1 / 29
第1話
戦場の片隅に設けられた、臨時の応急処置テント。湿った布と血の匂いに包まれたその狭い空間で、フィンは淡々と手を動かしていた。
「次、通して。そっちの兵士、そこの寝台に」
「フィン先生、包帯、こちら足りません!」
「棚の下、左の箱の中にストックがある。消毒薬は倍に薄めてから使って」
この喧騒の中で、薬の匂いすらも、もはや特別なものではなくなっていた。感情を置き去りにして手を動かす自分に、ふと寒気がすることがある。
この国の前王が作った腐敗物。
『魔物』と呼ばれるそれらは、国を貪り食う勢いで襲ってきていた。
魔素によって変質した異形のものたちは、人を襲い、土地を穢し、町を飲み込んでいく。
その存在は、かつて秘密裏に生み出された人工の兵器…魔素を強制的に変形・増幅させた実験の失敗作だとされているが、詳細を知る者は少ない。
前王はすでに死に、新たに即位した若き現王が、膨大な負の遺産を背負って立たされていた。
街の一部は無人となり、畑は荒れ、魔物の通った土地には濁った瘴気が残る。安全な場所は限られ、民の不安は日を追うごとに増していた。
それでも人々は生きる。残された者たちが、寄り添うようにしている。
この戦場は、そんな国の修復作業の最前線だった。魔物の掃討と、傷ついた兵士の治療。どちらが欠けても、前には進めない。
そしてそのどちらにも、フィンの手は必要とされていた。
彼は、王都で医学と薬学を修めた医者だ。
実戦でも数多くの命を救ってきた熟練の治療者であり、戦地の医療班を指揮する中心人物である。
戦場に慣れることなど、本来はあってはならない。だが、命を繋ぐためには、時に感情を後ろに置いて進まなければならなかった。
___テントの入口がふわりと持ち上がり、見慣れた大柄な影が現れた。
「よう、先生。また来たぞ」
「……また、ですか。今週三回目ですよ?」
フィンは額の汗を拭う暇もなく振り返った。鎧の隙間から覗く赤い滲み。左腕に裂傷、肩に打撲の跡。
「いい加減に怪我、減らせませんか?」
「はは、努力はしてるつもりなんだけどなぁ」
とぼけたように笑うその男、ハロルド・ロウゼン。王国軍の司令官であり、かつて魔物を一撃で斃した…伝説の軍人。
そして現在、手間のかかる常連患者でもある。
「いつも無茶なんですよ。それとも、あなたの基準では、これが普通? まさか、健康な状態なんて言わないですよね」
「俺にしてはマシな方だぞ。ほら、今日は骨は折れてない」
「そんな誇らしく言わない!」
フィンはため息をつくと、椅子を引いてハロルドを座らせる。患部を診ようと手を伸ばすと、彼は素直に腕を差し出した。
その腕は大きく、熱を帯びていて、傷だらけだった。なのに、彼の顔には痛みの気配ひとつ見えない。
「…あなたの身体は、限界を通り越しても平然としてるから、怖いんです」
「それ、褒め言葉として受け取ってもいいか?」
「褒める余地がどこかにありました?」
包帯を巻きながら、フィンは思う。
この男はいつだってこうだ。誰よりも多く傷ついて、誰よりも多くの人に頼られて……それでも、笑っている。
「…先生…痛くしないで欲しいんだけど」
「これくらい、あなたにはどってことないでしょ」
怒るように言うも、ハロルドは笑っている。
「はは、先生が怒ってると、俺はちょっと落ち着くんだよな」
「……それ、怒らせて安心するってやつ? 悪趣味ですね」
「違う。まだ俺を気にしてくれてるんだって思えるから」
屈託のない顔でハロルドは笑う。
フィンは黙って包帯の端を結んだ。
◇◇◇
地が、唸っている。
それは魔物の咆哮ではなく、地熱が歪み、空気が震える音だった。
なかなか戦場から引き上げられない。次から次へと運ばれてくる負傷者。処置を終える間もなく、新たな呻きが響く。治療班の手が足りず、魔物は減っていない。
フィンが額の汗をぬぐったとき、地面がふるりと揺れた。
一瞬の横揺れ。その直後、再び地が唸る。
まるで地そのものが、何かを押し戻そうとしているような、濁ったうねり。
「……来る」と、誰かが呟いた。
魔物の核が近い。溜まり続けた魔素が、塊になって現れようとしている。
テントの中の兵士たちが顔を見合わせ、処置班の動きが一瞬止まる。
「先生、後衛に避難を……っ!」
その声が届く前に、フィンは目を向けた。
すでに、あの背中が動いている。
ハロルド・ロウゼン。
王国軍の司令官。
全身を覆う鎧の表面には、魔素の影響を防ぐ特殊な処理が施されており、そこに刻まれた緩やかな線条が、淡い光をまとって揺れていた。剣は、すでに抜かれている。
彼の歩く方向に、誰も口を挟もうとはしない。その背を見れば、誰もが理解する。
終わらせるために来た人間の背中だと。
「……っ、先生! 早く!テントの中に!」
誰かが呼ぶ声が聞こえた。
けれどフィンは動けなかった。
処置班を後衛に下げ、被害を最小限に食い止める手配をしたその合間。ほんのわずかな隙間に、あの背中を見てしまった。
目を離したくないと思った。
