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第2話
……あたたかい。
なにかが、額から髪にかけて、そっと撫でていた。まどろんだ意識の中、それが誰の手なのかを理解するのに、数秒かかった。
「……えっ?」
がばりと上体を起こすと、ハロルドの手が、ちょうど自分の頭から離れるところだった。ベッドに横たわる大きな体。その目は、開いている。こちらを、静かに見ていた。
「……目、覚めましたか」
フィンの声は、自分でも驚くほど上ずっていた。
「さっき、起きたところ。……先生、こんなところで寝てたのか」
「あー……寝ちゃってた…みたい…」
「そうか。……寝てる顔、見れてよかった」
「…………」
フィンは言葉を失って、数秒間固まった。
「……そんな、見てよかったってもんじゃないけど」
「いや、よかった。寝顔、可愛かったし」
「……目が覚めて早々、元気そうでなによりです。診察します」
そっけなく言いながらも、フィンはハロルドの額に手を当てていた。熱は引いてきている。脈も穏やかだ。
よかった…目が覚めて…
心の中ではホッとしている。
「もう…あの時のこと、覚えてる? 今回は無茶しすぎ。ずっと目が覚めなかったし。ちょっとは自覚してください」
「あるよ、自覚。どれくらい寝てたんだろ。でも、起きたら先生がそばにいてさ。……それが一番よかった」
「……医者ですから。目を覚まさないあなたの治療をしてました」
「それでも、先生がそばにいてくれたのは、ありがたい」
「……そう。……じゃあ、よかった」
怒っているのか、照れているのか、自分でもわからない声を吐いて、フィンは彼の手からそっと視線を外した。
その手の温度が、まだ髪に残っている気がして、胸が、ちょっとだけうるさくなった。
「まだ回復してない怪我人なんだから、安静にして、よく寝てください。少しでも動くと、回復が遠のきます」
「……でも寝たら、先生と話できなくなるじゃん」
「……は?」
「寝てる間、ずっと聞こえてたんだよ。早く目を覚ませとか、バカだなとか。……俺、返事してなかったか?」
フィンの胸の奥が、じんと熱を持った。どこまで聞こえていたのか。
「……返事できるほど意識があったってこと?」
「ああ、夢かと思ってた。でも、先生の声だったから安心できたんだ」
「…………」
「だから、起きたときに……つい、頭なでたくなった」
「っ……もう、そういうのはいいから」
勢いよく立ち上がったフィンの耳は、ほんのり赤く染まっていた。背を向けると、ハロルドの小さな笑い声が背後から届いた。
「……ありがとな、フィン」
ふいに呼ばれた名前に、フィンの肩がぴくりと揺れる。
名前を呼ばれると、心臓が跳ねる。それを気づかれたくなくて、わざと背を向けた。
「でも……戻ってこれてよかった。陛下も心配してましたから。だから……勝手にどこかにいかないでください」
その声は小さくて、けれど驚くほどまっすぐだった。
ハロルドはベッドの上で微笑んだまま、柔らかな声で答える。
「了解。命令には逆らえないからな」
「……命令じゃなくて、お願いです」
少しの間を置いて、フィンはそう言い直した。背中を向けたままだけど、自分の耳が熱いのがわかる。
「そっか。……お願いなら、なおさら断れないな」
その言葉に、またひとつ、静かな笑い声が落ちた。
フィンは何も返さず、部屋の棚へと歩いていく。けれど、その足取りはほんの少しだけ、軽くなっていた。
◇◇◇
ハロルドが目を覚ましてから、数日が経った。回復は順調で、少しずつ歩けるようになり、今では家事も難なくこなすほどになった。
王の手配で用意された屋敷には、当初、警備の兵士や控えの侍従たちが交代で世話を焼いてくれていた。けれどフィンは、彼らには早々に引き取ってもらった。
彼らにはやるべきことがある。
魔物がいなくなった今、街の再建が急がれており、皆がそれぞれの持ち場で動いている。この屋敷でじっとしているより、必要とされている場所があるはずだ。
「先生ってさ……ほんと生活力ないよな」
不意にハロルドがそう言ってきた。言われたことは、まさに図星だった。
「……っ、否定できないのが悔しい」
「料理なんか特にだろ。それに……さっき洗濯機の前で固まってたのも見たし」
「……洗濯機ってややこしいから」
「はははっ、でも、先生が格闘してるの見てたら、なんか可愛くてさ…笑っちゃったよ」
「失礼だね! あれは自宅のと違うからで……っていうか、成人男性に可愛いは、どうかと思うけど」
「いやいや、めちゃくちゃ可愛かった。そういうとこ、ほんとに好きだし」
あまりにも真っ直ぐ簡単に言われて、フィンは一瞬だけ言葉に詰まった。
悪びれる様子のないハロルドに、腹が立つやら、呆れるやら。からかわれているとわかっているのに、何故か強く言い返せない。
「……からかうの、やめてって」
視線をそらしてそう言うと、すぐにまた、くすっと笑う声が落ちる。
「いや、マジで。思ったより表情に出やすいタイプなんだなって、最近やっとわかってきた」
「……出してるつもりは、ないんだけど」
「そこがまた可愛いんだって」
返ってきたのは、悪気のない声だった。
フィンは、ふぅと静かにため息をひとつついた。何も返せなかったのは、生活力のなさのせいだと考え直す。
「さーて、何か作るか」
ハロルドが腕をまくりながらキッチンに向かう。
