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番外編 11章 陽汰
「…んっ……れん…?」
深夜、重い瞼を開けると隣で寝ていたはずの蓮の姿がそこにはなかった。柚希は目を擦りながらゆっくりと起き上がり、辺りを見回す。真っ暗な寝室の扉の先、リビングのほうから光が漏れ出ている。
音を立てないようにベッドから降り、扉をそっと開けてその先を覗き見た。
オレンジ色のライトの下、そこに蓮の姿はあった。俯いている彼の肩は、小さく、震えている。
「……」
家に帰ってきてから蓮は柚希に病院で告げられたことを全て教えてくれた。出産をすることも、妊娠を続けることも、柚希にとっては危険であることを。そのうえで彼は言ってくれた。
「俺は柚希の意見を最優先にする。産むって言うなら家の力を使ったって良い、父さんに土下座したって良い、絶対にお前もお腹の子も死なせないような病院を用意する。けど、諦めるって言うならそれでもいいから。俺はお前のこと責めたりしないし、誰にも責めさせない。だから、柚希がどうしたいか、教えて」
「……僕は…」
出産で死ぬかもしれない。その事実に怖さを感じなかったと言ったらそれは嘘になる。死ぬのは怖い。もっと長生きして、蓮と一緒に歳をとっていきたい。だけど、それ以上に自分の元に来てくれたこの子を殺してしまうなんて、できるわけがなかった。
「産みたい……蓮と、この子と一緒に家族になりたい」
「……うん、お前ならそう言うと思ったよ。じゃあ早速父さんに頼み込むとするか。待ち望んだ孫のためならきっと東条の金いくらでも注ぎ込んでくれるはずだ」
ニコッと笑みを浮かべる蓮に、柚希も緊張の糸が解けたように自然と笑みが浮かび上がった。
あの時の蓮は気丈に振る舞っていた。だけど、柚希以上にこの選択に苦しんでいるのかもしれない。
もしも、逆の立場だったら……柚希は蓮のようにどんな選択をしても支えるから、なんてきっと言えなかった。子どもは諦めて良いから、死なないで、と涙ながらに訴えていたはず。だけど蓮はそれを言わずに柚希の選択を優先してくれた。
「……」
カタッと小さな音を立て、柚希は寝室から出て蓮のほうへと向かった。そして、後ろから彼の震える背中をそっと抱きしめる。
「蓮……僕のこと、信じて…」
「……信じてるよ」
「ん……僕だってちゃんとこの子のこと抱きしめたいから、負けないよ。ちゃんと生きて、この子と蓮と生きるから……だから、蓮もこの子の親になってほしい」
「……うん…柚希、強くなったな」
「へへっ、母は強し、って言うからね」
その言葉に蓮も軽く笑いを零し、柚希の腕の中で振り返った。彼の目尻は少し赤くなっており、長くて黒い睫毛には僅かに雫が残っている。
「俺も強い父ちゃんにならないとな。この子に情けないとこ見せられないし」
「うん、二人で強くなろう」
産むという決断をしてからの日々は非常に慌ただしかった。まず、蓮の両親と柚希の父親への報告。
リスクが高いこともしっかりと説明をし、それでも産むということに東条家としても全力でサポートしてくれると言ってくれた。
柚希の父親に関してはさすがに少し難色を示したが、柚希が決めたことならば、と頷いてくれたし、何より報告に来た柚希が母に似てきているのを見て、止めることなんてとてもじゃないができなかったらしい。
東条家が最高の医療機関を用意し、柚希は通常よりも早めに産休に入った。
出産予定は11月中旬。妊娠7ヶ月目での早産にはなってしまうが、それ以上の妊娠継続は危険だと判断された。
そんな出産まであと一ヶ月を切った10月下旬。金木犀が香る中、蓮が自宅に帰ってくると柚希がニコニコしながらエコー写真の裏にメッセージを書き残していた。
