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yagami1

 本に囲まれた生活をずっと夢見ていた。毎日、ただただ本と関われる職業に就けたらこんな幸せはないと単純に考え、この職業を選んだが、これがひどく想像と違っていた。というかそれは八神優弥やがみゆうや自身に問題があるからなのだろう。地味で冴えない内気な八神は、人と関わりながら仕事をすることが苦手だ。コミュ障などという今時の気の利いた言葉を使うなら、まさにそれだ。  人の目を見て話せない。自信の無さがダダ漏れているような立ち居振る舞い。常にきょどっているせいで舐められ、見下されてしまう。裏方の、更に裏方の仕事をひとりでこつこつとやるのが八神には向いているのに、この仕事の、一番苦手なこの業務を避けては通れない。                      ああ、今日もこのどでかい公立図書館のカウンターには長蛇の列。八神の所にやたらと利用者が並ぶような気がするのは、ただの被害妄想だろうか? 本当に八神はこの業務が嫌でたまらない。最近ではクレーム客も多く、その対応に四苦八苦している自分の姿が、更にクレーマーの苛立ちと加虐心を煽らせるらしい。その事実に、八神は落とし穴の底深くに落とされたくらい落胆している。  しかし、そんな八神でも、本への愛情は人一倍強く、特に、自分の好きな本を人に紹介するのが大好きだ。心底辛い接客業務を差し引いても有り余るくらい、この業務を愛している。それは本の「レビュー」を書くこと。この業務だけは誰にも負けない自信と拘りがある。八神は気持ちを口で伝えるのが苦手だ。だから、自分の思いを文章で表現する方が得意なのは、ごく自然なことなのだと思う。それに元来オタク気質な八神だからこそ、ここぞとばかりに、情熱を込めてこの業務への思いを職場の皆に提示するものだから、「突然人が変わったみたい」と気味悪がれ、ますます八神のイメージは「オタクで、キモい変人」というレッテルで彩られてしまう。    昔から読書が好きで、他人と積極的に関わるよりは、自分の世界に浸る方が好きな内向的な性格ではあった。大人しく読書をしていれば、誰かに傷付けられるような機会は減ると考え、読書という壁を作り、自分を防御することに逃げていた。じゃあ、何故逃げていたのか? それは多分、人と上手に関わるために必要な部品が、八神には欠陥しているからだ。他者と比べても、自分のこのコミュニケーションに置ける未熟さと不器用さは、もう生まれ持ったものだとしか考えられない。だから、それを「個性」だと言って温かく見守ってくれる大人な対応など、同級生の少年少女にあるわけなどなかったのだ。  小学校四年生の時、父親の本棚にあった、大人びた官能的な小説を読んでいることを、同級生の女子に目敏く見つけられたことがあった。八神とはまったく接点がないと油断していたその女子は、どこのクラスにも一人はいる、カリスマ性を持ったリーダー的存在の子だった。それ故に、相手を思いやる想像力の欠如や、自分への根拠のない自信上の残酷さを持っていたし、何より、自分が理解できない、「異質」な者に対する過剰反応は異常なほどで、八神はついに彼女に、「気持ち悪い、理解しがたい存在」として認識されてしまった。    そんな彼女に八神は手ひどい痛手を受けた。彼女は八神の読んでいた「大人びた小説」をいきなり取り上げると、特に嫌らしいページを大声で読み上げ、「この人気持ち悪い! 変態よ!」と八神を皆の前で罵ったのだ。八神は自分の本を取り上げることも、反論することも出来ず、猛烈な恥ずかしさに、机の前に頭を突っ伏すと、体を小刻みに震わせた。  誰も八神を救ってくれなかった。クラスのみんなは一緒になって、八神を冷やかし馬鹿にする子と、気の毒そうに見つめる子に別れていた。多分皆、常々八神の出す雰囲気が異色で、近寄り難く、どんな風に八神と関わっていいか分からなかったのだろう。それが、この場ではっきりと判明したことに、八神は深く、深く傷付いた。  その絶望たるやを言葉で表現するのは難しい。きっと、今のこの八神の姿を見れば一番分かり易い。八神から醸し出される空気には絶望が混じっている。猫背で、長い前髪で顔を隠して、正面から人の顔を見られないのだから。    あの事件以来、八神はずっと女性が怖く、口もきけなかった。ただ、一度だけ、どうしても断ることのできないお見合いを親戚から強制的に押しつけられ、渋々女性と付き合ったことはある。彼女は、今時珍しいとても純朴な優しい女性で、こんな八神のことを「好きだ」と言ってくれた。八神は自分への彼女の好意をとても有難く感じた。八神も好きだから嬉しいというのではなく、こんな八神を好きになってくれて申し訳ないという、謝罪のような感謝のような気持ちに近い。だから八神なりに努力し、彼女と上手く付き合っていこうとした。でも、八神には絶対譲れないものがあって、それを彼女は最後まで理解してくれなかった。八神的には気を使って、ずいぶん我慢していたつもりだったが、八神が、今日は読書をしたいから会えないと言うと、彼女は決まってヒステリックに八神を罵った。そして、最後には、「あなたみたいな変な人とは付き合えない」と別れを告げられる。変? どこが? 自分は読書が、本が好きなだけだ。どこもおかしくなんかない。好きなことに没頭したいという欲求が人より少し(否、少しではないかもしれないが……)強いだけで、どうして変人呼ばわりされなければならないのだろう。