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第3話
夜の屋敷は、すっかり静まり返っていた。
フィンは居間の隅の机で、明かりを絞ったランプの下、静かにペンを走らせている。
書いているのは、ハロルドが魔物を一撃で封じた際の、詳細な記録だった。
魔物に関する資料は、ほとんど残されていない。前王がどのようにしてそれらを生み出したのかすら、正確には分かっていない。
今わかっているのは、自分たちがこの目で見た現実だけ。だからこそ、この記録はただの報告ではなく、未来へ繋ぐ証拠でもあった。
ハロルドの動き、地形の変化、空気の流れ。戦闘時に起きた振動と反応、そして術後の身体の状態。それは記録というより、思考の整理に近かった。
一人の医者として。あの現象を、ただの奇跡で終わらせたくなかった。
「……先生、まだ起きてたのか」
ふと声がして振り向くと、ハロルドがドアにもたれかかりながらこちらを見ていた。
「うん、少しだけ。……どうしても、書いておきたくて」
「魔物のこと?」
「あの戦い…再現できるかはまだ分からないけど……構造としては、なんとか理屈に落とし込めそうだから」
ペンを動かしたまま答えると、ハロルドは少し間を置いてから静かに言った。
「……あのとき、地が鳴ったんだ。剣を振る前に」
「……私にも、聞こえてた」
「たぶん、あれ……地中の流れが逆流しかけてたんだ。俺が斬ったのは、流れの接点。でも、あそこを見誤ってたら、俺ごと吹っ飛んでたと思う」
「……そんな状況?危なかったってこと?」
「まあな。力任せだったら、もっと被害出てただろう。……流れを読むのが、ギリギリ間に合っただけ」
「最も危ない状況じゃない! そんな大切なこと、ちゃんと説明してくれればいいのに」
「先生が聞いてくれたら、何でも言うってば」
少しだけ睨むように視線を向けると、ハロルドはまったく悪びれる様子もなく机に近づき、書類に目を落とした。
「この図……俺の足跡まで書いてるんだな」
「当然。あなたがどう動いたかが、いちばんのポイントだから」
「そっか。俺、先生に見られてたんだ」
「見てましたよ。…ずっと、あなたの背中を見てたから」
手を伸ばせる距離じゃなかった。でも、目だけは逸らさなかった。あの時、誰よりも強かったその背中を。
「やっぱり……あなたの言う通り、魔物との戦いは終わりじゃないのかもしれません」
「ああ、残念だけど…あいつら、しつこいから。また、出てくるよ」
「そのときは……気をつけてください。あなた、すぐに傷だらけになるから。なんでも、ひとりで背負ってしまうし」
言ってから、フィンはふと視線を落とした。けれどハロルドは、何も咎めずに目を細め、穏やかに笑っていた。
「……ありがとな」
「……別にそんな、礼なんてことは」
「あるよ。俺、本気で先生に命預けてたから」
その言葉に、ペン先がぴたりと止まる。
ペンを握る手が、じんわりと汗ばんでいた。自分の鼓動の速さに、今さら気づく。
静かな沈黙が落ち、フィンはそっと手帳を閉じた。
「……続きは、また明日にする」
「先生、ちゃんと寝かせてくれる?」
「……仕方ないですね。今度は、私が看る番です」
「おっ! それ、安心する」
ランプの光を落としながら、ハロルドが微笑んだ。そのやわらかな笑顔に、フィンは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
そのまま立ち上がろうとしたフィンの手を、ハロルドがすっと指先で取る。
「先生、看る番って言ったよな?」
「……ええ、言いましたけど」
「だったらさ、今日はもう俺のこと、ちょっとだけ構ってくれない?」
「構ってって……子どもじゃないんですから」
「いや、もう寝る準備はできてる。あとは、優しい手当てだけなんだよね」
にやっとした声色に、思わずフィンは肩をすくめた。
「その言い方、絶対わざとでしょ……」
「わざとだよ。だって、今夜は平和なんだから。こういう夜に先生と話せるの、好きだし。……なんか、いいよな?」
不意に真面目な声音に変わると、胸の奥を撫でられたような気がして、フィンは一瞬だけ視線を逸らす。
「まあ……私も、嫌いじゃないですよ。こういう平和な夜は」
「じゃあ、俺相手にも、優しくしてくれる?」
「……どう、優しくすればいいんです?」
「添い寝?」
「……また、すぐふざける」
「半分だけ本気」
フィンは深くため息をつきながらも、きっぱり否定はしなかった。その沈黙を都合よく解釈したのか、ハロルドはそっとフィンの手を引き、ゆっくりと立たせる。
「じゃあ、一緒に寝室、行こう。今日は俺が甘やかされる番ってことで」
「……添い寝はしません。でも……寝かせてはあげます」
「はは、それでも嬉しい」
「……一晩だけですよ」
「一晩で足りるかな」
「一晩で十分でしょ。足りなければ……その時は、また考えます」
ハロルドの歩みがふと止まり、静かに振り返る。そして、フィンの手を握ったまま、小さく笑った。
「約束な」
夜の屋敷の奥へ、二人の影が並んで、ゆっくりと消えていく。
その手は、まだ離されないままだった。
◇◇◇
早朝の静かな時間が流れていた。けれど、その穏やかさは、唐突な声で破られる。
「おはよう、先生!……って、やっぱ王としてちゃんと挨拶したほうがいい?」
扉がぱたんと開き、明るく気さくな口調の声が飛び込んでくる。
「お、ハロルド、元気そうだな。先生、こいつ大丈夫? また寝てるふりして甘えてない?」
「……カイゼル陛下」