テーブルの上に並べられた写真の裏には全てに柚希のメッセージが入っている。いつか子どもが大きくなったら見せるんだ、と言っていた彼のキラキラとした笑顔は出産の不安を吹き飛ばすように輝いていた。
「柚希、ただいま。陽汰もただいま」
「蓮、おかえり。陽汰、お父さんが帰ってきたよ」
ぽこっと膨らんだお腹を撫でる柚希の手に重ねるようにして蓮もお腹に手を当てる。すると、内側からトンッと軽く蹴られたような感触があり、二人して笑みが浮かび上がった。
「いててっ、元気だね、陽汰。もうちょっとで出られるからね」
「ははっ、これだけ元気なら安心だな。あ、そうだ、これ」
「ん?」
蓮は持ち帰ってきた紙袋を柚希に手渡した。中には可愛らしい乳児用の服が数着とスタイ、そしてノンカフェインのドリンクセットが入っている。
「父さんがまた陽汰に服買ってきてさ。あとこっちは母さんから柚希に。身体冷やさないように気をつけろだって。二人とも子どもができる前はあんなんだったけど、初孫が相当楽しみみたいだ」
「ふふっ、本当だね。今度僕からもお礼言っとかなきゃ。そういえば、今日僕のお父さんも様子見に来てくれたんだよ。なんか、陽汰のおかげで家族の繋がりが強くなった気がするね」
「さすが俺たちの子だ。生まれる前から大活躍だな」
蓮が褒めるように柚希のお腹を撫でると再び中からトンッと小さな反応が返ってくる。偶然なのかもしれないが、まるで二人の会話を陽汰が聞いていて、姿は見えないがそこに確かに存在しているんだと教えてくれているようだった。
カチッ、カチッと時計の音がぼんやりとした意識の中に入り込んできた。薄く瞼を開けるが辺りはまだ真っ暗だ。再び瞼を閉じ、眠りにつこうとしたのだが、そんな柚希のお腹にズキッと鋭い痛みが走った。
「……ッ…」
昼間のように陽汰が中から蹴ったのかと思った。だけど、それとはまた違う痛みのようにも感じる。
しばらくしたら治まるかもしれないとお腹を撫でるが、そのじくじくとした痛みは治まるどころか徐々に増していき、額にはじんわりと脂汗が浮かび上がっていく。
さすがにこれはまずい気がする。ここで我慢して陽汰に何かあったら……。
痛む身体をどうにか動かし、柚希は隣で眠る蓮を揺り動かした。
「れん…れん…起きて……」
「んっ……どうした…?」
「病院、連れてってほしい…お腹、痛い……」
「ッ…!わかった、すぐ行こう」
蓮はすぐさまベッドから降りて部屋の明かりをつけた。柚希もそれに続いてすぐに動き出そうとしたのだが、視界に映った光景に柚希も蓮も一瞬動きが止まってしまった。
そこにあったのは赤く染まったシーツ。
量はそこまで多くはないがそれは間違いなく柚希から流れ出たものだ。
どうして。ここまでの検診も順調だった。そんな突然出血するような予兆なんてなかったのに。
耳の奥で鼓動が煩く鳴り響き、赤くなった部分から目が離せなくなってしまう。
その場で動けなくなっていると、柚希の目を覚まさせるようにバスタオルを持ってきた蓮が赤く染まったシーツを覆い隠し、柚希の下肢にもタオルを巻きつけた。
「苦しくないか?」
「う、ん…」
「よし、行こう」
車のシートにもタオルを敷き、二人は急いで病院へと向かった。
車内で柚希は痛みに耐えながらお腹を撫で続けた。こうしていれば陽汰が答えてくれるんじゃないか、そう思って。しかし、昼間はあんなに動いていた陽汰がこの時は全く動きを見せてくれず、それが余計に不安を煽っていく。
「どうしよう…陽汰…動いてくれない…」
「大丈夫だよ、今はたまたま動いてないだけだ。昼間あんなに元気だったんだから休んでるのかもしれないだろ」
「……ん…そう…だよね……」
