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yagami2

 仕事が終わるのを、こんなにドキドキしながら待ったことなど初めてかもしれない。八神はほぼ毎日、仕事が終わると、職場から二十分程離れた、父親と二人で暮らしているアパートに自転車でまっすぐ帰るだけの日々だからだ。途中にある小さなスーパーで食材を買い、簡単に調理しただけの夕食を二人でいつも食べる。母親も兄弟も友達もいない。一人で飲食店に入るのが苦手だから、外食など、職場の暑気払いや忘年会ぐらい。夕食後は風呂に入り、自分の勤めている図書館で借りた本を眠くなるまで黙々と読むというつまらない日課をひたすら続けている。そんな八神に突如舞い降りた、人から興味を持たれるという貴重な経験を、どのように受け入れたらいいかひどく戸惑っている。ましてや、老若男女の視線を一点に集めるような魅力的な彼が、こんな自分に本当に興味を持っているのか、長年人間不信の八神にはやはり俄かに信じがたい。でも、彼を信じたいという気持ちが自然と溢れてくるのは何故だろう? 自分でもうまく説明できないが、彼の特殊な雰囲気に安心感を覚えるからかもしれない。  八神は利用者からリクエストされた本の発注を済ませると、腕時計に素早く眼を遣った。今日は遅番なので一九時に仕事が終わる。今気づいたが、八神が遅番だということを彼は何故知っていたのだろう? こんなことを考えるのはとても烏滸がましいが、まるでストーカーでもされているような気分だ。まあ、冷静に考えれば、自分をストーキングする物好きなどいるわけがないが、そんな想像をすると少しだけ気分が高揚してくる。自分でもそんな自分を痛い奴だとは思うが、あのメモをもらって以来自分の脳味噌は、ふわふわした綿菓子みたいになってしまって本当に困ってしまう。 「すみません。今日の分は発注済みました。お先に失礼します」 「あ、お疲れ~」  八神より二年先輩の池田浩二いけだこうじが面倒くさそうに返事をした。彼は性格も見ためもねちっとした、湿度の高い粘着質な男で、すべての職員から嫌われている。彼に比べたら、自分の方がまだましなんじゃないかと思えるから相当だ。素直じゃない捻くれた性格。相手を思いやる思慮深さなど皆無な、自分勝手で我が儘な男。何一つ良い所が見つからない希有な人間だが、こと、図書館司書という仕事へのプロ意識の高さは、他の職員の追随を許さない。彼の豊富な知識と高い頭脳に皆が依存しているのは事実だ。だからこそ面倒くさいのだ。彼の精神は元々幼稚で未成熟なため、すぐに調子に乗るし、傲慢になる。自分は誰よりも仕事ができ、誰よりも優秀。そう信じて疑わない彼のプライドを傷付けようものなら、ねちねちとその相手をいじめ抜く。もし心の弱い人間だったら、最悪、退職まで追い込まれてしまうこともあり得る。こんな害虫みたいな男が、何故悠々とこの仕事を続けていられるのか。そう思うと。この世には神も仏も絶対にいないと、八神はそう自信を持って言い切れてしまうからひどく悲しい。 「八神君、何かいいことでもあった?」  突然、八神に気持ちの悪い視線を這わせながら池田は言った。 「え?! な、何もないですけどっ」  八神は動揺し裏返った声を出した。 「そう? いつもと感じが違うな~と思ってさ」  池田のその無駄なポテンシャルに驚き、苛立ちつつ、八神は早くこの場を立ち去ろうと体に力を入れた。 「あ、そうだ。ねえ、明日俺有給取るから。明後日の読み聞かせの会場の掲示物、あれ、お願いね。子ども向けの可愛らしい感じでよろしく」 「はい?」  八神は驚き、あからさまに目を見張った。池田は時代遅れな感じの眼鏡のズレを直しながら、そんな八神を睨め付けるように見つめる。 「何? 何か文句あるの? 俺、八神君に貸しがあるんだぜ? 