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アフターストーリー 1.引っ越そう
陽汰が生まれて7か月。生まれてしばらくは保育器から出られずにいたが、最近では首も座り、笑うようにもなってきた。そんな陽汰は今、ソファに座る柚希の腕の中ですやすやと気持ちよさそうに眠っている。
ぽつぽつと雨が窓を打ち付ける音が静かに響き、柚希の手が一定のリズムでトン、トン、と陽汰の背を優しく叩いている。
風呂から上がった蓮が見たのはいつもと変わらないそんな光景――のはずだった。
「柚希、どうした…?」
「え…?」
暖色系の明かりの中、柚希の瞳からは透明な雫がぽろぽろと流れ落ち、白い頬を濡らしていた。声も漏らさず、泣いている本人ですら泣いているということに気付いていなかったかのように視線はぼんやりとしている。
「あれ…なんで、だろ…おかしいな…大丈夫だよ……大丈夫、なんだけど……」
大丈夫、その言葉を繰り返すが、涙は一向に止まってくれない。
ぽたっ、ぽたっ、と落ちた涙が陽汰を包み込む柔らかいタオルケットに吸い込まれていく。
「……柚希」
「……大丈夫…だよ…」
自分に言い聞かせるように呟いた言葉。だけど、それは消え入りそうなほどに小さく、震えていた。
陽汰が生まれてから退院できるまでの約5か月間は毎日病院に通っていた。陽汰の体調が安定し、柚希の身体も回復して少し余裕が出てきたのもここ一ヶ月くらいだ。
そんな時に聞こえてきたのが周りの声。
どうして生まれてきたのがオメガなんだ。
二人目はどうなんだ。
次こそはアルファを産んでくれるだろう。
東条財閥に関わりのある人もない人も好き勝手に柚希に向かってそんな言葉を投げかけてくる。
直接でなくとも外を歩いているだけで道ゆく人がこそこそと話をしているのが目につき、どこにいても、何をしていても、誰かに監視されているような、そんな日々が続いていた。
そして今日の昼間、陽汰の定期検診が終わり、病院から出ると見知らぬ男に突然声をかけられた。
「東条柚希さんですよね?」
「……なんでしょうか」
「いえ、私は雑誌記者をしていましてね。今度、東条財閥が経営する企業特集をするんですよ。そこでちょっとあなたからもお話を聞けないかと思いまして。こちらの病院、もしかしてお二人目、ですかね?今度こそアルファですか?」
男の遠慮のない発言に、気にしてはいけないと思っても胸の奥がズキッと傷む。
二人目。それは柚希には望むことができない存在だ。
陽汰の出産も奇跡のようなものだった。出産後の検査で、もう妊娠できない身体になってしまったと告げられた時も仕方のないことだと現実を受け入れることができた。
これは柚希と蓮、そして蓮の両親しか知らない。この記者のように配慮もなく聞いてくる人がどんなにいても、世間に公表するつもりはなかった。それこそ何を言われるかわからなかったから。
「……すみません、何もお答えできません」
男のカメラに陽汰が撮られないよう手で顔を隠し、柚希は駐車場に向かって足早に歩き出した。だが、こんなところまでやって来る記者だ。そんな簡単に諦めてくれるわけがない。
何を言われても全て無視を決め込んだが、その言葉は嫌でも耳に入ってきてしまう。
産まれてきたのがオメガだったのは柚希に問題があったからという噂は実際どうなのかとか、東条財閥にどうやって入り込んだんだとか――根も葉もない噂話や不躾な質問、ひどい言葉を浴びせられ続けた。
車に乗り込んだらさすがに諦めたようだったが、その姿が見えなくなっても恐怖は拭えず、心臓がバクバクと音を早めていく。
もし、車で追いかけられたら。
家までついてこられたりしたら。
ハンドルを握りしめる指先が冷たくなっていくのを感じながら、柚希は力無くそこに額を押し付け、震える息を吐き出した。
近頃の東条財閥はますますその名を大きくしている。蓮の活躍もメディアに取り上げられたことがあるくらいだ。しかし、さっきの記者が言っていた東条財閥の“企業特集”なんていうのはきっと口実にすぎない。
