは今度の試験で満点だな」 「満点!?ひな兄じゃないんだからさぁ…それにしてもひな兄の大学、レベル高すぎるよ。本当は同じ学部が良かったけど、俺には無理だぁ…」 「ははっ、学部は違ってもお前がちゃんと同じ大学に入学するのを待ってるよ」  弱音を吐きながらも晴斗はしっかり勉強をしている。そんな彼の姿をずっと見続けてきた陽汰は晴斗なら絶対に合格できると信じており、きっと来年になったら一緒に大学に通うことになるのだろうと自然と笑みが浮かび上がった。    ◆    晴斗の試験も終わり、陽汰の発情期もそこまでひどい症状が出ずに過ぎたある日。  その日は陽汰がゼミの後輩と飲みに行くと言っており、晴斗は家で勉強をしていた。  時刻はまもなく二十三時。  なかなか帰ってこない陽汰のことが気になり始めた頃、玄関の鍵がガチャッと開けられる音と共にゴンッと壁に何かが当たる音が響いた。  慌てて駆けて行くと、そこにはにこにこと上機嫌な笑みを浮かべた陽汰が壁に肩を預け、今にも倒れそうになっている。 「晴斗ぉ~」 「ひな兄、おかえり…って大丈夫?ふらふらじゃん」 「ん~、だいじょぶ、だいじょ…あっ」 「ちょっ…!」  大丈夫と言った矢先に何も無い場所で躓き、その場に倒れそうになる。だが、晴斗の素早い動きのおかげで、陽汰は床に倒れる前に抱きとめられた。  怪我をしなかったことに晴斗は安堵の息を吐き、腕に抱いた陽汰の様子を伺う。酒のせいなのか色白の肌は赤く上気しており、大きな瞳は潤みを帯びている。夜になっても下がらない夏の気温の中を帰ってきた彼の身体は汗でしっとりと湿り、首筋に浮かんでいた汗がツーっと肌を伝って開いたシャツの胸元へと落ちていった。  今まで感じたことのない彼の色気を纏った雰囲気に思わずごくりと喉を鳴らしてしまう。すると、陽汰の身体からふわりと金木犀のような甘い香りが漂ってきた。  ベータである晴斗は陽汰のフェロモンを嗅いだことはない。だが、その香りを嗅いだ瞬間、これが陽汰のフェロモンだと本能的に感じ取った。  どうしてベータなのに陽汰のフェロモンがわかるんだ…?  ベータにもわかるくらい陽汰のフェロモンが濃厚すぎるのか、もしくは陽汰の身体に異常が起きている…?  突然感じ取れるようになった陽汰のフェロモン。一体何が起こっているのか確認しようとしたのだが、それを口にする前に他のものにも気づいてしまった。  彼の甘い香りの中に混じる不快な匂い。  その匂いは鼻を塞いで消せる類の匂いとは違い、身体の奥底から遠ざけたくなるような、言葉では言い表しがたいものだ。  それが陽汰の香りの中に混ざっていることへの不快感が大きく、先程の疑問よりも先に晴斗は腕の中の陽汰を訝し気に見つめて問いかけた。 「ひな兄、誰と飲んでたの?」 「ん?後輩だよ?そいつアルファでさ…やっぱアルファってすごいよな…」 「アルファ…?すごいって何したの?もしかして二人きりだったりしないよね?」 「…何って…別に何もしてないよ…アルファは体力あって…あと…んー…頭も良いなって……二人きり、だったけど…」  酔いが相当回っているのか、陽汰の呂律は怪しく、所々不明瞭だ。だが、アルファと二人きりだったという言葉がはっきりと耳に届いた瞬間、陽汰のことを掴む手に無意識にぎゅっと力が入る。  ドクドクと鳴る心臓の音が耳の奥から響き、喉が締め付けられるような感覚とどうしようもない苛立たしさが浮かび上がってくる。 「っ…はると…?」  掴まれている手に力が入っていることに気付いた陽汰が僅かに眉間に皺を寄せた。そして様子を伺うように首を傾げて晴斗のことを見上げてくる。  ……どうしてそんな無防備なんだよ。今だってベータの俺が少し力を入れただけでもひな兄は逃げられないんだよ。それなのにアルファと二人きりになったなんて…。  苛立ちで声を荒らげそうになるのを必死に抑え込み、陽汰に言い聞かせるように声を低くして彼に問いかけた。 「ねぇ、ひな兄、アルファと二人きりなんて危ないよ?襲われたらどうするの?」 「襲われ…あははっ、俺が襲われるわけないって」  晴斗の心配をまるで気にしていない様子でへらへらと笑う陽汰に、晴斗は真剣さを滲ませながら陽汰の瞳を見つめた。だが、生憎、目の前の幼馴染は酒のせいで焦点が合っていないようだ。 「ひな兄、真面目に聞いて。本当にアルファに襲われたらひな兄じゃ勝てないよ?どうするの?」 「……晴斗」 「ん?」 「もし、俺が襲われたら、晴斗が助けに来てくれるんでしょ?」  その言葉に心臓がドキッと大きな音を立てる。  これが酔っ払いの戯言だとわかっていながらも陽汰に頼られているということに、呆れよりも喜びが増していく。  それは自分が年下だから。陽汰はどんな時でも晴斗に完全に頼りきってくることはない。  