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第6話

朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。遠くで鳥が鳴き、風が窓を揺らす音が微かに響いた。どこか現実感の薄い静けさだった。 フィンは、まぶたを閉じたまま、ぼんやりと思う。 ……温かい。 身を起こそうとしかけて、ぴたりと止まった。右肩に、ぬくもり。腕が、ゆるく抱き寄せてくる。 「……おはよう、フィン」 耳元にくぐもった声。目を開けると、すぐ隣でハロルドが微笑んでいた。 「……なんで、そんなに近くにいるの」 「はは、寝てる間に寄ってきてたぞ?」 「……嘘。引き寄せたでしょ」 「証拠は?」 「……ないですよ。寝てたから、記憶なんてないでしょ」 ぼやきながらも、フィンは顔をそらすだけで、腕を払いのけたりはしなかった。むしろ、そのまましばらくこうしていたいくらい、心地よかった。 「……あったかい。朝晩は冷えるね。もう少し、こうしていたいかも」 「こういうときだけ素直になるの、ずるいよな」 「……ずるいって? なにが…」 小さな木造の家は、思いのほか冷え込む。けれど、隣にある体温のおかげで、布団の中だけはぬくもりに包まれていた。 「フィン…」 早朝の静けさの中で響く名を呼ぶ声に、フィンはぴくりと肩を震わせて反応してしまう。 「……なに。もう…」 くしゃりと髪に指が触れる。撫でるように優しく、けれど次の瞬間にはぐいと抱き寄せられていた。 やっぱり、寄ってきたのは自分じゃなくて、ハロルドの方だと確信する。 「ほら、やっぱりあなたが引き寄せたんじゃないですか。もう、起きるよ! 朝から調査しないと」 恥ずかしさをごまかすように、フィンはぐっと腕を振りほどいた。 「ははは……そうやって照れるとこ、ほんと好きだな」 ハロルドはまったく動じない。むしろ布団の上から肘をつき、余裕の笑みを浮かべながらじっとこちらを見上げてくる。 「なぁ……もう一回、呼んでいい?」 「……何を」 「名前だよ。フィンって……名前呼ぶと、めっちゃ反応してくれるから」 名を呼ばれて反応してしまったのがバレているようである。なぜだか分からない。それでも、彼に名前で呼ばれるたび、胸の奥がくすぐったくて、少しだけ誇らしいような、温かい気持ちになる。 「っ……そんな何度も呼ばなくていいから」 ハロルドが笑う。からかうようでいて、彼もどこかうれしそうに見える。 「そういうとこ、見てて飽きない」 「……朝から観察しないで」 「するよ。俺の隣で眠ってるのに、見ずにいられるわけないだろ?」 「……………」 言い返そうとして、言葉が出てこない。 その沈黙に気づいたように、ハロルドはゆっくりと布団の中で体を起こし、フィンの顔を覗き込んだ。 その姿勢は無防備で、けれど…まっすぐに向けられた視線に、フィンの心臓がふいに跳ねる。 「……な、なに、」 思わず目をそらし、唇をきゅっと引き結ぶ。 「早く支度して……もう、先に行くからね」 「はいはい。じゃあ、調査班出動ってことで」 そう言いながら伸びをひとつして立ち上がるハロルドに、フィンはわざと視線を合わせず、そっけなく言い添える。 「……これから、調査班のみんなと合流するから。だから…名前を呼ぶの、控えて。夜だけにして」 「……えっ、夜なら呼んでいいのか?」 「そ、それは……っ……この部屋ならいいっていう意味! もう……っ!」 部屋に軽い笑い声が転がる。 そしてふたりは、調査班の仲間と合流し、 再び、魔素の蠢く土地へと歩みを進めていった。 ◇◇◇ 村の朝の空気は、昨夜の重たさが嘘のように澄んでいる。やわらかな陽が差し込み、草の上には朝露が光っていた。 フィンは小型の測定器を手に、地表付近の魔素濃度を記録していた。昨夜、微弱ながらも観測された魔素の反応は、今はすっかり沈静化している。まるで、夜だけ目を覚ます生き物のようだった。 「……やっぱり、昼と夜とでは反応がまるで違う」 「夜だけ暴れて、朝には何もなかった顔してるなんて……ずるいやつだな」 後ろで軽口を叩くハロルドは、土壌の状態や亀裂の深さを確認している。彼が印をつけていた地点は、フィンの測定結果としっかり一致していた。 その手つきは確かで、無駄がない。 