本当の目的は大企業のスキャンダル。そのネタになりそうな人物として柚希が狙われたのだろう。
さっきの対応もあれで良かったはず。どんなひどいことを言われようと相手にしなければいい。自分さえ我慢していればいい。
少しの間ハンドルに突っ伏したままでいると隣でチャイルドシートに座っている陽汰があうあうと声を上げ始めた。その可愛らしい声は沈んでいた気持ちをフッと軽くし、自然と笑みを浮かばせてくれる。
「陽汰、大丈夫だよ、怖くないからね……ちょっとドライブして帰ろっか」
冷たくなった指を差し出すと陽汰の小さく温かな手がきゅっとその指を握りしめ、にこにこと可愛らしい笑みを浮かべた。
何処に行こうかはっきりとは決めずに車を走らせた。
周りに怪しい車はいないか、撮られていないか、気を配りながらも時折陽汰に話しかけて笑顔を作り、気付けば海が見える駐車場へと車を停めていた。
ここは前にも蓮と二人で来たことのある場所だ。結婚を反対されたあとに絶対守ると誓ってくれた場所。
そんな思い出のある場所を歩けば良い気分転換になるかもしれない。そう思ったのだが、遠くのほうにいる人影が目に入った瞬間、ドアハンドルを握る手が硬直してしまった。
そこにいるのはただ遊びに来ている人だ。柚希のことなんてきっと知らない人だ。そう自分に言い聞かせようとしたが、ドアを開けることができなかった。
震える手を下ろし、シートに深く沈み込む。隣を見ると陽汰は窓の外を見上げており、外に連れ出してあげられないことに胸がチクッと痛んだ。
「はぁ…ごめんね、陽汰……パパ、弱いね…」
「あぅ、あー」
ぱたぱたと手足を動かす陽汰は車から降りられなくても機嫌が良さそうだった。海の上を飛ぶ鳥を目で追っては楽しげな声を上げている。
「…ふふっ、鳥さんいっぱいいるね」
空を自由に飛び回る鳥たちを見ながら、少しだけ窓を開けると潮風が流れ込み、陽汰の髪をふわりと揺らした。
都会の喧騒を忘れさせてくれる静かな波の音と陽汰の元気な声。張り詰めていた心を解きほぐすようにそれらに耳を傾けているとフロントガラスにぽつ、ぽつ、と雫が落ちる音が響いた。
気づけば空には黒い雨雲が広がり、遠くのほうではゴロゴロと低い雷の音が鳴っている。雨の予報は出ていなかったはずだが、頭上に広がる雲は今にも大雨を降らせそうな気配を漂わせていた。
「……帰ろうか」
家に帰ってからもいつもと変わりはないはずだった。夕飯を作って、蓮が帰ってきて、他愛のない話をしながら夕飯を食べて…。
蓮がお風呂に行き、眠ってしまった陽汰を抱っこしながらソファでぼんやりとしていただけ。悲しいとか、つらいとか、そんなこと全く思っていなかったのに。知らぬ間に涙が溢れて止まらなくなってしまった。
ずっと、大丈夫だと言い続けてきた。そう言っていれば耐えられる。自分自身を偽ることができる。そう思っていた。しかし、その言葉はすでにただの飾りにしかなっていなかった。
小さなナイフに少しずつ、少しずつ傷つけられてきた柚希の心は、本人も気付かぬうちに深い傷になってしまっていたのだ。
「ごめん…大丈夫、だから…」
俯きながら小さく呟くと肩に温もりを感じた。すぐ隣に座った蓮は柚希の腕の中で眠る陽汰のことを見て軽く笑みを浮かべたあと、柚希の頬を両手で包み込んだ。
お風呂上がりの温かな手が涙で濡れた肌を優しく撫でていく。
霞む視界の中で見えた蓮の表情はとても柔らかく、柚希が濡れた睫毛をぱちぱちと震わせると零れた涙を指先で拭ってくれた。
「柚希」
「んっ…」
「引っ越そうか」
「え……?」
蓮の思いがけない発言に小さく口を開けたまま硬直してしまう。すると、彼がくすっと笑い、柚希の唇を擽るように指先で撫でた。
「もっと人の少ない、田舎に引っ越そう。俺たちのことを知っている人がいないところ」
「でも…蓮の仕事は…?」
「俺の仕事なんてリモートでもできる。このままここにいたらダメだ……もっと、早く決めれば良かったな。柚希だけじゃなくて、陽汰のためにも引っ越そう」
陽汰のため――
その言葉にハッと目を見開く。今はまだ周りの目やひどい言葉は柚希にばかり向けられている。しかし、陽汰がもしこのままここで育ったら…?