屋敷の冷蔵庫には、毎朝きちんと、王からの差し入れが補充されている。肉に野菜に果物まで揃っていて、まるでちょっとした料理人の厨房のようだった。
調理器具も、調味料も完備だ。料理の心得などほとんどないフィンには、正直、宝の持ち腐れだった。
だが、ハロルドは違った。
「今日は野菜中心か。……煮込みでも作ろうか」
「へぇ…煮込み料理。あなた、料理も得意ですよね」
「昔、姉貴に鍛えられてたんだ。毎日な」
そう言いながら、包丁を握る姿は、妙に板についている。
軍服とはまるで違う、日常の顔。その姿に、なぜか視線を外せなくなっていた。
「先生、トマト切れる?」
「……トマトを切る…と」
「ははは、無理そうだな。じゃあ、こっちに座って待ってて」
「座っているだけ?…いやいや、何か手伝うから」
「いいよ、だって、今は俺の番だし」
「番って、何の?」
「先生がずっと俺を看てくれてたろ?今度は俺が先生を面倒見る番だ」
そんなふうに、さらっと言われる。
あまりにも自然で、嘘がないものだから、かえって困る。フィンは少しだけ、目をそらした。
手際よくハロルドが仕上げた料理は、文句なしだった。
湯気を立てる煮込み料理に、香ばしく焼きあがったパン。見た目も味も、まるでどこかの食堂のように整っていて、柔らかく煮込まれた野菜の匂いに、フィンはようやく自分が空腹だったことに気づく。
「……美味しい。……ちゃんと、すごく美味しい」
スプーンを握ったまま、フィンは思わずぽつりと呟いた。
「先生にちゃんと食事をとってもらわないと。……それが今の俺の任務だから」
ハロルドはそう言って、当然のように向かいの席に座った。自分の皿には手をつけず、まるで監視でもするかのように、じっとこちらを見ている。
「あなたのほうが、回復中でしょう。まだ怪我人なんだから」
「いや、もう大丈夫だよ。むしろ、今は先生の方が心配」
「心配? 私の?」
「先生が倒れたら、俺は生きていけないだろ?」
あまりにもさらりと、重たいことを言う。
フィンの手が、ふと止まった。
「……そういう冗談、食事中に言わないで。びっくりするから」
「冗談じゃない」
「……」
「先生は、俺の命の恩人だし。それに……先生がいないと、俺の味付けが正解だったかどうかもわかんない」
「……味見すればいいじゃない」
「でもさ。先生がおいしいって言ってくれるのが、一番の合格ラインだぜ?」
返す言葉が、なかった。
スプーンを握る手に意識がいきすぎて、パンを取ろうとした瞬間、指が滑った。
「わっーー」
落ちる、と咄嗟に思った瞬間、隣から伸びた手がひょいとそれを受け止めた。
「……危なっかしいなあ、先生」
ハロルドが苦笑しながらパンを皿に戻してくれる。
「……すみません」
「いいよ。俺が見てるから大丈夫」
ふっと、ハロルドが笑う。穏やかで、優しくて、どこか安心する笑顔だった。
「ほら、食べて。冷めると味が落ちる」
「……はい。いただきます」
ふたり分の食器が触れ合う音が、静かな部屋に響く。それだけなのに、どうしようもなく、心臓の音がうるさく響いていた。
◇◇◇
食後、片づけを手伝おうとしたフィンの手を、ハロルドがそっと引き止めた。
「……どうしました?」
「いや、ちょっと。こっち来て」
「え……?」
腕を引かれて座ったのは、ソファの隣。
ハロルドのすぐ横だった。
「……あのな、また近いうちに戦うことがあるかもしれない。そうしたらまた、俺はしばらく眠ることになるかも。だろ?」
低く、静かな声だった。
「え……でも、魔物はもう…」
「いや、完全には消えてないと思う。まだ、残ってる」
あれほどの戦いだったのに、ハロルドは再び来ると断言する。
「だから……今のうちに言っておきたい。君ともっと仲良くなりたいんだ。あと、フィン。俺のこと、忘れないでくれ」
「……馬鹿じゃないんですか。忘れるわけ、ないでしょう」
言葉は自然に口をついて出た。そして、そのまま、もう一歩踏み込んでいた。
「それに……別に、仲が悪いわけじゃないでしょ? 私とあなたは」
ハロルドの口元がふわりと緩んだ。
「……うん。そうなんだけど、もっとこう…特別に、仲良くなりたいっていうか」
「……どう仲良くなるつもりなんです?」
「一緒に食事をしたり、生活したり……あとは、一緒に寝たり?」
「は? 最後のやつ、説明不足ですよ」
「んじゃ、今から試してみる?」
「……寝るのはひとりで勝手にしててください」
「ははは。ま、俺の本音はさ、ほんとに君と仲良くしたいだけなんだよ」
冗談めかしたその声に、フィンは目を逸らしきれずにいた。
次の瞬間、ハロルドの指先が頬に触れる。
唇が、わずかな距離で止まった。
「……もう少し、平和が続いたらさ。ちゃんと考えてくれる? 俺のこと」
「考えるって……?」
「何でもいいから俺のことさ、考えて欲しいんだ」
「じゃあ……その時が来たら、考えます」
顔を背けたまま応じると、ハロルドの声が、さらに低く甘く落ちた。
「よし、約束な。そのときが来たら、ちゃんと口説くから。遠慮なんてしないで、まっすぐ堂々と、先生にキスできる日まで」
「……はあ? キス?」
その言葉は、空気に優しく溶けていった。
フィンはそれ以上なにも言わず、ただソファの隅で、彼の顔を見つめていた。
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