利用者からの質問に答えられなくてきょどってる君を助けたの俺だぞ? 忘れたのかよ」 「……え、わ、忘れてません……分かりました……やっておきます」  八神はこの場を早く切り抜けたくて、怒りで頭がいっぱいでも気持ちを素早く切替えそう返事をした。池田は満足したように頷くと、明後日の読み聞かせに必要な準備物のリストを、八神に無造作に手渡す。八神はそれを掴み取るように受け取ると、足早にその場を後にした。  裏口から外へ出ると、既に十九時を十分ほど回っていた。外はもう薄暗く、八神は目を懲らしながら辺りを見渡し彼を探したが、何処にもいる気配がない。 (あ~、またやらかしたかも……)  テンションが急降下し、途端にさっきまでの自分がひどくみじめに思え、泣きそうな気持ちになった。でも、それをぐっと堪えると、八神は諦めるなら潔い良い方がいいと勝手に決めつけ、職員専用の駐輪場まで、自転車を取りにとぼとぼと歩いた。 おーい!」 「ん?」  その時、突然頭上から声がした。八神は慌てて空を見上げると、図書館の敷地内に植えられている大きな樫の木に、黒い人影が見える。 「え? え? ちょっと! 何してるんですか?! く、暮野さんですよね?」  八神はあまりの衝撃に口をあんぐりと開けたまま樫の木に近づくと、意味も無く幹を抱きしめた。 「危ないですよ! 早く降りてください! あ、いや、ゆ、ゆっくりでいいんで、降りてきてください!」 「分かったよ~。今行く」  暮野は流暢に返事をすると、こともなげに、樫の木からするすると滑るように降りてくる。 「はあっ、到着!」  地面から一メートル半位の距離から飛び降りると、暮野は着地の決まった体操選手のように、両手を広げてそう言った。 「何で木登りなんか……」  八神は目の前の暮野を呆然と見つめると、冷や汗で自分の体がじっとりと濡れているのに気づいた。 「あんたをすぐ見つけられるようにと、この町のこと良く知らないから、木の上から眺めて観察してたんだよ。しばらくここにいたら、だいぶ薄暗くなっちゃったな」  「は、はあ……よく不審者扱いされませんでしたね」 「うん。誰にも気づかれなかったぜ」  暮野は得意げに腕組みしながらそう言った。  八神が抱く暮野の印象は自分の想像を軽々と越える。それはとても心をワクワクとさせるが、暮野は自分に対してどんな印象を持っているのか? なんてことをまたいつもの癖で考えてしまう。魅力的な相手に出会うといつもそうだ。自分への自信の無さが顔を出し、八神の心の古傷が痛み始める。八神はこの後、暮野とどんな風に時間を過ごせば良いか分からず、急に不安になった。 「夕飯ゆうめし食いに行こう」 「え?」 「俺、腹空き過ぎて死にそうなんだよ。旨い飯食える所連れてってくれる?」 「え? あ、はい。で、でも僕、外食滅多にしないんで、く、暮野さんの食べたいものが分かれば、適当に店を探しますが……」 「あ、そう? じゃあ肉。肉が食えるとこならどこでもいいよ」 「肉……ですか。分かりました。近くに焼き肉店があったと思います。そこへ行きましょう」 「やった! 焼き肉、焼き肉」  子どもみたいに暮野ははしゃぐと、八神の後ろに立ち、早く案内しろとばかりに八神の背中を小突いた。 (おかしな人だ……) とてもスタイリッシュな雰囲気なのにどこかズレている。自分もこんな見た目だったら、人生とても楽しいんだろうなと思うくらい格好良いのに。  暮野といるとまるで宇宙人と接しているみたいな距離を感じる。それは不快感などではなく、むしろ、暮野のことをもっと知りたいという欲をもたらす。そんな暮野に八神は急速に惹き付けられてしまいそうで、少しだけ心が躍った。

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