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第4話
「やっば……焦げちゃった」
キッチンに立ったフィンは、真っ黒なパンを見つめて硬直していた。フライパンの中には、もはやトーストと呼べない炭のような何かが、じっとりと張りついている。
「なに? 大丈夫?」
背後から聞こえたハロルドの声。振り返ると、案の定、笑いをこらえている顔があった。
「笑わないで。……焼いただけなんだよ?」
「それ、焼きすぎって言うんだって」
「こんなになるとは思わなかった。どうしたらいいの…」
最近では、お互い気負いのないやりとりが当たり前になり、気づけば、距離もずっと近くなっていた。
「火、強にしてたよね?」
「えっ……なに?強って。火に強とか弱とかある? もう、これ…難しい」
「いいよ、後は俺がやるから」
「私がやりますって。うーん…何とかならないかな」
「じゃあ、火を止めてから話そうか。先生、煙、上がってるよ」
「うわっ!」
慌てて火を止め、フライパンをシンクに置く。その直後、ハロルドがそっと手を伸ばした。
「ほら、場所交代」
「いや、もう一度やってみる」
「焦がした責任、取れる? 腹減ってるんでしょ?」
「……」
結局フィンが譲ると、ハロルドは慣れた手つきで冷蔵庫から卵とハムを取り出し、
パンをトースターに入れ、手際よくフライパンを洗い直す。
その無駄のない動きに、フィンは小さくため息をついて、黙って見ていた。
「……何でそんなに慣れてるの。手際がいいっていうか」
「一人暮らしが長いんだ。それに、実家では姉貴にも鍛えられたし、妹たちの弁当も作ってたよ」
「へぇ……お弁当も…」
「だから、先生が家事が苦手でも問題ないよ。ほら、昨日の洗濯のときもさ……」
「うっ……あー……あれは、さぁ……」
ハロルドは笑いを堪えきれず、肩を揺らす。対してフィンは、気まずそうに視線を逸らし、指先をもぞもぞと動かした。
「洗濯機の止め方わからなくて『なんで!止まらない!?』って叫んでたの、俺は一生忘れないけど?」
「せ、説明書がないからわからないんだって」
「はいはい」
軽く受け流すように言いながらも、ハロルドは目尻を下げ、どこか愛おしそうに見つめる。その視線に気づいたフィンが、むっとしたように唇を尖らせた。
「……笑ってるでしょ」
「笑ってるよ。だって、そういうとこも可愛いから」
トーストの香ばしい匂いと、ハムエッグのじゅうじゅうという音が、台所に心地よく広がっていく。
「ほら、完成。熱いうちにどうぞ」
「……ありがとう…ございます」
トーストの上にはバターがふんわりと塗られ、ハムエッグは黄身がとろりと流れる絶妙な半熟具合。
「う…うっま… 超絶美味しい、これ」
ぽつりと漏らしたそのひと言に、ハロルドがふっと笑った。
「よかった」
「なんで、そんなに何でもできるの?しかも、短時間で。私なんか、すぐ頭が真っ白になるのに」
「先生は、何にもできなくても問題ないけどね」
「……また、ちょっと失礼なこと言う」
「あはは、違うよ。俺に頼ってくれるの、嬉しいってこと」
フィンはパンをかじりながら、思わず視線をそらす。
「……頼ってるつもりは、ないけど」
「でも、わかるんだ。ちゃんと顔に出てる」
「……うっ……顔になんて出てないし」
「出てるよ。むしろ今の顔、保存しておきたいくらい」
「…………っ」
「かわいいとこ、また見せてくれてありがとな」
もう、言い返す気力もなかった。フィンは小さく肩をすくめると、顔を伏せた。
「……かわいくは…ない」
小さな声と一緒に顔を背けたその仕草に、ハロルドは満足げに微笑み言い返される。
「いいや、俺が断言する。フィンは、可愛い」
急に名前を呼ばれ、まっすぐに見つめられる。心臓がひときわ強く跳ねた。
今までも時々、ふとした拍子に名前で呼ばれたことはあった。けれど、こんなふうに、目を逸らさず、はっきりと「フィン」と呼ばれたのは初めてだった。
フィンはパンに視線を落としたまま、口を閉じる。熱いのは、焼きたてのせいじゃない。
「……あなた、そういうこと言うから、陛下に悪い男って言われるんですよ」
「え、それ俺のせい? フィンの前だけ、ちょっと調子に乗ってるだけだよ」
また呼ばれた__フィン。
その低い声が胸の奥まで染み込み、じわりと熱を残す。
「そういうのが悪いって言うんです」
「じゃあ、フィンの前では、ちょっと悪い男でいいか」
「……勝手に開き直る」
思わず笑いがこみ上げてしまいそうで、フィンはコップに手を伸ばしてごまかす。けれど、その指先は少しだけ揺れて、コップの縁をなぞるように触れた。
その仕草を見ていたハロルドが、少しだけ真面目な声で続ける。
「でも俺、ほんとに思ってるから」
「……何をです?」
「君が、可愛いってこと。…それと、もっと頼ってほしいってこと」
フィンの手がぴたりと止まる。返事が少し遅れて、その指先がそっとテーブルに戻される。ほんの一瞬、ハロルドがその手の近くに自分の手を置く。けれど、触れはしない。
「って、今のは悪い男の台詞っぽかったか」
「……っ、もう、知らないって」
フィンは小さく息を吐いて、ほんの少しだけ目を伏せる。
笑い合いながらも、そこにふと立ち止まるような静けさが生まれた。
ふたりの距離は、確かに縮まっていた。