ごつごつとした手のひらが土を押さえ、地形を読むように目を細める姿に、フィンはふと視線を止めてしまう。 戦場で鍛えられた勘と経験。それに裏付けられた行動は、理屈よりも正確で、安心できる何かを持っていた。 ハロルドは本当に頼れる人だ。思わず心の中でそう呟き、フィンは慌てて視線を外す。けれど次の瞬間にはまた、そっと視線が戻っていた。 そんなときだった。 「おじさん!それ何してるのー!?」 元気な声が響く。 振り向けば、地元の子供たちが数人、興味津々にこちらを覗き込んでいた。 「おいおい、俺はまだお兄さんで通るだろ」 「うーん? でもおじさんじゃないの?」 「……ショックだ」 ハロルドは苦笑しながらもしゃがみ込み、子供たちの視線に合わせて話す。 「今な、このあたりが変になってないか調べてるんだ。ここの地面が元気だと、みんな安心して過ごせるからな」 「ほんとー? あっ!お兄さん、剣持ってる! 見せて!」 「あはは、あとでこっそり見せてやる」 ハロルドはあっという間に子供たちに囲まれ、にぎやかな輪の中心に入っていた。 「……お兄さんって、騎士なの?本物?」 「本物じゃなきゃ、剣なんか持ってないだろ?」 「うわー……かっこいい……」 その賑やかな背中を眺めながら、少し離れた場所でフィンは記録をつけていた。 ふと視線を上げると、いつの間にか、子供たちに小さな花飾りを頭に乗せられているハロルドの姿が目に入った。 思わず吹き出したその瞬間、気がつけば、今度はフィンが近所のおばあさんたちに取り囲まれている。 「あなたが、王宮から来た先生かい?」 「はい。フィンと申します。よろしくお願いいたします」 「まぁ、賢そうで安心するわ。こうして来てくださると、本当に助かるのよ」 「あっら〜、綺麗な先生ね〜。目元が上品」 「今日の朝に焼いたパンがあるの。お茶でも飲みにいらっしゃいな」 「あっ、ありがとうございます。でも今日は、ちょっと……」 「いいのいいの、遠慮しないで。若い人と話すと元気が出るのよ〜」 まるで、孫にでもちょっかいを出すといった空気である。完全にペースを持っていかれ、じりじりと後退していくフィンを、少し離れた場所からハロルドが苦笑まじりに眺めていた。 そしてついに、ハロルドは腰に手を当て、大きな声を張った。 「おーい、俺の先生なんだ! あんまり囲んで困らせないでくれ!」 「なぁに言ってんのよ、あなた。ちょっと貸すだけよ? 一日くらい我慢なさい」 「そうそう、ちゃんと返すから。あんたのところに、たぶん夕方には」 「長い! 先生、マジで連れてかれるぞ!」 ハロルドが歩み寄ろうとしたところ、今度は子供たちが走ってきて、ぐいっと腕をつかまえていた。 「だ〜めっ! お兄さんはまだボクらと遊ぶの!」 「ねぇねぇ!さっきの剣のやつ見せて!見せてってば!」 「騎士の構えって言ってたやつ、やって!」 それを見て、おばあさんたちからあははと楽しそうな笑い声が上がる。 「ほらほら、お兄さんも観念してお茶でも飲んでいきなさいよ。その花飾り、けっこう似合ってたし」 「……それは、勘弁してくれ……」 「いいじゃないの。先生も、こっちの騎士さんも、なかなか絵になる組み合わせだこと」 「ねぇ、どっちが先に惚れたの? 言ってごらんなさいな」 「順番はどうでもいいのよ、どこに惚れたのか教えてちょうだいな」 「こんな綺麗な先生、どうやって口説いたのよ。あんた、頑張ったね〜」 ハロルドは目を伏せ、苦笑しながらぼそっと呟いた。 「いや……俺の先生だって言っただけなんだけどな」 引きつった笑みを浮かべたまま、ハロルドが視線を上げる。おばあさんたちの輪にすっかり収まったフィンと目が合い、ほんの一瞬、互いの口元がゆるんだ。助けを求めるようでいて、どちらも笑っていた。 昼前には、フィンの提案で広場にて臨時の健康診断が行われることになった。 「魔素の影響で体に不調が出る可能性があります。念のため、調べさせてください」 その呼びかけに村人たちは素直に応じ、お年寄りから順に診察を受ける列ができていた。子供たちは広場の端で遊びながら、自分の番を待っている。 フィンはひとりひとり、血圧や脈拍、皮膚の反応、視覚や聴覚などをチェックし、必要に応じて簡単な採血と問診も行っていく。 検査を進めるうちに、ある共通点が浮かび上がってきた。 