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第5話
現地に到着した頃には、太陽はすでに高く上っていた。調査地点の郊外には、石柱のような目印がいくつか整然と並んでいる。
そのうちのひとつ、根元付近には、確かに細かな亀裂が走っていた。
馬車を降り、視線を上げる。少し離れた岩場の上に、見慣れた背中があった。
「……無事に着いたな」
ハロルドが岩陰から姿を現し、軽く手を上げてくる。砂埃にまみれながらも、どこか晴れやかな顔をしていた。
「地形の状態はどうでした?」
「一部に亀裂が入ってた。風の流れに引っ張られて、魔素が逆流してるみたいだ。あとで一緒に確認しよう」
フィンは周囲に目をやった。遠くで小鳥が鳴き、風に葉が揺れる音が、規則正しく心地いい。
「……なんだか、不思議な場所。空気が澄んでいて、心地いい」
「だよな。植物も動物も、むしろ生き生きしてる。魔物がうごめく気配なんて、感じられない」
その通りだった。
魔素が滞る場所には独特の圧迫感や淀みが生まれるはずだ。だがこの土地には、それがない。むしろ循環している自然のリズムのように。
「……でも、地表の一部には、明らかに傷みが出てる」
「つまり、何かが動いてるってことだ」
ハロルドの言葉に、フィンは小さく頷いた。
「しばらくこの地に滞在して調査を続けましょう。研究と医療支援を兼ねて、私の班と軍事班に応援を頼みます」
「了解。今日は、ふたりで見られるところまで見ておこう」
ここには、確かに流れがある。
生き物たちを育み、土地を潤すような、自然の呼吸のような、穏やかな力の循環。
これが本当に、魔物の兆しなのだろうか。
目に見える魔素の粒は、ふわりと漂っているだけだった。警戒すべき異常反応もなく、魔物に変形する兆しもない。その動きはまるで、静かな呼吸のように自然だった。
……前王は、本当に魔物を創ろうとしていたのか?
もしも……人々を守るための何かを、生み出そうとしていたのだとしたら。それが意図せず魔物と呼ばれるものになってしまったのだとしたら。
「……この土地自体が、なにかを知っている気がする」
フィンはぽつりと、誰にも聞かせるつもりのない声で呟いた。
「フィン?」
「……少し、気になっただけ。ここが穢れているとは思えなくて」
「うん……俺もそう感じるんだよな。ここはちゃんと調べたほうがいいだろ」
「……そうですね」
空を見上げると、雲がゆっくりと流れていた。風が心地よく吹き抜けていく。
何かが間違っていたのか。それとも、最初から伝えられていない真実があったのか。
フィンの胸に、淡い疑念と確かな使命感が芽生えはじめていた。
岩に腰を下ろしたフィンのそばに、いつのまにかハロルドが来ていた。
「座りにくかったろ。岩が滑りやすい」
そう言うと、ハロルドは何気ない手つきでフィンの手を取る。支えるように、けれどどこか自然で、迷いのない動きだった。
「……大丈夫、ひとりで座れるって」
「知ってる。でも、手ぐらい貸したっていいだろ」
そう言いながら、ハロルドはフィンの手を軽く引いて、より安定した岩の位置に移動させる。その仕草には力はこもっていないのに、拒めない温かさがあった。
フィンはほんの一瞬だけ、つないだ手元に視線を落とす。
「あなたって……甘やかすよね。そういうの、癖になったらどうするの」
「じゃあ、癖になってもいいんじゃないか?」
そう返したハロルドは、今度は背後の袋から何かを取り出した。
「はい、これ。ちょっと潰れたけど……」
手渡されたのは、小ぶりな黄色い果実だった。皮にはうっすらと土の跡が残り、まだほんのりと陽のぬくもりが残っている。
「……これは?」
「さっき、村の人から分けてもらった」
「……へぇ、なんていう果物だろう。……こういうの、嬉しい」
「だろ? フィンをケアするって、俺なりの方針を立ててみた」
「……勝手にそんな方針、立てないでください」
「でも、ちょっと疲れて見えたからさ。腹も減ったろ?」
「……それ、本来は医者の私の役目なんですけど」
「あはは、でも褒めてくれてもいいぞ?」
「……子どもですか、あなたは」
「いいや、君に褒められるのが嬉しいだけの、立派な大人です」
フィンは思わず笑みをこぼし、手の中の果実に目を落とした。ほんのりと、どこか懐かしい香りがする。
まだ知らない土地。けれど、こうして誰かがそばにいてくれるだけで、不思議と心の奥が穏やかにほどけていく気がした。
◇◇◇
気持ちのいい日中とは打って変わって、夜になると、あの清々しかった土地はまるで別の顔を覗かせる。
窓の外、風が止み、空気が張りつめるように重たくなっていく。ほんのかすかな揺らぎが、草の先端でちらちらと光る。魔素の粒。それが静かに蠢き始めていた。戦場に似た、あの緊張感を含んだ空気だ。
「……夜になると変化した。これ、魔物だと思う?」
フィンは窓辺に立ち、カーテンの隙間から外を見つめていた。草の先に光る魔素の粒が、大気そのものの呼吸のように、ふわりと揺れている。
背後には、ダブルベッドがひとつだけ置かれた簡素な部屋。
しばらくこの地に滞在することになり、ハロルドが村の長老と話をつけて空き家を借りたのだった。
村の端にある小さな木造の家で、キッチンと寝室がひとつずつ。テーブルと棚のあるだけの質素な造りだが、木の香りと窓からの光が心地よく、どこか懐かしさを感じさせた。