国王カイゼルは、いつものように軽やかな笑顔を浮かべていた。堅苦しさのない態度が、この屋敷によく馴染んでいる。
そして当然のようにダイニングの椅子を引き、気のおけない友人の家にでも来たかのように、テーブルについた。
「おい、カイゼル。人聞きが悪い。寝てるふりなんかしてないぞ」
朝食の準備をしているハロルドが、当然のように返す。気安いやりとりに少し驚いていると、カイゼルがさらりと口にする。
「俺とこいつ、幼馴染でね。こういう感じじゃないと落ち着かないの」
「……そうだったんですね」
「で、先生の診断は? ほんとに大丈夫そう?」
フィンは少しだけ肩の力を抜きながら、答えた。
「体温も落ち着いてますし、脈も安定しています。……ただ、寝起きはあまりよくないですね。起こしても、すぐには起きてくれません」
「あー、それそれ、それが甘えてるってやつだと思うんだよな」
「……え?そうなんですか?」
「そうそう。わざとじゃないのか〜? 先生、気をつけなよ〜」
カイゼルは冗談めかして言うが、どこか安心したような目で二人を見ていた。
「ま、とにかく顔が見たくてね。ようやく落ち着いたみたいで、安心したよ。……特に、ハロルドがいつも通りでいるのを見られたのが、一番嬉しいかな」
その言葉に、フィンはふとハロルドの方へ目を向けた。
「……カイゼル、おまえ、何が言いたい」
ハロルドはそう呟くように言いながらも、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「まあまあ。……で、先生、まとめてた記録って、魔物のやつ?」
カイゼルはハロルドからコーヒーを受け取り、テーブル越しにフィンへ尋ねた。
「はい。封じた際の流れと、術後の影響について記録していました」
「なるほど。で、結論は?」
「完全な消滅ではないかと。彼の一撃は、流れの遮断。再発のリスクはゼロとは言えません」
「そうかぁ……やっぱりね」
カイゼルはわずかに表情を引き締めた。一国を背負う者として、そのリスクを無視することはできない。
「それ、あの時感じてたことがある」
と、ハロルドが口を挟む。
「あの瞬間、地の奥で何かが沈んだ。断ち切った感覚はあったけど、消えたわけじゃない。たぶん、下に潜っただけだ」
「……沈んだ?」
フィンが顔を上げる。
「見えないだけで、地下深くに残ってる。それがまた時間かけて浮いてきたら……また、同じことになるかもな」
ハロルドは、ふっと息をついた。
「断ち切ったのは流れの一部ですか…根本から変えないと、いずれ同じような現象が起きる可能性があるってこと……」
「つまり、今は休戦状態。戦が終わったわけじゃない、ってことか」
カイゼルはため息をつきながら、椅子の背にもたれた。
「……まったく、前王ってやつはロクなもん残してないよな。……俺の父親だけどさ。ほんと、厄介な置き土産を作ってくれたもんだ」
「陛下、私にできることがあれば、全力を尽くすつもりです」
フィンが静かにそう言うと、カイゼルは目を細めて、やわらかく笑った。
「頼もしいな、先生。……そう言ってもらえると、本当に救われるよ。じゃあ、今後も協力、お願いしていい?」
「もちろん。王命ですから」
カイゼルは肩の力を抜くように息を吐き、椅子から立ち上がった。
「じゃ、君たち研究班は引き続きよろしく。俺はそろそろ退散するよ」
「お気をつけて、陛下」
フィンが立ち上がり、軽く頭を下げる。カイゼルはひらりと手を振って応える。
王は、扉の前でふと振り返った。
「で、先生。ハロルドのことも、これからも頼んだよ。……王命ってことで」
「……了解しました」
「ただしね。こいつ、見た目は真面目そうにしてるけど、案外、悪い男だからさ。
油断しないように。気をつけて」
「……どういう意味ですか、それ」
「そのまんまの意味だよ?」
ニヤリと笑ったその顔に、何か含みを感じたが、ハロルドは腕を組んだまま苦笑いを浮かべる。
「おい……悪いか?俺」
「悪いっていうかさ。ちょっと無自覚にやるからタチが悪いって言われるんだよ。
……先生は、そういうの慣れてる?」
「陛下……おっしゃってる意味が、よくわかりません」
「ははっ、わかんない? そっか〜!じゃ、またな。研究班のお二人さん」
カイゼルは軽やかに手を振り、背中を向けて扉をくぐった。去り際に、振り返ることもなくひと声だけ残す。
「ちゃんと、ご飯食べるんだぞー」
カイゼルが出て行ったあと、部屋が静かになる。
ふと横を見ると、ハロルドがじっとこちらを見ていた。
「俺……悪い男って、ことないよな」
「……知らないですよ。だけど、そう見えちゃうときも、あるんじゃないですか?」
「先生的には、どう思ってる?」
「んー……」
フィンは少し考え込み、ハロルドの目を見ずに口を開く。
「……たまに、ちょっとだけ、あるかも」
「ちょっとだけ、ね。じゃあ、他のとこで取り返さなきゃな」
「ほら、そういうとこ。そういうこと言うから、悪い男って言われるんです」
「でも先生、その言い方、妙に甘く聞こえる」
「はあ? そんなことないけど」
フィンはぷいっと視線をそらし、キッチンへと足を向けた。その背後から、当然のようについてくる気配がある。
「朝ごはんにするか。俺が作るよ、先生のために」
「え? いいですよ。私がやります」
「できる?じゃあ、助手で俺を使ってくれ」
キッチンに入った瞬間、フィンは小さく息をついた。なんだか調子が狂う。けれど、頬が緩むのを止められなかった。
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