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第190話

「いまさら……、今更しらを切ると?」  首を傾げて考え込むヒバリの姿は、凪の目には随分とわかりやすくしらばっくれているようにしか見えなかった。  黒い靄だ。それが凪の心を覆い尽くしてなお広がり続ける。まるで脳さえも侵食されたかのようだ。  痛い。苦しい。こんなにも――。 「ナギ殿?」  困惑したようなヒバリの声が聞こえる。そこでようやく、凪は自分が両の瞳から涙を流していることに気がついた。 「……あのとき」  脳裏に蘇る。  ベンチに座っていた自分に合わせるように、膝をついた客人。  どこか寂しげな顔をしていた、今と寸分変わらぬ美しさを持った人。 「にど……」  兎都に来て良かったと思って欲しくて、〝満月〟をあげようと思った。だから母に強請ったのだ。  あの人に、挨拶したいと――母に強請った! 「……この人生の中で、たった、二度だけ……、あなたに会った」  一度目は偶然に。  二度目は、凪の願いで。 「そのたったの二度が、僕の罪だ」  ポタリと涙がこぼれ落ちる。もうヒバリの顔も何も見えない。でもきっと、彼は今も〝何もわかりません〟と首を傾げているのだろう。 「……あなたと会うたびに、僕の世界の、何かが変わる」  あなたと再び会えたと喜んだ次の瞬間に、母はディーディア国王の妻となり、凪はサーミフ王子の使用人となった。  あなたが再び目の前に現れた今、母はあなたと密通しているなどと噂されている。  そしてその始まりは、あの夜会の日の、あの瞬間であったことに間違いはないだろう。  全てを動かしてしまったのは、幼かった凪自身だ。だからこそ思う。 「あの時……」  思い出す。あの夜空の下で見つめた横顔。たくさん話した、取り留めのない言葉。 「あの時、あなたに――出会わなければ良かった」

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