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第1話

 毎日午後五時になると聞こえてくる空砲の音は、今日は心なしか大きく、くっきりとした輪郭を保ったまま、生活音に満ちあふれたこの古いアパートメントまで届くように思われた。雨ばかりの春が終わり、大気がと澄んだ夏の気配を含みはじめたからだと、ミチテは思う。  ミチテの暮らすローズ・アヴェニューから三マイルほど離れた旧市街の丘の上にそびえる古城──この部屋からは、隣接した同じようなアパートメントビルのせいで、あいにくその姿を眺めることはできないのだけれど──そこから放たれる大砲の音は観光客向けとはいえなかなかの迫力で、ミチテがこの街に引っ越してきて初めてそれを耳にしたときには、ひどく驚いたものだった。けれどそれも今となっては、すっかり何気ない日常の一部だ。  そしてそれは、この家で暮らしを共にする相棒にとっても同様のようだった。 「おかえり、シロノ」  ミチテはリビングの窓を開けると、ジュリエットバルコニーの縁に行儀よく座る真っ白な雄猫に手を伸ばした。彼は毎日、城の空砲が鳴る時刻になると決まってこうして窓から顔を覗かせ、家の中へ迎え入れられるのを待っている。  シロノは目を瞑り、差し出された飼い主の手にぐいぐいと二、三度顔を擦りつけると、その大きな体躯に不釣り合いな身軽い動作でぴょんとリビングの床に降り立った。 「お腹が空いてる?それとも、またミズ・ジェニーのところでターキーのベーコンをもらったかな」  問いかけに、シロノが「ニャ」と短くひと声鳴く。それがイエスなのかノーなのかミチテには判断しかねたが、足元に纏わりつく仕草を見るに、腹は減っているようだった。 「オーケー相棒(バド)、食事を用意するよ」  屈んで白猫を抱き上げる。と、肘の内側に、柔らかな毛並みに混ざって、枯れ葉のように硬く乾いた感触をおぼえた。けれどその正体が決して枯れ葉ではないことを、ミチテはすでに知っている。  それはシロノの細く長い腹の被毛に絡まり、埋もれていた。一面真っ白な草原の中に立ち現れたラズベリーピンクの二インチ四方の紙きれは、どう見ても朽ちた葉ではなく、オフィスでよく目にする類のものだ。 「……またこの付箋か」  わずかに丸まった紙片を毛束から剥がしとる。丁寧に広げてみれば、その内側には <次々に住人が殺されていくコンドミニアム>  と走り書きがあった。  ミチテは仕事用のデスクの一番上の引き出しを開ける。そこには鮮やかな色とりどりの付箋が数枚おさめられている。それらは色は違えど同じ種類のもので、全てこの二週間のうちにシロノが毛皮にくっつけて持ち帰ったものだ。そしてそのどれもに、同じ筆跡でメモが書きつけられている。 <ミミの独白、本当は彼を愛している> <腕時計のトリック──針は三本ある> <子ども時代の回想、キャロットケーキ>  ネイビーのボールペンで書かれた文字はどれも急いで書いたように乱れていたが、読みづらくはなかった。その細いペン先と右上がりの書き癖からはどことなく、持ち主の神経質そうな人となりが感じられた。 「それで今度は、殺人事件?」  ミチテは首を傾げながら、今日の収穫物をほかの付箋と同じように引き出しの中へしまった。それから、辛抱強く餌を待っているシロノの背を撫でる。 「お前は毎日どこに行ってるんだ?まさか殺人犯の家……ってことは、ないよね?」  訊いてみても、彼はすました顔で「ニャア」と鳴くばかりだ。  抱き上げて、柔らかな毛並みに頬を寄せる。白猫からは、六月の透明な陽ざしと、街はずれの古本屋のような埃っぽい匂いがした。  シロノの食事を見届けると、ミチテはふたたびデスクのノートパソコンの前に腰を下ろした。そうして、月曜日の朝の会議資料を仕上げるためにディスプレイを睨む。規定の終業時刻を少し過ぎていたが、土日に仕事をするよりはましだ。  いくつかの数字を打ち込んでから、今週の広告効果が落ちている原因を探すために、新たなファイルを開く。新規ユーザーへの訴求が弱かった?PV数は伸びているけれど──集中し始めたところで、スマートフォンが震えて着信を知らせた。