世間一般の価値観や常識と食い違うことがそんなにも罪なことなのかと……。  彼女とは数ヶ月で別れた。八神にとってはかなりの苦行だったが、童貞を捨てられたことだけは奇跡のような幸運だったかもしれない。でも、彼女との性行為は正直あまり気持ち良くはなかった。性的興奮というよりは、ただただ童貞を捨てたいという意志で動くロボットのような自分を、ひどく冷めた心で傍観しているような感じだった。彼女は普通に可愛かったけど、だからといって八神の胸を熱くさせる何かを感じ取ることはできなかった。  女性と付き合ったのはその一度きり。結局今日まで、八神のコミュ障は何ら変わらず、人生が一変するような成長も見受けられず、こうやってカウンターに並ぶ利用者に恐れながら、びくびくと小動物のように震えている始末なのだ。 (あれ?)  また、同じ利用者が八神の前に並んでいる。本当に偶然だとは言えないくらい、彼は決まって八神の前に並ぶ。その際だった容姿のせいで記憶に残りやすいのかもしれないが、そうでなくてもこんな風にほぼ毎日ここに訪れ、八神の前に並んでいたら、否が応でも気になってしまうというものだ。  彼は一か月ぐらい前から、毎日図書館に顔を出している。一日で読み終えてしまうのか、毎日一冊。多い時は今日みたいに三冊程度本を借りて行く。名前も覚えてしまった。彼の名前は『暮野くれの 來らい』学生にも見えなくはないが、平日のこの時間に毎日図書館にいる学生、もしくは社会人などいるわけがない。だとしたらただの無職。もしくは超お金持ちの暇潰しとか……。  しかし、良く考えると不審者レベルの利用者なのだが、彼は明らかに他の人間達とは違うオーラを放出している。彼の周りだけワントーン明るいように八神には見えるし、輝いているという言葉が本当にぴったりな男なのだ。だから、周囲の人間達は、好奇心を抑えることができず、彼をちらちらと密かに観察しているのが、カウンターからだと良く分かる。  だんだんと順番が近づいて来ると変にドキドキしてくるから不思議だ。事務的な会話しかしたことのない相手に、自分は何を意識しているのだろうか。  彼の順番が来ると、彼は八神の前に借りる本を三冊と、返却する本一冊を置いた。ものすごく偶然なことに、彼が借りようとしている三冊とも八神がとても大好きな本だった。前々から、彼とは本の趣味が合うような気はしていたが、今まで、カウンター業務をかれこれ三年ぐらいしていても、さすがにトリプルで好きな本が被ったことなど一度もない。八神はその本に心を奪われ、思わず数秒間食い入るように見入ってしまった。 「あの……」 「へっ!」  八神は我に返ると、焦って奇妙な声を張り上げてしまった。 「この本を借りたいんだけど、大丈夫だよね?」  彼は八神の顔を心配そうに覗き込みながら、ゆっくりとそう言った。間近で見る彼は、男の八神でもうっとりしてしまうくらいの美しい顔をしている。それは毎回思うことだが、今日は何だか特に眩しく見えてしまう。 「え? あ、大丈夫です! すみません!」  八神はバーコードを当てるため慌てて本を手にしたが、本に覆っているビニルカバーが滑りやすいせいで、残りの二冊を床に落としてしまった。アワアワとする八神を余所に、彼はスマートに床に落ちた本を拾い上げると、「焦らないでいいよ」と八神に小声で囁く。しかし、彼の後ろの利用者が「早くしろよ」と舌打ちをしながら呟いたのが耳に入った瞬間、八神の体は情けないほど萎縮し、手が止まってしまった。 「あんたさ、この程度も待てねえの? 小せぇ男だな。そんなに苛つくなら別の列並べよ」  彼の美しい顔からは想像も付かないような迫力のある声に、八神は我が耳を疑った。彼は振り向きざまにそう言うと、後ろの利用者をもの凄い形相で睨みつける。睨まれた利用者はその迫力に圧倒され、恐怖に口元を震わせながらそそくさと彼から離れ別の列に並んだ。一番後ろだった男がいなくなり、彼が現時点での最後の利用者になった。  彼は八神に顔を戻すと、まるで何も無かったように涼しげな笑顔を八神に向けた。八神はその笑顔に魅了されながら、取り敢えず心を落ち着かせると、図書の貸し出し処理を進める。 「いつもご利用ありがとうございます。返却日は三週間後の火曜日です」  八神は返却日を記した紙を本に挟むと、彼に丁寧に手渡した。 「了解」  彼は低い声ではっきりとそう言うと、厚めの本三冊をすっと軽やかに受け取り、八神の前から姿を消した。  八神は一時的にカウンター業務から開放され、ほっと息を吐くと、彼が返却した本を返却ボックスへ入れようとした。その時、本の間に紙切れが挟まっていることに気づいた。返却日を記した紙がそのままになっているのかと思い、処分するため抜き取ると、その紙にはメッセージらしきメモが書かれている。 『八神優弥殿。あんたと俺は本の趣味が合いそうな気がする。ゆっくり話がしたい。今晩仕事が終わったら、一緒に食事でもしないか? あんたの仕事が終わる十九時に、図書館の裏口で待ってる  暮野』 「何、これ……」  メモの内容に驚き、八神は思わず声に出して呟いた。そして、慌ててそのメモをエプロンのポケットに突っ込むと、ドキドキと胸が髙鳴る乙女のような自分を、ひどく気持ち悪いと感じた。

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