昼間は静かで温かいこの家も、夜になると空気が微かに変わる。
風が止み、外の気配が重たく沈む。
その気配は家の中にまで入り込み、窓を通じて肌を撫でるようだった。
「……空気が引き締まってる。魔素の密度が、昼間とは明らかに違う」
窓を少しだけ開けると、夜の冷気がフィンの頬に触れた。揺れる魔素の粒が、光とも煙ともつかぬかたちで漂っている。
「反応してるって言った方が正確かもな」
ハロルドの声が背後から届く。彼はベッドの上に腰かけ、同じように窓の外を見ていた。
「……気配、感じる?」
「少しだけ。敵意はないけど……静かすぎる。何かが、じっとしてるような感じだな」
フィンはそっと窓から離れ、ハロルドの隣に腰を下ろした。
「この土地自体が力を持ってる。でも暴れてるんじゃない。ずっと、何かに耐えてる……そんな気がする……守っているようにも見えるけど…」
「だよな……だから、余計に、わからない」
静けさがふたりの間に落ちた。夜気がそっとフィンの肩を撫でる。思わず腕をさすったところで、ハロルドが小さく声をかけた。
「……寒い?」
「うん……少し冷えたかも」
「こっち来る? ほら、掛け布団広げてるから」
「……大丈夫」
「大丈夫でも、今日からは一緒に寝るしかないだろ? ベッドはひとつなんだし……俺が抱きしめてあげるから」
「……は?」
「冗談だよ」
ふっと笑う声が落ちた。それだけで、少し張りつめていた空気がほどけていく。
「……でも、俺はそばにいるよ。何かあったら、すぐに対応する」
「……頼もしいですね」
「それに、君が安心して寝られるようにって思ってる。今日は、けっこう疲れただろ?」
「うーん…疲れたかも。じゃあ、少しだけ寄りかかってもいい?」
「は………え?……はい?」
「なに、驚いてるの。あなたがこっち来る?って言ったんでしょ?」
「いや、まさかの反応にちょっと困ってる。……可愛すぎて」
「……そういうの、言わなくていいから」
フィンはそっとハロルドの肩に寄りかかる。あたたかくて、安定した温もり。外がどれだけ不穏でも、ここは静かだった。
ハロルドの肩に寄りかかったまま、フィンはまぶたを閉じる。
けれどすぐに、耳元でささやかれる声に、静かに反応する。
「……フィン」
名を呼ばれた瞬間、フィンの肩がわずかに揺れた。夜の空気に溶けず、そのひと声だけが胸に深く残った。
「……はい」
「俺もそうだけど……君も、無茶はしないでくれ」
目を開けると、ハロルドの視線がまっすぐ向けられていた。冗談もなく、笑いもない。ただ、まっすぐな思いだけがそこにあった。
「先生として、じゃなくて。フィンのことが大事だから、言ってる」
「…………」
ふたりだけの静かな時間に、こんなふうに名前を呼ぶなんて、ずるい。耳に落ちたその響きが、胸の奥で小さく弾ける。
視線をそらそうとしたが、できなかった。けれど、見つめ返すこともできず、フィンは目を伏せた。
「……無茶なんて、してない」
「してないうちに、止めておきたいんだよ」
ハロルドの手が、そっとフィンの指先に触れる。握るわけでもなく、ただその体温だけがじんわりと伝わってきた。
「俺の手の届くところにいて欲しいけど」
「……別に、近くにいるじゃないですか」
「じゃあ、もっと近くにいてくれ」
そのまま寄せられた顔を、フィンは拒まなかった。ハロルドの額がそっとフィンの額に触れる。ごく自然な距離。呼吸すら重なるほどの、静かな近さ。
「……フィン。もう寝よう……」
ハロルドがぽつりとそう囁き、ゆっくり布団の端を引き寄せる。
そのまま、ふたりは同じ向きで横になった。けれどすぐに、フィンの肩が微かに揺れる。
「ねぇ、ちょっと……近すぎない?」
「狭いんだ。しょうがないだろ」
「……わざとにしか思えないけど」
「わざとだよ?」
「…………っ」
わずかな灯りが残る部屋の中、ふたりの影が布団の中で静かに揺れる。
フィンは布団の中でそっと距離をとろうとしたが、それを察したように、ハロルドがわずかに引き寄せてきた。
「うそうそ、冗談。ほら……寒いだろ? 夜気が入り込んでる」
「……言い訳に聞こえるんだけど」
「いや、ほんとに寒い。……だから、離れるなよ」
「……さっきまで真面目な顔してたくせに」
「いや、君だって寄りかかってきて素直だったぞ?」
「…………ほんと、いちいち、ずるいんだけど、あなた」
そう言いながらも、フィンの声はもう怒っていなかった。むしろ、照れ隠しのような語尾の揺れが、布団の中にふわりと漂う。
互いの肩がかすかに触れ合う距離。
少し動けばすぐに腕が触れるような、曖昧な境界だ。
「あはは、ほら、もう寝ようぜ。だけど、いつかちゃんと手、繋いで寝ていい?」
「は?」
「いや、妄想」
「……早く、寝て」
「はいはい、おやすみ」
そう言いながらも、ハロルドの声はどこかうれしそうだった。
ふたりの間に、静かな夜の気配がしみ込んでいく。外の魔素のざわめきも、この部屋の中には届かない。
眠る前のほんの短い時間。
寄り添うわけでもなく、背を向けるわけでもなく。ただ、同じ空気の中にいるというだけで、こんなにも心があたたかくなるなんて。フィンはまぶたを閉じながら、そっと息を吐いた。
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