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第3話

 その朝ミチテは、(しずく)が窓ガラスを打つ、ごく小さな音で目を覚ました。それはまるで夢の続きみたいな、やわらかな雨の音。  スマートフォンのけたたましいアラームではなく雨粒のささやきで目覚める朝は、気分がいい。雨の休日がミチテは嫌いではなかった。  ベッドから抜け出すと首元にわずかな肌寒さをおぼえて、椅子の背にかけてあったロウゲージのカーディガンを羽織る。こういう朝があるから、なかなか冬の厚手のニットをクローゼットの奥に仕舞うことができない。  ごわついた素朴なニットの感触に包まれると、どこかほっとするような心地がして、自分の肩を両腕でゆるく抱きしめた。そうして、雨の日特有の、黴臭いような懐かしいような、つめたい匂いを小さく吸い込んだ。 「ニャ、ニャ、ニャ」  シロノが普段よりも高い声で、短く三度鳴いた。それは同居人の注意を引きたいときの彼の特別な鳴き方で、ミチテは声のした方を見やる。 「ああ、出かけたいんだね」  堂々たる体躯の白猫は、玄関ドアの前できちんと前足を揃えて待っている。ミチテがそちらへ向かうと、シロノは急かすように「ニャ」ともう一度鳴いた。 「いってらっしゃい」  細くドアを開けてやると、そこからシロノがするりと出ていく。ずんぐりとした身体が、狭い隙間を通るときだけほっそりと縦方向に伸びる様はいつ見ても不思議で、足音を立てることなくゆったりと廊下を歩いていく彼の後ろ姿を、ミチテはしみじみと見守った。  猫というのは大概にしてそういう生き物ではあるけれど、例に漏れずシロノも、濡れることが嫌いだった。だからこんな雨の日には、彼は日課のパトロールを取りやめて、お気に入りの出窓の縁から外を眺めたり、ミチテと一緒にソファで映画を観たりして過ごすことが多かった。  それなのに。最近のシロノは、雨が降っても構わず外へ出かけていく。よほど面白いもの、あるいは居心地の好い場所を見つけたのか──それか、彼女でもできたかな、とミチテは思う。 「さて」  この雨の休日をどうやって過ごそうか。朝食にシリアルを食べた皿を洗いながら、ミチテはぼんやりと考える。家で映画でも観ようかな。でも、それにはカフェインが欲しい。ああ、カフェでコーヒーを飲みながら、のんびり本を読むのも悪くない。  この街にこんなにもたくさんのコーヒーショップがあるのは、雨の日が多いからだと、ミチテは思う。コーヒーのあたたかな香りの中、硝子ただ一枚を隔てて、街が静かに雨に濡れるのを眺める。それは言いようもなく感傷的で、そして素敵だ。  けれども、まずカフェで読むための本が必要かも知れなかった。ずいぶん前からデスクに積んだままの『テクノロジー・マーケティング・メディアの未来』なんて退屈な本じゃなくて。そう、ロマンティックな恋愛小説がいい。あるいは……幸せそうなカップルが次々に殺されていくサイコスリラーとか?  銀の糸のような、細い細い雨が降っている。ミチテは、お気に入りのネイビーとグリーンのタータンチェックの傘をさして、ゆるやかな長い坂道を下っていく。古い石畳は雨に濡れ、鰯の群れのようになめらかに光った。  ダウンタウンにあるソフィーズ・ブックス──この街でいちばん大きな本屋で、カフェスペースが併設されている──に着くと、ミチテは丁寧に傘をたたんで、それから、天井まで届く高さの本棚が立ち並ぶあいだを、注意深く歩いて回った。  文芸書の棚は、著者の名前の順に整理されている。端から何気なく眺めていくと、そこは”M”の列の途中であることがすぐに分かった。けれど、Aから順に見ていかなければいけない道理もないだろうと、ミチテはそのままMの棚の背表紙を、ゆっくりと目で追った。  やがて、一冊の本に目が留まる。それは少し前に話題になったSF小説で、タイトルに見覚えがあった。  ミチテは、ことエンタテインメントに関しては、数の優位性というものを信じている。多くのひとが「良い」と言うものには、それなりの理由があるはずだからだ──たとえその小説のタイトルが、救いようがなく陳腐だったとしても。  ミチテはその本に手を伸ばす。けれど棚の上のほうに並べられたそれに、わずかに指先が届かない。あたりを見回す。なぜなら、こういう事態のためにこの店には踏み台が用意されている。けれどすぐに、小さな兄妹がそれを取り合うようにして使っているのを見つける。  最新作ではないとはいえ、人気のある小説だ。どこか別のスペースに平積みになっているかも知れないと思ったが、ミチテはもう一度だけ試してみることにした。  本棚の近くぎりぎりに立って、限界まで背伸びをする。中指の先端が背表紙の下の角に触れる。このまま引き出せるだろうか──その瞬間、すぐ後ろにひとの立つ気配がした。  あ、と思う。