その隙間には、触れそうで触れない手と、じんわりとあたたかな何かが、静かに満ちている。
◇◇◇
ハロルドは意識不明だった時間の長さに反して、身体の損傷は驚くほど少なかった。
もともとの体のつくりか、あるいは体力の回復力、治癒の進みも早く、今はもう日常生活に支障はない。
復帰の兆しが見え始めたある日、王宮から使いの者がやってきた。
「フィン先生、王宮からお手紙です」
屋敷の門を叩いたのは、見慣れた王宮の使者。差し出された封筒には王印と、カイゼル直筆の署名がある。間違いなく、正式な依頼状だった。
フィンはリビングに戻り、封を切る。
紙を広げた瞬間、眉がわずかに動いた。
静かに書面に目を通していくうちに、その横顔に、真剣な色が戻っていく。
「……地脈の調査依頼。南東の郊外。ここ数日、微かな揺れが続いてるらしい」
そのとき、後ろからそっと気配が近づいた。
「また、魔物の兆しってやつか?」
声とともに、隣にハロルドが来る。彼の肩が、ふとフィンの肩に触れた。
「……そこまでは明言されてないけど、調査が必要とのこと。私たちに依頼するよう、書かれてる」
「カイゼル、俺たちのこと研究班って勝手に呼んでたもんな」
「でも、確かにこれは……誰かが行かなきゃいけない内容」
「だったら、俺たちが行くしかないな」
ハロルドが、手紙をのぞき込みながら言う。フィンは一瞬だけ思案し、それから静かに頷いた。
「そうだけど……ただ、判断が難しい」
フィンは一度、視線を落とす。行きたい気持ちは確かにある。けれど、まだ完全とは言えないハロルドの身体を思えば、迷いが胸をかすめた。
「あなたはまだ療養中だから、今回は私ひとりで行くべきかと」
「君が行くなら、俺も行く。身体はもう大丈夫だって、ちゃんと診てもらっただろ?」
「完全に問題がないとは言えない。できれば、あと数日は静養してほしいくらいだから」
「でもこれは王命だ。それに……本当は行きたいんだろ?」
「……う、まあ。そうだけど」
「じゃあ、決まり。泊まりがけになるな。 王からの依頼の内容じゃ、とても日帰りじゃ済まなそうだ」
小さく息を吐き、フィンは観念したように頷く。
「わかった。……じゃあ、準備しておきます」
翌朝の早い出発が決まり、フィンは部屋に戻ると急いで荷造りを始めた。最小限のつもりでも、あれもこれもと気がかりになり、手が止まる。
大ごとにならなければいい……そう願いながらも、魔物の問題がまだ終わっていないという直感が、どこかでうずいていた。
荷物をまとめ終えるころ、控えめなノック音が響いた。
「……どうぞ」
扉を開けると、部屋着姿のハロルドが立っていた。いつもと変わらぬ落ち着いた表情だった。
「どう? 荷造り終わったか?」
「とりあえず、終了。荷物は最小限にしておいたけど」
「明日の朝、王宮から使いが来る。カイゼルが馬車を手配したらしい。フィンは、それに乗ってくれ」
「あなたは?」
「俺は馬で行く。先に現地に入って、周囲の様子を見ておきたい」
「……無理はしないで。あなたは、まだ完全に、」
「大丈夫。ちゃんと、フィンに叱られた分は気をつけるから」
その言葉に、フィンはわずかに口をつぐんだ。言い返しきれず、けれどまだどこか引っかかる。それを察したように、ハロルドがふっと笑う。
「……じゃあ、約束するよ。君が来るまで、絶対に無茶はしない。何かあれば、すぐ引き返す。それでどう?」
「……それなら、まあ……いいけど」
「よし、合意成立。さすが研究班の判断は早いな」
軽く肩をすくめて笑うハロルドに、フィンはじっとその顔を見てから、少しだけ口を尖らせた。
「……なんか、あなた…浮かれてない?」
「そりゃそうだろ。フィンと一緒に出張だぞ? 楽しみでしかないよ」
「……遊びじゃないでしょ」
「もちろん。俺は仕事も、君の相手も、ちゃんと全力でやるから」
「その…相手って、どういう意味?」
「さあ?」
「……なにそれ。ごまかさないでよ」
フィンがわずかに眉をひそめて言い返すと、ハロルドは肩をすくめて、いたずらっぽく笑った。
「だって、はっきり言ったらフィン、また顔真っ赤にするだろ?」
「っ……しません」
「ほんと? じゃあ言ってもいい?」
「……やっぱり言わなくていい…」
「ほら、やっぱり可愛い」
「だから、そういうのが悪い男って言われるんだって」
「そんなこと言うなよ。ま、俺は、フィンの相手って言われたら、いつでも喜んで名乗り出るけどね」
「……っ」
フィンは言葉に詰まり、視線をそらした。
「そういう冗談、やめてってば」
「冗談だったらいいか?」
「……違います、そういう意味じゃなくて……」
言いかけて口を閉じ、コップを手に取り、ごまかすように水をひと口。それを見たハロルドは、少し声を落として、静かに言った。
「……俺は、ちゃんと本気だけどな」
「……」
「でも焦らないよ。君が望むなら、ゆっくりでいい」
そう言い残して、ハロルドは静かに部屋を後にした。扉が閉まる音がやけに遠く感じる。
不意に、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
返事は、できなかった。
「……私も、無茶はしないようにしないと」
荷物に目を落としながら、フィンは静かにそう呟いた。その頬にはまだ、熱がじんわりと残っていた。
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