きっと大丈夫、陽汰は無事だと必死に言い聞かせ、柚希は自分を落ち着かせようとしたが、気持ちとは裏腹に痛みは増していくばかり。
「陽汰…頑張ろ…頑張ろうね…」
親として強くありたい。強く言葉をかけてあげたい。そう思っていたけど、出てきた声は涙を堪えるように震えてしまった。
一度、静かに瞼を閉じ、溢れ落ちそうになる雫を抑え込む。そして、窓の外へと視線を向けた。
ずっと、考えないようにしていた。前向きにいようと思っていたから。だけど、感じてしまう。
すぐそばに自分の死が迫ってきていると。
車の外を流れる街灯がまるで走馬灯のように駆けていき、これまでの蓮との思い出が脳内を流れていく。
高校の保健室で出会って、大学も一緒に通って、苦労もあったけど結婚できて、いろんな蓮を知ることができた。そして、今、隣を見ればしっかりと前を見据え、病院に向かっているお父さんとしての蓮の顔がある。
……やっぱ、どんなときでも蓮はかっこいいな。
「……ねぇ、蓮…」
「どうした?痛むか?」
「……あのね……もし、僕がダメでも、陽汰と二人でちゃんと頑張るんだよ」
「……なに、言ってんだよ…」
「蓮はもう立派なお父さんだから大丈夫だと思ってるけど、約束してほしい。絶対、陽汰を一人にしないって」
ハンドルを掴む蓮の手にぎゅっと力が入る。外から差し込んだ街灯に照らされた彼の目尻には僅かに光るものが見え、彼は一瞬喉を詰まらせたあと、左手で柚希の手を握りしめた。
「あぁ、約束する」
「ん、ありがとう。僕も陽汰の成長楽しみだから、諦めないよ」
柚希はひんやりと冷たくなった手で蓮の手を握り返し、遠のきそうになる意識をその場に留めた。
「蓮さん、柚希さんですが、予定日まで持ちそうにありません。今から陣痛誘発剤を使って出産に入りますが帝王切開に切り替える可能性もあります。柚希さんにはすでに同意を得てますのでこちらにサインをお願いします」
「…はい」
ガラス窓の向こうでは柚希の出産準備が進められている。できることならば柚希の傍にいてその手を握ってあげたかったが、出産時のリスクが高いことからその許可をもらうことはできなかった。
こうしてガラス窓で仕切られた部屋を用意してもらえたのだって東条家の力がなかったら叶わなかったことだろう。
サインを書き終えると医師は足早に戻っていき、部屋には蓮一人だけになった。頭上に設置されたモニターから病室内の音が聞こえてきているが、酸素マスクをつけられた柚希の声は聞こえてこない。
「……柚希、頑張れよ…」
祈るように呟き、額に汗を浮かべる柚希の顔をじっと見つめる。
しばらくすると誘発剤が効いてきたのか柚希の苦しそうな声が漏れ聞こえてきた。その痛みも苦しみも代わってやれない歯がゆさを感じながら手をきつく握り締める。
柚希の周りでは医師たちが慌ただしく動き回っているが、蓮の目には柚希しか映っていなかった。
どうか、無事であってくれ。
陽汰も早く出てこい。
その祈りが通じたかのようにしばらくすると医師の「頭が見えた」という声が蓮の耳に届いた。
「…っ…柚希、あともう少しだぞ、頑張れ」
ドクドクと鼓動が早まっていく。柚希の顔と彼の下半身にかけられた布の先を何度も見返し、小さな身体が元気な産声を上げてそこから出てくるのを待った。
そして、遂にその時が訪れた。
「……っ!」
身体が見えた。とても小さな身体が。
とても喜ばしい瞬間、のはずだ。だけど、何かがおかしい。
聞こえてこない。動いてない。
その瞬間、周りの音の全てがなくなり、時が止まったのではないかと錯覚した。だが、次に耳に入ったのは医師たちの慌てる声と音。そして、柚希の弱々しくなった心電図の音。
意識レベル低下、心拍低下、そんな単語が耳に飛び込んでくる。