いくら柚希や蓮が守ろうと思っても大きくなったら四六時中一緒にいてあげるわけにはいかない。そうなった時、この場所では陽汰が自由に過ごせるとは到底思えない。
柚希が固まっていると、蓮が陽汰を抱いている柚希ごと二人のことを抱きしめた。彼の温もりと落ち着く匂いは柚希の強ばっていた身体を緩め、安心感を与えてくれる。
とくとくと鳴る彼の鼓動を聞きながら一度瞼を閉じ、柚希はこくりと頷いた。
「…うんっ…そうだね…ここにいちゃ、だめだね…ありがと、蓮」
自分だけが我慢すれば良いと思っていた。だけど、そうじゃない。みんなでここから逃げたって良いんだ。
心の中で重くのしかかっていたものがふわっと軽くなる。目尻に溜まっていた一滴を最後に、柚希の瞳から涙が溢れることはもうなかった。
「うん。この際だ、家も建てるか。陽汰が大きくなったら自分の部屋欲しいって言うだろうし、それに…」
蓮はニヤリと口角を上げ、柚希の柔らかい髪をくしゃっと撫でた。
「俺らがイチャつくにも別部屋は必要だからな」
「……もう、そんなこと言って。陽汰が聞いてるよ」
わざとらしく頬をぷくっと膨らませてみたものの、それは長くは続かず、柚希の顔には笑みが浮かんだ。
陽汰は腕の中で気持ちよさそうにすやすやと眠り続けている。その寝顔を見たあと柚希は蓮の唇へちゅっと触れるだけの口付けをした。
「陽汰には内緒ね」
窓を打ち付けていた雨音はいつの間にか止み、静かな部屋の中には二人の小さな笑い声と穏やかな呼吸音だけが残った。
二年後――
「陽汰、おいで」
柚希の呼び声にひょこっと小さな頭が部屋から覗き、お気に入りの猫のぬいぐるみを持ちながらとてとてと廊下を走ってきた。
身体は小さいが、元気だけは誰にも負けないというように陽汰は柚希の前でぴょんっと飛び跳ねる。
「おでかけ?」
「うん、近くに高瀬さんのお家あるでしょ?」
「おなかおっきいおかあさん?」
「そう、赤ちゃん生まれたから遊びにおいでだって。陽汰はお兄ちゃんらしくできる?」
その言葉に陽汰の顔がパァっと輝いた。
今まで近所に子どもがおらず、保育園にも通っていない陽汰にとってこれは大ニュースである。
興奮気味にばたばたさせる小さな足に靴を履かせると陽汰は柚希の脚にぎゅっと抱きついた。
「ぼく、おにいちゃんできるよ!おなまえは?」
「晴斗くんだよ」
「はると!」
キラキラと瞳を輝かせながら見上げてくる陽汰の姿に笑みが零れ、その軽い身体を抱き上げた。
玄関を出ると、ビルに遮られることのない青空が広がっている。風に吹かれた桜が舞い、その花びらが陽汰の柔らかな髪にひらりと舞い落ちた。
抱き抱えたまま花びらを取ろうとすると、陽汰がぽんぽんと柚希の肩を叩き、地面を指さした。
「パパ、ぼく、じぶんであるく!」
「えっ、大丈夫?」
「おにいちゃんだから!だいじょうぶ!」
いつもなら靴を履かせても絶対に自分から降りようとはしないくらいには甘えたがりなのに。お兄ちゃん、という言葉だけで陽汰は一つ成長したのかもしれない。
地面に降ろすと髪についていた花びらもひらりと落ち、陽汰もすぐにタッタッタッと駆け出した。
転ばないか心配にもなったが、彼はそんな柚希の心配を吹き飛ばすように満面の笑みを浮かべたままくるりと振り返った。
「パパ!はやく!はやく!」
「ふふっ、そんな急がなくても晴斗くんは待っててくれるよ」
春の日差しの下、小さな身体が走っていく。
柚希が抱っこしていなくても陽汰はしっかりと自分の足で道を歩んでいける。その姿にちょっとだけ腕の中が寂しかったけど、春の陽光のように穏やかで温かい気持ちが胸いっぱいに広がった。
陽汰にとっての新しい友達――幼なじみといえる存在になる彼に会えるまであと少し。
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