「……だれひとり、体に悪影響が出ている様子がない」 むしろ、多くの人の体内年齢は若いように感じる。まるで、土地と調和しているようだった。 フィンがこれまで見てきた例では、魔素が悪さをし、頭痛や吐き気、ひどい場合は感覚の喪失や内臓の異常まで引き起こすこともある。 しかし、この土地の人々には、その兆候がまったく見られなかった。 「……おかしい。これが魔素がある土地の状態とは思えない」 測定値の記録をまとめながら、フィンは考えを巡らせる。土地の空気、風の流れ、体の反応……どれもが他の地域とは異なっていた。 そんな静かな時間のなか、ハロルドの声が届く。 「先生、どうだった?」 周囲の村人たちがまだ近くにいるせいか、彼はきちんと「先生」と呼んでいた。名前ではなく、距離を置いた呼び方。けれど、その低い声の響きは、どこかフィンにだけ向けられているようで、胸の奥がふっと温かくなる。 「うん……少し、予想と違う」 「悪い意味で?」 「いえ、逆。むしろ、良すぎるくらい……皆さんの体調がとても穏やかで、土地の流れと調和してるように見える」 「異常っていうより……特異、か」 フィンが頷くと、ハロルドはふっと目を細めた。 風に髪が揺れ、頬に光が差す。その横顔から、視線が離せない。我に返ったフィンは、慌てて記録用紙に目を落とした。 「……この土地自体が、人を守ろうとしてる。そんなふうにも見えるな」 「私も、そんな印象を持つ。本来は、魔物の兆候としての調査だけど、どうにも……それとは違う気がしてきた」 「じゃあ、その謎、聞いてみるか。土地に」 「……そうですよね。この土地の声を、ちゃんと、知りたい」 フィンは小さく息を吐き、手元の記録用紙を閉じる。その声に込められたのは、静かな覚悟だった。 「なら、一緒に聞こう。君となら、きっと分かる気がする」 ハロルドが一歩寄る。陽光がふたりの間に落ち、まだ見ぬ何かの予感が胸を熱くする。 ふと歩き出したフィンの横顔を見ながら、ハロルドが静かに言った。 「……この先、何があっても君のそばにいる。それだけは、決まってる」 フィンは立ち止まる。 けれど、振り返らずに、小さく呟いた。 「……それ、今は冗談に聞こえないんですけど」 「冗談なんて、ひとつも言ってないよ」 背後から届くその声に、鼓動がひとつ、静かに跳ねた。 午後、ふたりは村の長老たちが集まる集会所を訪ねた。石造りの古い建物には、時折鈴のような音が響き、どこか静謐な空気が漂っている。 「フィン先生!」 「あらあら~、ほらほら!噂の綺麗な先生が来たよ〜」 先ほど健康診断を終えたばかりのおばあちゃんたちに、さっそく取り囲まれる。 皆、気さくでにこやかで、その歓迎の熱量にフィンは思わずたじろいだ。 「あの空き家に、しばらく滞在するんでしょ?」 「あ、はい。家をお借りしました。本当にありがとうございます」 「だったら、これ持ってって! うちの畑で今朝掘った新じゃが!」 「私からはクッキー。先生が来るって聞いて焼いたのよ!」 あとからあとから、パンや野菜、干した果物、お菓子まで。両手に抱えきれないほどの差し入れが集まっていく。 「えーっ…わっ、すごい! こんなに……」 困惑しつつも、どこかあたたかくなる気持ちを抑えきれない。一方、部屋の反対側では、ハロルドが子供たちに囲まれていた。 「お兄ちゃんだ!」 「剣見せてー!」 「ねえ、遊んでー!」 人懐っこい子供たちは、ハロルドの姿を見つけるなり飛びついていた。腕にぶら下がり、抱きつき、笑い声が部屋中に弾ける。 小さな村だが、人は多く、そして皆、元気で明るい。自然の中で生きる人たちの息づかいが、どこまでもまっすぐだった。 そんな中、ひときわ落ち着いた雰囲気で出迎えてくれたのが、白髪の長老だった。 にこやかではあるが、目の奥には深い知恵の光が宿っている。 「……魔素のことを聞きに来たんじゃな」 フィンの診断結果を聞いたあと、長老は穏やかに口を開いた。 「……この土地はな、かつて精霊の眠る谷と呼ばれておった。魔素ではなく、守素(ごぞ)と呼ばれる流れが、ここにはあるんじゃ」 「守素……?」 「うむ。傷ついた者を癒し、災いを吸収し、地を鎮める力。王家の古い文献にも記録があるはずじゃ。……前王は、それをとても大切にしていた」 フィンの心臓が、小さく跳ねた。 「王が……大切に、していた」 長老は静かに目を伏せ、頷いた。 「そうじゃ。