「……柚希…陽汰…おい……」
今すぐ二人を抱きしめたい。しかし、その手が触れたのは冷たいガラスだ。手のひらから伝わる無機質な冷たさが最悪の結果を告げているのではないかと思えてくる。
柚希だけでなく、陽汰も失う、そんな最悪な結果が。
目頭が焼けるように熱くなり、ガラスの向こうの景色が霞んでいく。鼓動を示す波形が弱々しくなっていく中、フッと柚希の元気な声が聞こえてきた。ベッドの上にいる柚希ではない、それは数ヶ月前の柚希の声だ。
『蓮、赤ちゃんの性別わかったよ!どっちだと思う?ヒントは今日のお昼のおにぎりの具材!何入ってたか覚えてる?』
『蓮、赤ちゃんの名前、陽汰っていうのはどうかな?太陽みたいに明るく元気で、清らかな心を持った子って意味で、陽汰』
『陽汰が大きくなったら三人でお酒飲んだりするようになるかな?えっ、先の話すぎるって?良いじゃん、先の話でも。楽しみだね、陽汰』
陽汰がお腹の中にいるとわかった日から柚希は毎日楽しそうに陽汰に話しかけていた。どんなに体調が悪くても陽汰に話しかける時だけはそれを一切見せなかった。それは、この人の元になら来ても大丈夫、安心できると思わせたいからだと。
ずっと話しかけていた陽汰はすぐ傍にいるんだぞ。まだ、その手で陽汰のことを抱いてないだろ。
「…っ…柚希、頑張れよ…陽汰も、泣いてくれ…頼む…っ…」
瞳に溜まっていたものが目尻から落ちていく。
霞む視界の病室内はまるでスローモーションのように見えた。器具のカチャン、カチャン、と当たる金属音がやけに大きく聞こえ、車輪のカラカラと回る音が聞こえてくる。
そこにいるのは陽汰だ。保育器に入れられた陽汰が蓮の目の前を通り過ぎようとしている。
待ってくれ。行かないでくれ。
頼む、陽汰、応えてくれ。
ドンッと冷たいガラスを叩く。
訪れたのは一瞬の静寂。
次の瞬間、病室内に高い泣き声が響き渡った。
絶望を突き破るような元気な赤ちゃんの泣き声。
陽汰が泣いた。手足を動かした。
スローモーションだった景色が一瞬にして時間を取り戻し、薄灰色だった視界が明るくなっていく。
蓮の目の前で保育器を押していた医師は足を止めた。その中で必死に動く小さな身体。こんなにも小さな身体だけど、しっかりと呼吸をして、産声を上げてくれた。
「…っ…陽汰、偉いぞ…」
顔をくしゃくしゃにしながら泣く陽汰の姿に、蓮は口元を震わせながら笑みを浮かべる。すると、先ほどまで弱々しかった心電図の音が陽汰の声に重なった。
陽汰の声に反応するように柚希の白い指先がぴくっと跳ね、長いまつ毛が小さく震える。そして、固く閉ざされていた瞼がゆっくりと開かれた。
「……陽汰の…声…聞こえた…」
白い天井、薬品の香り、陽汰の泣き声。
ピッピッピッと柚希の心拍を示す音が、ここが夢の世界ではないことを告げている。
生きてる。
柚希も陽汰も。
柚希の瞳にじわりと涙が浮かび上がった。蓮のほうを見ると彼もガラスの向こうで目を真っ赤にして泣いている。その表情は眉尻を下げながらも口元には笑みを浮かべており、彼の声は聞こえなかったが口の動きで「柚希、頑張ったな」と言っているのが伝わってきた。
そして、蓮のすぐそばにいるのは小さな陽汰。保育器の中で泣きながら手足をぱたぱたと動かしている。
瞳に溜まっていた透明な雫が目尻から流れ落ち、視界にはっきりと二人の姿が映った。
柔らかな金木犀が香る季節、産声と共に病院の外では朝日が昇り始めていた。
蓮、僕たちの元に来てくれたよ。
陽汰が僕のことも蓮のことも救ってくれたんだ。
僕たちの宝物、奇跡の証――
陽汰。
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