振り返る間もなく、背後からにゅっと長い右腕が伸びてくる。その手は難なく本の背を(つま)み、それから、丁寧な仕草でその一冊を取り出した。 「この本?」  親切な右腕の持ち主は、穏やかな声で言った。 「あ……ありがとう」  ミチテは素早く振り返る。肩に肩が触れた。長い腕に見合う、高い背の丈。その顔を見上げる── 「あっ!」 「ああ」  声を上げたのは、ふたり同時だった。 「君はカフェの……」 「あなたは十年もののスウェットの!」  つい、本屋には不釣り合いな大きさの声がミチテの口をついて出た。  背の高いそのひとは、ちょっと目を見開いて、それから 「今、その情報を言って欲しくはなかったな。たぶんこの店じゅうに、僕が同じ部屋着を十年着続けていることが知れ渡ったよ」  あの日と同じように、口に手を当てくすくすと笑った。 「……ごめんなさい」  ミチテは思わず俯く。顔が熱い。前髪をかき上げる振りで顔を隠す。 「この本を探していたの?」  彼はSF小説を差し出して、ゆったりとした口調で言った。 「いや、聞いたことのあるタイトルだなって思っただけで。ええと、その、カフェで読む本を探しに来たんだ。今日は、雨だから」  何となく彼の顔をまっすぐに見られなくて、ミチテは受け取った本の表紙に目を落とす。奇妙な絵だ。青い舟に、青い女がひとり佇んでいる。  ふふ、と彼が吐息だけで笑った。ミチテは顔を上げる。 「いいね」彼が微笑む。「それは素敵だ(ハウ・ラブリィ)」柔らかな相槌。ハミングみたいな。  ああ、この瞳だ、とミチテは思う。深煎りの豆の色の瞳。笑うと、硝子瓶の底に沈んだ蜂蜜のように、とろりと光って、蕩ける。 「あなたは、どんな本が好きなの」  無意識のうちに、ミチテは鳩尾(みぞおち)のあたりを手で押さえていた。胸の底に、ふわふわと浮かぶような揺れるような、心許ない感覚がある。 「おすすめがあったら教えて欲しいなって」  ミチテが訊くと、彼は「そうだな……」と顎に手を添えて、しばらくのあいだ口を噤んだ。  沈黙は、どうしてか気詰まりではなかった。雨の音のように、ただそこにあって、柔らかくふたりを包む。  彼はミチテの目をじっと見つめている。まるで、その内側を透かして見ようとするみたいに。そうしてミチテも、その目を見つめ返す。  いつまででもその瞳の色を見ていたい気がした。受け入れられている、そして受け入れている、というような、不思議な親密さが、互いのまなざしの中にあるように感じられた。 「来て」  突然、彼が言った。  歩き出した背中にミチテはついていく。  いくつかの通路をとおり抜けて、ふたつ角を曲がって、やがて彼の足は止まった。それから彼は、口の中で何かをもごもごと呟きながら、本棚の上から下へ目を走らせた。彼が何を言ったのかは聞き取れなかった。その口の中に消えたひとりごとを聞けたらいいのにと、ミチテはぼんやり思った。 「小説ではないんだけど──」  文芸書よりもひと回り大きく厚い本を手にして、彼が言った。 「この写真集が好きなんだ。色んな都市の野良猫を撮った写真で、熱い国も、寒い国も、雨ばかり降る街、乾いた土地、豊かに柑橘が実る島も、海のある街も、山あいの村も。ええと、つまり……雨の休日に眺めるには、ぴったりだと思う」  ミチテはそれを受け取る。ずっしりと重い。けれどそれが素敵な本であることが、開く前から、ミチテには分かる。誰かが──彼が、良いと言うものには、彼だけの特別な理由があるはずだから。 「ありがとう」  写真集を抱きかかえるようにしてミチテが言うと、彼はにっこりと満足げな笑みを浮かべた。 「それで、あなたは──」 「あ、」  ミチテが言いかけた言葉にかぶさるようにして、彼のチノパンのポケットから着信音が鳴り響いた。 「ごめん」と詫びながら、彼がポケットを探る。そうしてスマートフォンのディスプレイを確認すると、彼はにわかに顔を強張らせた。電話に出るのかと思いミチテが見ていると、彼はそのまま無言で画面を見つめ続け、やがて着信音が止むと、詰めていた息を大きく吐き出した。 「ええと、ごめん。行かなくちゃ」  彼が焦ったように言う。 「ああ、うん。ありがとう、この本」  ミチテが写真集と小説とを両手に掲げてみせると、彼はわずかに頬を緩めて頷いた。 「じゃあ……また」 「うん、また」  ぎこちない挨拶を交わすと、彼は小走りに店を出ていった。よほど慌てていたのだろう、走る長い脚は絡まってしまいそうに見えて、ミチテは小さく笑った。  また会うことがあるだろうか、とミチテは思う──あるかも知れない。そう大きくない街だ。たぶん、そのうちに。会えるといい。  二冊の本をしっかりと胸に抱えて、ミチテはレジカウンターへ向かう。

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