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第1話

戦場の片隅に設けられた、臨時の応急処置テント。湿った布と血の匂いに包まれたその狭い空間で、フィンは淡々と手を動かしていた。 「次、通して。そっちの兵士、そこの寝台に」 「フィン先生、包帯、こちら足りません!」 「棚の下、左の箱の中にストックがある。消毒薬は倍に薄めてから使って」 この喧騒の中で、薬の匂いすらも、もはや特別なものではなくなっていた。感情を置き去りにして手を動かす自分に、ふと寒気がすることがある。 この国の前王が作った腐敗物。 『魔物』と呼ばれるそれらは、国を貪り食う勢いで襲ってきていた。 魔素によって変質した異形のものたちは、人を襲い、土地を穢し、町を飲み込んでいく。 その存在は、かつて秘密裏に生み出された人工の兵器…魔素を強制的に変形・増幅させた実験の失敗作だとされているが、詳細を知る者は少ない。 前王はすでに死に、新たに即位した若き現王が、膨大な負の遺産を背負って立たされていた。 街の一部は無人となり、畑は荒れ、魔物の通った土地には濁った瘴気が残る。安全な場所は限られ、民の不安は日を追うごとに増していた。 それでも人々は生きる。残された者たちが、寄り添うようにしている。 この戦場は、そんな国の修復作業の最前線だった。魔物の掃討と、傷ついた兵士の治療。どちらが欠けても、前には進めない。 そしてそのどちらにも、フィンの手は必要とされていた。 彼は、王都で医学と薬学を修めた医者だ。 実戦でも数多くの命を救ってきた熟練の治療者であり、戦地の医療班を指揮する中心人物である。 戦場に慣れることなど、本来はあってはならない。だが、命を繋ぐためには、時に感情を後ろに置いて進まなければならなかった。 ___テントの入口がふわりと持ち上がり、見慣れた大柄な影が現れた。 「よう、先生。また来たぞ」 「……また、ですか。今週三回目ですよ?」 フィンは額の汗を拭う暇もなく振り返った。鎧の隙間から覗く赤い滲み。左腕に裂傷、肩に打撲の跡。 「いい加減に怪我、減らせませんか?」 「はは、努力はしてるつもりなんだけどなぁ」 とぼけたように笑うその男、ハロルド・ロウゼン。王国軍の司令官であり、かつて魔物を一撃で斃した…伝説の軍人。 そして現在、手間のかかる常連患者でもある。 「いつも無茶なんですよ。それとも、あなたの基準では、これが普通? まさか、健康な状態なんて言わないですよね」 「俺にしてはマシな方だぞ。ほら、今日は骨は折れてない」 「そんな誇らしく言わない!」 フィンはため息をつくと、椅子を引いてハロルドを座らせる。患部を診ようと手を伸ばすと、彼は素直に腕を差し出した。 その腕は大きく、熱を帯びていて、傷だらけだった。なのに、彼の顔には痛みの気配ひとつ見えない。 「…あなたの身体は、限界を通り越しても平然としてるから、怖いんです」 「それ、褒め言葉として受け取ってもいいか?」 「褒める余地がどこかにありました?」 包帯を巻きながら、フィンは思う。 この男はいつだってこうだ。誰よりも多く傷ついて、誰よりも多くの人に頼られて……それでも、笑っている。 「…先生…痛くしないで欲しいんだけど」 「これくらい、あなたにはどってことないでしょ」 怒るように言うも、ハロルドは笑っている。 「はは、先生が怒ってると、俺はちょっと落ち着くんだよな」 「……それ、怒らせて安心するってやつ? 悪趣味ですね」 「違う。まだ俺を気にしてくれてるんだって思えるから」 屈託のない顔でハロルドは笑う。 フィンは黙って包帯の端を結んだ。 ◇◇◇ 地が、唸っている。 それは魔物の咆哮ではなく、地熱が歪み、空気が震える音だった。 なかなか戦場から引き上げられない。次から次へと運ばれてくる負傷者。処置を終える間もなく、新たな呻きが響く。治療班の手が足りず、魔物は減っていない。 フィンが額の汗をぬぐったとき、地面がふるりと揺れた。 一瞬の横揺れ。その直後、再び地が唸る。 まるで地そのものが、何かを押し戻そうとしているような、濁ったうねり。 「……来る」と、誰かが呟いた。 魔物の核が近い。溜まり続けた魔素が、塊になって現れようとしている。 テントの中の兵士たちが顔を見合わせ、処置班の動きが一瞬止まる。 「先生、後衛に避難を……っ!」 その声が届く前に、フィンは目を向けた。 すでに、あの背中が動いている。 ハロルド・ロウゼン。 王国軍の司令官。 全身を覆う鎧の表面には、魔素の影響を防ぐ特殊な処理が施されており、そこに刻まれた緩やかな線条が、淡い光をまとって揺れていた。剣は、すでに抜かれている。 彼の歩く方向に、誰も口を挟もうとはしない。その背を見れば、誰もが理解する。 終わらせるために来た人間の背中だと。 「……っ、先生! 早く!テントの中に!」 誰かが呼ぶ声が聞こえた。 けれどフィンは動けなかった。 処置班を後衛に下げ、被害を最小限に食い止める手配をしたその合間。ほんのわずかな隙間に、あの背中を見てしまった。 目を離したくないと思った。 