上司からだろうかと慌てて画面に目を走らせる。けれどそこに映し出されていたのは、気心の知れた友人の名前だった。 「ミッテ、仕事終わった?」  親友は、金曜の夜にふさわしい弾んだ声で言った。この瞬間を一年間ずっと待ち焦がれていた!そんな声。 「やあ、カイト。つまんないスライド作ってるよ。まだもう少しかかりそう」  ミチテが資料から目を離さないまま答えると 「まじかよ!定時過ぎたんじゃないの?」  ビデオコールの画面の中で、カイトは大げさに両手で頭を抱えてみせた。 「だって、月曜の朝イチで必要なやつなんだよ」 「月曜のことは、月曜に考えよう」 「月曜になってから考えたんじゃ間に合わないじゃん」  適当に受け流してキーボードを叩く。するとカイトは「いいだろ、ミッテ」と唇を尖らせた。 「クラブに遊びに行こうよ。ああ、クウィンの店でもいい。とにかく出かけようぜ、金曜の夜なんだから(イッツ・フライデイ・ナイト)!」  今にも踊りだしそうなカイトの様子に、ミチテは思わず吹き出して笑う。 「んん、クラブじゃなくて、そうだな……映画でも観に行かない?そのあと、クウィンのバーで少し飲もうよ」 「映画ねえ」カイトが不満げに言う。「ずいぶんお行儀がいいじゃん」 「そうかな」 「たまにはナイトアウトを楽しまなくちゃ。イイ男に出会う前におじいちゃんになっちゃうよ!」 「うーん、イイ男かあ……」  ミチテは小さくため息を吐くと、椅子の背凭れに背中を押しつけて伸びをした。  最後の恋は、約一年前。背が高くヘーゼルの瞳が美しい、ヴィーガンの男だった。(しかし彼はママの作るマカロニ・アンド・チーズだけは食べた)やさしくてハンサムな彼に、ミチテは夢中になった。これは運命の恋だ、とさえ思った。けれどその後、運命の恋は相手の浮気によりあっけなく三ヶ月四日と六時間で破局。傷心のミチテは次の恋人を作ることもなく、新たな出会いを探すこともなく、現在に至る。  猫とふたりで暮らす部屋は、広いとは言えないけれど居心地が好い。完璧な座り心地のファブリックソファに、五十インチのテレビ。Netflixとamazonプライムビデオがあれば、どこかへ出かけなくたって退屈することはない。低脂肪乳のハーフガロンのボトルに直接口をつけて飲んでも誰にも叱られないし、真夜中に冷凍のピザを焼いて食べることもできる。  仕事は基本的にリモートワークで、出社するのは週に一日だけ。オンラインミーティングの多い日には、白いボタンダウンシャツを着てZoomで一日じゅう喋っていることもあるけれど、カメラに映らない下は部屋着のスウェットパンツのままだ。  つまりはそれが、ミチテの日常。特別にテンションが上がることはないけれど、快適──快適すぎるほどに。誰かに心乱されることはない、平坦な日々。 「キスの相手が猫だけだなんて!お前、今いくつだよ」 「二十七」 「知ってるよ!」 「じゃあ訊くなよ」 「違くて。このままだと枯れてく一方だよって言ってんの。……あいつと別れてから、もう一年だろ」  カイトの声がわずかに硬くなる。ああそうか、とミチテは思う。僕の親友はおせっかいで心配性で、とてもやさしい。 「人間とのキスのしかたを忘れちゃうぞ」 「忘れませんんん」  子どもみたいに舌を出してからかうと、それが可笑しかったのか、カイトは腹を抱えてげらげらと笑った。そうしてひと頻り笑うと、しかつめらしく腕を組んで 「でもほんと、なんか新しい出会いとか、ときめくこととか。ないの?」と言った。 「ときめき?あー……」  そう言えば、今週はこの詮索好きの友人に話すべき小ネタがあったのだと、ミチテは思い出す。 「うん、あった。背の高いハンサムに出会ったよ」  思わせぶりな口調で切り出せば 「えっまじで!どこで?どんなひと!?」  案の定カイトは興奮して身を乗り出した。画面には、カメラに近づきすぎた彼の眉間だけが映っている。  ──どんなひと。どう言ったらいいだろう?彼は……そう、彼は── 「十年もののグレーのスウェットの上下を着てたよ」 「は?」

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