この土地のためにも、国のためにも。緑多く豊かな大地、そこに暮らす人々にとって、守素は必要な流れだった」 「……確かに。ここの流れは、不思議なほど穏やかで心地いい。だけど、ここ最近は揺れが観測されています。それに魔素も見えている。なぜ今、こんな状態に?」 ハロルドが静かながらも鋭い声で問いかける。 「……それが、わからんのじゃ」 眉根を寄せ、長老は少し首を振った。 「わしらはずっと、この土地で変わらぬ暮らしをしてきた。都会では魔素の影響で魔物が現れておると聞いてはおるが……ここでは、これまで何もなかったんじゃ」 「けれど、最近は夜になると……」 「そう、夜になると、様子が変わってきたのじゃ。風が止み、地面がわずかに鳴る。 空気が重くなってな……。それに、あの揺れじゃ。長年なんともなかったのに、気づけば頻繁に起きている」 ハロルドは、昨夜感じた異様な空気を思い出しながら、目を細める。 「……やっぱり、夜か」 「そうじゃ。地が唸り、風が暴れる。魔素がふわりと浮かび上がって見える。それに、守素の気配は薄れている。今まで何年も無事だったのにのう。だから、王宮に報告を入れたんじゃよ」 長老の言葉のあと、しばし誰も口を開かなかった。 外では鳥の声が遠くに響き、窓から差し込む光が、古びた木の床を静かに照らしている。けれど、この場だけは時が止まったように感じられた。 フィンは視線を落とし、膝の上で手を握りしめる。 __守素。 それは、ただの調査対象ではない。国を支える力であり、この土地を包み込む何かだ。その揺らぎの理由を突き止めなければ、再び失われるかもしれない。 「……やりましょう。必ず」 小さく、けれど確かに言葉を返す。 ハロルドが短く頷き、二人の間に静かな決意が通った。 そのときだった。 外から「ねー、まだかな……」と弾む声が響いた。 小さな影が、窓の向こうをぴょこんと通り過ぎていく。ハロルドと遊びたくて待ちきれない子供たちの頭が、列になって隠れたり現れたりしている。 室内に漂っていた緊張が、すっとほどけていくのをフィンは感じた。 「……ほら、あなたのこと、待ってる子がたくさんいる。行ってきて」 フィンは微笑みながら、ぴょこぴょこと見える子供たちの方を指さした。 「……先生がそう言うなら、仕方ないな」 「なに、その言い方」 人前だと、ハロルドはわざと「先生」と呼ぶ。それが周りへの配慮だと分かっていても、妙に距離を感じる響きに胸の奥がくすぐったくなる。 恥ずかしいやら、落ち着かないやら……どうしてこんなに意識してしまうのか、フィンは自分でも分からない。 「呼ばれて行くより、先生に送り出されるほうが好きだから」 「っ……意味わかんない……」 ハロルドはいたずらっぽく笑いながら立ち上がり、肩を軽く回してから、ゆっくりと歩き出した。 子供たちはぱっと顔を輝かせ、わらわらと駆け寄ってくる。 「わーい!お兄ちゃんきたー!」 「ねぇ、あの先生も一緒に遊ぶ?」 「ねーねー、先生って猫みたいじゃない?」 「ふふっ、わかる~!」 子供たちの言葉に、ハロルドは苦笑しながらも、さらりと返す。 「あのな〜、先生はダメ。俺とだけ遊ぶって決まってるんだ」 「えー、ずるいー!」 「しかも言うこと聞くと、一緒に寝てくれるらしいぞ?」 「ほんと!?」 「お昼寝?」 「ずるすぎるー!」 「……ちょ、こら。何を言って、」 言い返そうとするフィンより早く、ハロルドが当然のように言葉を被せた。 「先生は寝かしつけ上手だからな」 「なにそれ〜!おかしー!」 「お兄ちゃんばっかりじゃん!」 「そりゃ、俺の先生だからな。特別に決まってるだろ?」 「……!」 子供たちはきゃははと笑いながら駆けていく。ハロルドはその後を追いながら、肩越しにちらりとフィンを振り返った。 「ほら、行くぞー。あんまり先生をいじめんなよ。怒ったら怖いんだからな、俺が」 視線がぶつかる。 フィンは唇をきゅっと結び、思わず目を逸らした。言葉は出ない。それでも胸の奥に、やわらかな温もりが広がっていく。 その一瞬、ハロルドは口元だけでやさしく笑った。フィンは記録用紙を持ち直し、こぼれる笑みを隠すように顔を伏せた。けれどその頬には、消えない熱が残っていた。

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