否……目が、離せなかった。 ハロルドが、剣を地面に突き立てた。 静かな声が、戦場に響く。だが、それは呪文でも、儀式でもない。彼自身の戦意そのものだった。 剣を握る両手。 彼が操っているのは、流れだ。 地の呼吸。空気のうねり。この土地に溶け込み、巡る力の流れ。魔素の循環を、ハロルドは読み取り、切り分けていく。 斜めに、一閃。 剣先が、地面を裂く。 右へ。左へ。三角、円、そして交差。 刻まれた剣の軌跡が、土地に滞留する魔素の流れを断ち切っていく。 「流れを断てば、繋がらない。繋がらなければ、再生もない」 後方で誰かの呟きが聞こえる。 それと同時に、魔物の身体がびくりと痙攣した。再構成に必要な媒体を失い、その核が、空中に曝け出される。 フィンの目に、それが見えた。 青白い魔素が細くゆらりと揺れ、そして、静かに消えていく。まるで、光を吸い込まれるように。 「……封じた」 また別の誰かが、遠くでそう呟いた。 けれど目の前の…遥か彼方に立つハロルドの周囲だけが、まるで戦場ではないかのように、完全な静寂に包まれていた。 剣を支えに、彼は膝をつく。 その背中が、ほんの一瞬だけ揺れた。 フィンは、それを見逃さなかった。 「すぐに準備して! 担架、急いで!」 フィンの声が、処置テントにも響いた。 その瞬間、班が一斉に動き出す。 包帯をまとめ、応急処置具を持つ者、周囲の兵を指示で動かす者。誰もが、そのひと言で方向を得る。 フィンは走った。 誰よりも早く、ハロルドのもとへ向かう。 「……また、無茶をして」 それは、誰にも聞こえないほどの声だった。その声は、自分だけに跳ね返ってきている。 近づくと、ハロルドはいつものように笑っていた。まるで、何事もなかったかのように。 「……先生が診てくれるって信頼してた。だから、少しだけ無理したかもな」 「今回は無茶過ぎる! そして、そんな信頼……必要ないから」 フィンは冷たく言いながらも、震えるその腕に、そっと手を添えた。 ◇◇◇ あの殺伐とした戦場も、今ではただの記憶になりかけている。 思ったより、あっけない終わりだった。 長引くと誰もが思っていた魔物戦は、ハロルドの一撃によって、あっさりと終結した。 魔物との戦いは終わり、国民は歓喜し、街には光が戻り始めた。 けれど__ 国中が『伝説の軍人』と呼ぶその人は、あの瞬間から目を覚まさない。 無理をして出陣し、封じきった代償は、あまりにも大きかった。表面の傷は癒えている。だが、身体の内部損傷は、回復の兆しをまだ見せなかった。 「……もう、ほんとに……バカですね」 フィンはそう呟きながら、ベッドの傍らに座り続けていた。 自分でも呆れるほど、なぜか離れられない。眠っているその顔を見るたびに、息が詰まりそうになる。 場所はすでに、前線ではなかった。 王の計らいにより、街の中心近くにある、ひときわ大きな屋敷が、一棟丸ごと彼の治療と療養のために用意されていた。 警備の兵士も控えの侍従もいる。けれど、この部屋の中だけは、静かだった。 フィンは自分の診断と処置が正しいか何度も確認する。けれど、結果は変わらない。 ハロルドは__ まだ、目を覚まさない。 苛立ちと焦り。 それでも手を止めないのは、自分が医師だからだ。そして、彼をこのまま失いたくないと、誰よりも強く思っているからだった。 「……まだ目を覚さないか」 カイゼル国王が、静かにたずねてきた。 フィンは椅子に座ったまま、無言で頷く。 ベッドの上では、ハロルドが静かに眠り続けている。 魔物との戦いが終わった後、王からの勅命でハロルドは『英雄』として称えられた。 そして同時に、医師であるフィンの働きも讃えられ、療養という名目の褒美が与えられることになった。 「……でさ、先生。ひとつお願いがあるんだけど」 現王カイゼル陛下は、まるで近所の友人に声をかけるような気軽さでそう言った。 「どうか、こいつの回復のために、一緒にいてやってくれない?たぶん、先生がそばにいる方が、こいつ早く目を覚ます気がするんだよね」 「陛下、それは、どういう……」 「いやいや、ほら、療養中って、何かと不便もあるだろ?世話する人間が必要で。べつに、特別な意味はないけど、フィン先生が適任って、俺は思ってるんだよね」 フィンはそのとき、思わず言葉を失った。 王の勅命とは思えないほど、軽やかで、そして、やさしかった。 「それにさ」 __王は続ける。 「ハロルドのああいう顔、先生の前でしか見たことないんだ。だから、俺もちょっと安心したいんだよ」 王は窓の外に一度だけ視線を向けると、ゆっくりと立ち上がった。 「……じゃあ、あとは任せたよ。先生」 フィンは小さく頷くだけだった。 本当は任せられるような余裕はないと思っていたが、口に出すことはなかった。 カイゼル王が扉に手をかける。 その直前、ふと振り返って、笑った。 「目を覚ましたらさ。帰る場所があるってこと、ちゃんとわからせてやってくれ」 それだけ言い残して、王は静かに部屋を出ていった。

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