高熱を出している時だって必要最低限のことしか頼ってこず、発情期で辛いときも一人で部屋に篭って耐え、心配して声をかけると無理矢理明るい声を出して大丈夫だと言ってくる。  そんな陽汰が、もし自分に何かあったら晴斗が助けに来てくれると思ってる。たったそれだけのことだけでも先ほどの苛つきは薄れていき、晴斗は軽く息を吐いた。 「はぁ…ひな兄には敵わないよ」  その返答に満足したのか、陽汰はへらっと笑みを浮かべた。だが、その瞼はほとんど落ちており、彼がすでに眠気との戦いをしていることを物語っていた。  きっとこの状態では自分の足で歩くことは困難だろう。そう判断し、晴斗は酔っ払って力の抜けた身体を抱き上げた。 「ぅ、あっ…自分で歩けるってば…!」 「はいはい、俺の脚を自分の脚だと思って」 「ぷっ…ははっ、じゃあ俺は自分の脚で歩けてるから酔ってないってことでいい?」 「ひな兄、それ明日覚えてる?」 「覚えてない!」  自信満々に言い放ちながらけらけらと笑う陽汰に、晴斗も思わず笑ってしまう。  陽汰は酔っ払っていても家の外にいれば理性がしっかりしており、決して他人の前でこのような姿を見せることはない。だが、家に帰ると気が緩んでしまうのか、極まれに今日のような姿を見せることがあるのだ。  普段はしっかり者の陽汰のリミットが外れた時に見せる珍しい姿は晴斗だけが見ることのできる特権だと思うと、どうしても喜びと優越感が生まれてしまう。 「はい、ソファに到着。お水持ってこようか?」 「晴斗ぉ、ここ座って。手ちょおだい」 「手?」  言われるがまま陽汰の隣へと腰を降ろし、手を彼のほうへと差し出す。エアコンの効いた部屋にいたこともあり、その指先はひんやりと冷えている。  手に触れた陽汰は満足そうに口角を上げたあと、ぐいっと引っ張って自身の頬へとその手を当てた。  指先や手のひらから陽汰の火照った体温と滑らかな肌の感触が伝わってくる。晴斗がその感触を楽しむように指を動かすと陽汰はそこに擦り寄ってきた。その姿はまるで甘えてくる猫だ。 「俺の手、気持ち良いの?」 「んっ…きもちぃ…」 「それなら良かった。けど、ひな兄熱いから俺の手もすぐ熱く…っ!」  心臓がドキッと跳ね上がり、ぐっと息が詰まる。  頬とは違う、柔らかい部分に一瞬触れた。  陽汰はきっと意図的ではない。ふらついてたまたま当たってしまっただけだ。だけど、その柔らかな唇に触れた瞬間、無性に彼のことを抱き締め、その身体を、その熱を全身で味わい尽くしたい衝動に駆られる。  抱きしめたい。いつものように、ただ抱きしめるだけ。  それだけならば、その行動に対してきっと陽汰は何も言わない。だが、今その行動をしてはいけないと晴斗の中で警鐘が鳴り響く。  金木犀の香りが衝動を突き動かすかのように強まり、手を頬に当てたまま潤みを帯びた瞳でこちらを見つめる陽汰から目が離せなくなってしまう。  彼の薄く開いた唇からは熱い吐息が零れ、その隙間からちらりと見える赤い舌は食べられることを望んでいるかのようにも見えてくる。 「はると…?」 「あっ…」  ドキドキと鼓動が速まっていく中、晴斗は本能を抑え込むように一度ぎゅっと目を瞑った。  自分は幼馴染に対して一体何を考えているんだと心の中で自身を叱責し、冷静に陽汰に問いかける。 「ひな兄、もうこのまま寝る?」 「んー……」 「ベッドまで運ぼうか?」 「……やだ…ここがいい…晴斗ぉ……」 「ん?」  眠気と酔いが相まって陽汰は晴斗のほうへと倒れ込んできた。晴斗の肩に額をぐりぐりと押し付けながら微かに笑いを含んだ声が聞こえてくる。 「晴斗は、頼りになるな…」 「えっ、ははっ、ほら、俺だって立派な大人になったでしょ?」 「ふふっ…そうだな…さすが…自慢の弟だ」  その言葉に晴斗の指先がぴくっと小さく跳ねる。  実の兄のように慕ってきた陽汰に『弟』と呼ばれることは嬉しいことのはずなのに。どうしてなのか、心の中に引っかかりを感じてしまう。  この言い表せない感情に言葉が出せずにいると胸元の陽汰の身体が徐々に落ち始めていた。 「…んー…だめ…ちょっと…寝る…お前は…勉強して、寝ろ……」  とうとう限界を迎えてしまった陽汰はそのままずるずると落ちて晴斗の太腿の上に頭を乗せて眠ってしまった。  猫のように身体を丸めて眠る陽汰の姿に先程のもやもやとした気持ちが薄れ、くすりと笑みが零れる。 「ねぇ、ひな兄、これじゃ勉強できないよ」  すやすやと気持ち良さそうな寝息を立てる陽汰の柔らかく少し茶色がかった髪を撫でると彼の口元に小さく笑みが浮かんだ。  気が付けば陽汰が帰宅したときに感じた不快な匂いは薄れ、金木犀の落ち着く香りが二人を包み込んでいる。  心地よい香りの中、脚の上で安心して眠る可愛らしい幼馴染を見つめながら、彼が目を覚ますまで晴斗はその柔らかい髪を撫で続けた。

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