否……目が、離せなかった。
ハロルドが、剣を地面に突き立てた。
静かな声が、戦場に響く。だが、それは呪文でも、儀式でもない。彼自身の戦意そのものだった。
剣を握る両手。
彼が操っているのは、流れだ。
地の呼吸。空気のうねり。この土地に溶け込み、巡る力の流れ。魔素の循環を、ハロルドは読み取り、切り分けていく。
斜めに、一閃。
剣先が、地面を裂く。
右へ。左へ。三角、円、そして交差。
刻まれた剣の軌跡が、土地に滞留する魔素の流れを断ち切っていく。
「流れを断てば、繋がらない。繋がらなければ、再生もない」
後方で誰かの呟きが聞こえる。
それと同時に、魔物の身体がびくりと痙攣した。再構成に必要な媒体を失い、その核が、空中に曝け出される。
フィンの目に、それが見えた。
青白い魔素が細くゆらりと揺れ、そして、静かに消えていく。まるで、光を吸い込まれるように。
「……封じた」
また別の誰かが、遠くでそう呟いた。
けれど目の前の…遥か彼方に立つハロルドの周囲だけが、まるで戦場ではないかのように、完全な静寂に包まれていた。
剣を支えに、彼は膝をつく。
その背中が、ほんの一瞬だけ揺れた。
フィンは、それを見逃さなかった。
「すぐに準備して! 担架、急いで!」
フィンの声が、処置テントにも響いた。
その瞬間、班が一斉に動き出す。
包帯をまとめ、応急処置具を持つ者、周囲の兵を指示で動かす者。誰もが、そのひと言で方向を得る。
フィンは走った。
誰よりも早く、ハロルドのもとへ向かう。
「……また、無茶をして」
それは、誰にも聞こえないほどの声だった。その声は、自分だけに跳ね返ってきている。
近づくと、ハロルドはいつものように笑っていた。まるで、何事もなかったかのように。
「……先生が診てくれるって信頼してた。だから、少しだけ無理したかもな」
「今回は無茶過ぎる! そして、そんな信頼……必要ないから」
フィンは冷たく言いながらも、震えるその腕に、そっと手を添えた。
◇◇◇
あの殺伐とした戦場も、今ではただの記憶になりかけている。
思ったより、あっけない終わりだった。
長引くと誰もが思っていた魔物戦は、ハロルドの一撃によって、あっさりと終結した。
魔物との戦いは終わり、国民は歓喜し、街には光が戻り始めた。
けれど__
国中が『伝説の軍人』と呼ぶその人は、あの瞬間から目を覚まさない。
無理をして出陣し、封じきった代償は、あまりにも大きかった。表面の傷は癒えている。だが、身体の内部損傷は、回復の兆しをまだ見せなかった。
「……もう、ほんとに……バカですね」
フィンはそう呟きながら、ベッドの傍らに座り続けていた。
自分でも呆れるほど、なぜか離れられない。眠っているその顔を見るたびに、息が詰まりそうになる。
場所はすでに、前線ではなかった。
王の計らいにより、街の中心近くにある、ひときわ大きな屋敷が、一棟丸ごと彼の治療と療養のために用意されていた。
警備の兵士も控えの侍従もいる。けれど、この部屋の中だけは、静かだった。
フィンは自分の診断と処置が正しいか何度も確認する。けれど、結果は変わらない。
ハロルドは__
まだ、目を覚まさない。
苛立ちと焦り。
それでも手を止めないのは、自分が医師だからだ。そして、彼をこのまま失いたくないと、誰よりも強く思っているからだった。
「……まだ目を覚さないか」
カイゼル国王が、静かにたずねてきた。
フィンは椅子に座ったまま、無言で頷く。
ベッドの上では、ハロルドが静かに眠り続けている。
魔物との戦いが終わった後、王からの勅命でハロルドは『英雄』として称えられた。
そして同時に、医師であるフィンの働きも讃えられ、療養という名目の褒美が与えられることになった。
「……でさ、先生。ひとつお願いがあるんだけど」
現王カイゼル陛下は、まるで近所の友人に声をかけるような気軽さでそう言った。
「どうか、こいつの回復のために、一緒にいてやってくれない?たぶん、先生がそばにいる方が、こいつ早く目を覚ます気がするんだよね」
「陛下、それは、どういう……」
「いやいや、ほら、療養中って、何かと不便もあるだろ?世話する人間が必要で。べつに、特別な意味はないけど、フィン先生が適任って、俺は思ってるんだよね」
フィンはそのとき、思わず言葉を失った。
王の勅命とは思えないほど、軽やかで、そして、やさしかった。
「それにさ」
__王は続ける。
「ハロルドのああいう顔、先生の前でしか見たことないんだ。だから、俺もちょっと安心したいんだよ」
王は窓の外に一度だけ視線を向けると、ゆっくりと立ち上がった。
「……じゃあ、あとは任せたよ。先生」
フィンは小さく頷くだけだった。
本当は任せられるような余裕はないと思っていたが、口に出すことはなかった。
カイゼル王が扉に手をかける。
その直前、ふと振り返って、笑った。
「目を覚ましたらさ。帰る場所があるってこと、ちゃんとわからせてやってくれ」
それだけ言い残して、王は静かに部屋を出ていった。
ともだちにシェアしよう!

