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第2話

「彼は、十年もののグレーのスウェットの上下を着てたよ」 「──は?」  カイトが素っ頓狂な声を上げる。その眉間に寄せられた深い皺を見て、伝えるべき情報を間違えたことをミチテは悟った。 「ええと、違う。いや違うわけじゃないんだけど……間違えた。ハンサムだったんだよ、ほんとさ!」  慌てて訂正するも、カイトは疑わしそうに目を眇めている。 「何日か前にカフェで会ったんだ。いつもの、すぐそこの店で」 「ミレトワ・コーヒー・ロースターズ?」 「そう」  ミチテは頷きながら、氷が溶けて薄くなってしまったカフェラテをひと口すすった。  ミレトワ・コーヒー・ロースターズでテイクアウトしたアイスハニーラテ──この甘いカフェインも、ミチテの日常になくてはならないもののひとつだ。モスグリーンのカップに星のイラストが散りばめられたデザインはこの店のオリジナルで、その不格好な形の星たちにはふしぎな愛嬌があった。  星々のあいだに控えめな大きさで印刷された「mille étoiles」の文字。ミチテはそれをゆっくりと人差し指でなぞる。そうして”彼”の笑った顔を、できるだけ鮮明に思い出そうとする。  その日、ミレトワ・コーヒー・ロースターズはいつもの昼時と同じように賑わっていた。  この街にはカフェが多い。最近ではサードウェーブコーヒーの聖地、なんて呼ばれることもあり、店内にはミチテのような近所に住む常連客のほかに、カフェ巡りを楽しむ観光客の姿もちらほら見える。  全面ガラスの入口からは、雨上がりの陽ざしが店の奥までを柔らかく照らしていた。古材のウッドフロアは深い飴色の艶を湛え、高い天井に走るむき出しの配管やダクトの無骨さに、陽の光があたたかな陰影を添える。  ミチテは、混み合う客席のいちばん奥の黒いレザーソファがひとつ空いていることを確認すると、アイスハニーラテとチキンサラダサンドを注文した。 「低脂肪乳(トゥー・パーセント)?」 「いえ、フルファットミルクで。キャラメルソース追加してください」 「オーケー」  オーダーしたものを受け取って、見るとはなしにカウンターを眺めた。赤いレンガ壁に立て掛けられた黒板に、今日のおすすめが書かれている。  ──キャラメルじゃなくて、ラベンダーシロップでも良かったかも。  そんな風に少しだけ後悔しつつ、足を一歩進めたところだった。右腕に正面からドン、と衝撃が走った。手の中のグラスが揺れる。まずい、と思ったときには、もう遅い。  目の前に立つ男性の腹のあたりに、トールサイズのグラスの半分ほどのハニーラテがぶち撒けられていた。 「あ……す、すみません!」  反射的に謝る。ラテ色に染まった服を見て、今日はホイップクリームを追加していなくて良かったと、ミチテは心の底から思った。  ミチテが男性の顔を見上げると、彼はよほど驚いたのだろう、目を見開いて微動だにしない。 「本当にごめんなさい。あの、その……クリーニング代を」  不安になってしどろもどろに言葉を継ぐ。すると、男性は表情を変えないままに言った。 「これは高くつくよ。何せ、特別仕様の、十年ものの部屋着のスウェットだからね」 「え……?」  今度はミチテが固まる番だった。  彼はミチテをじっと見つめている。ウェリントンタイプの黒い縁の眼鏡の奥で、焦げ茶色の瞳がしんと光っていた。それは、音のない、深い湖の底を思わせるような、透きとおった光。胸がざわざわするほどの静けさ。  喉につかえたように言葉は出てこない。手にしたグラスの中で、氷だけがカランと音を立てる。  ミチテが三度瞬きをしたところで 「──冗談だよ」  彼はふっと目を細めて、そして表情を崩した。 「見ての通り、ただの着古したスウェットだから。気にしないで」  彼の眼鏡が()を弾いてきらりと光る。そのレンズ越しに、大きな瞳がにっこりと笑った。 「それより。コーヒーがかかって君のサンドウィッチが台無しだ」  ミチテの左手のチキンサラダサンドを、彼の長い人差し指がさす。 「僕のホットサンドをあげるよ。ほら、まだ手を付けてない。ブルーベリーマフィンを食べたらお腹がいっぱいになっちゃってね。持ち帰ろうかと思ってたんだ」 「いえ、そんな……」  矢継ぎ早に告げられて、頭がついていかない。ミチテがもごもごと辞退の言葉を口にすると 「いいから、いいから。食べて」  彼はミチテの手へホットサンドを押しつけて、さっさと店の出口のほうへ歩いて行ってしまった。  追いかけることもできずに、ミチテはその後ろ姿を呆然と見つめた。すると彼は、ガラスドアの前で足を止め振り返り、こちらへ向かってひらひらと手を振った。  慌てて手を振り返す。と、必要以上に大きくなってしまった腕の振りに、周りの客からは訝しげな視線が飛んできて、ミチテはすぐに手を引っ込めた。もう一度ドアのほうを見ると、彼はくすくすと面白そうに笑って、それから店を出ていった。  彼の背中が見えなくなっても、暫くのあいだ、ミチテはそこに立ち尽くしていた。心臓がやけに大きな音を立てて打っている。けれどそれも、やがてカフェの喧騒に紛れた。  手の中のホットサンドに目を落とす。中身はたぶん、ハムとスイスチーズ。冷めてはいたけれど、ほのかに香るバターと黄金色の焦げ目がついた縁は充分に美味しそうだった。それから、自分がずっと彼の顔を見上げていたことに気がついて、背の高いひとだったなと、ミチテは思った。 「運!命!じゃん!」  ミチテの話をひと通り聞き終えると、カイトは画面から飛び出さんばかりの食いつきを見せた。 「どこが。アイスラテをぶち撒けちゃったんだよ?こっちの印象、最悪でしょ。そもそも、彼の名前さえ知らない」  ミチテが肩を竦めてみせると 「でも、彼は怒ってなかったんだろ?しかも自分のホットサンドまで寄越して!」  カイトはニヤニヤと歯を見せて笑った。 「まあ、それはそうだけど……」 「やさしくて背の高いハンサム。最高じゃん!あ、目の色は?まさかヘーゼルじゃないだろうな」 「深煎りの豆の色」 「ワオ!パーフェクト!」  画面の映像が揺れて、床が映ったり天井が映ったりする。カイトがついに踊りだしたのだろう。  そのはしゃぎように、ミチテは苦く笑う。そして「運命の恋ってのは、そんな簡単なものじゃない」と、心の内でため息をつく。

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