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yagami9
今日八神が仕事を休んでしまったせいで、新刊本にレビューを飾るのが一日延びてしまった。無責任なことはしたくなかったが、どうしても今朝は起きられなかった。起きると涙が止まらなくて、仕事へ行くなどとても無理だったからだ。一か月我慢して、暮野が図書館に現れるのをずっと待っていた。今日が一か月と一日目。何を根拠に一か月と決めつけたのか、自分でも呆れてしまう。でもそれは、何か目安を持たなければ、途端に色褪せた世界に放り出されたことを、自分なりに乗り越えることができなかったからだ。だから、一か月が過ぎてしまった今日という日に、ついに張りつめていた糸が切れてしまった。
ほんのちょっと前まで、暮野のいない生活を自分がどんな風に過ごしてきたのか、どうしてそんな色褪せた人生を自分が生きてこられたのか、本当に信じられない。どうして八神はそれで平気だったのだろう。
でも、甘い蜜を一度吸ってしまったことが八神にとっての最大の不幸ではない。ほんの短い間でも、紛れもなく幸せだと思えたことが八神は宝物のように大切だし、その事実を、夢や幻で終わらせるような情けない人間ではもういたくない。
暮野との時間は真実だ。八神を好きだと囁いた暮野の声を、八神は絶対に信じたい。絶対に。
そんな強い思いを込めるように、ピンキングばさみでカッティングした色とりどりのカードに、八神は鮮やかなカラーペンを使って、レビューを書くことに没頭する。本を読んだ感想を率直に解りやすく書く。ネタバレはしない程度に、その本が伝えたいテーマを自分なりに感じ取り、読者に簡潔に伝える。
この作業は八神に快感を与えてくれる。八神が本の世界に身を置き、八神なりに感じたことを、八神を媒介し読者に伝えることができるのだから。八神はレビューの中でとても自由だ。とても自信家だ。そして、そんな自分を一瞬でも好きになるがことができる。
何冊分のレビューを書いただろう。気が付くと、窓の外は真っ暗で、八神はかなり一心不乱にレビューを書いていたらしい。その間八神は暮野のことを忘れていた。というより、暮野の亡霊みたいなものに囚われなくなったからだ。八神は暮野を何があっても信じる。そう自信を持って思えるようになったからだろう。
その時、コツンと何かが窓に当たる音がした。こんな夜中に鳥か何かだろうかと思っていると、もう一度何かが窓に当たる音がする。八神は恐怖を感じつつも、音の原因への好奇心の方が勝り、ゆっくりと窓に近づいた。そして、半分だけ開いていたカーテンを思い切って全開にし、窓を開けたその時、自分の頬に何かが当たった。
「いてっ」
「あっ、ごめん」
(ん?)
今、誰かの声が聞こえた気がしたが、気のせいだろうか? 八神は頬に当たった物体を摘み上げると、それをまじまじと見つめた。それは普通にその辺に落ちている小石だった。八神は質の悪いいたずらか何かと憤りながら、窓の外をキョロキョロと伺った。八神が住んでいるアパートは住宅街にある二階建てだ。八神は迷わず誰かいないか窓の下に眼を遣るが、この時間帯に歩いている人は以前からあまりいない。不思議に思いながら顔を上げると、アパートのすぐ脇に建つ空き家の、大きなブナの木が不自然に揺れた。
「優弥、こっち!」
「え?」
声のするブナの木の方へ、八神は暗闇の中必死に目を凝らした。
(まさか……)
ドキドキと心臓が鳴り始めている。暮野だ。またあの人は懲りずに木登りをしているのだ。そうだと確信した瞬間、八神は窓から落ちそうになるほど身を乗り出した。
「來さん? 來さんですか?!」
「あ、あぶないよ! 優弥、下がって、今行くから!」
「え?」
暮野はそう言うと、両手で気の枝を掴み中腰になり、アパートの窓目がけて反動を付けながら飛びついた。
「ら、來さん!!」
八神は暮野の余りにも突拍子のない行動に驚き尻餅を付いた。信じられないことに、窓の桟には暮野の両手がしっかりと引っかかっている。八神は心から安堵すると、急いで窓に近づき、よじ登ろうとする暮野の腕を掴み、渾身の力で引き上げた。
「わあっ」
どさっと暮野が八神に覆いかぶさった。その重さに八神の心は、嬉しさと怒りが綯交ぜになるが、やっぱり物凄く嬉しいという気持ちに勝ることなどできるわけがない。
「何で?……何でこんな危ないこと! バカです! 來さん、ほんとバカです!」
八神は半泣き状態で、暮野の背中を拳で叩いた。叩いても、叩いても、この一か月の自分の悲しみを暮野にぶつけ足りない。八神はもどかしくて、駄々っ子のように声を上げて泣きじゃくりたかった。でも、既にそれができないほど、八神は暮野に強く抱きしめられていた。
「会いたかった。優弥」
その声をどれほど聞きたかっただろう。八神は、これが夢ではないと思いたくて、必死で暮野の瞳を見つめた。
「僕も、いや、僕の方が会いたかった。僕の方がもっともっと会いたかった!」
八神はそう叫ぶと暮野の頬を両手で掴み、もう一度食い入るように瞳を見つめた。
「ごめん。ちょっとあっちで色々あって、どうしても優弥に会いに来られなかったんだ……心配した? 俺にフラれたと思った? それとも、もう俺のこと嫌いになった?」
不安だったのは暮野も同じようで、八神はそれがたまらなく嬉しい。きっと、お互いを見つめ合う瞳が、今共鳴したように不安で揺れているに違いない。
「嫌いです」
「え?」
「僕をこんなに変えてしまって、僕はもう、來さん無しじゃ生きていけなくなっちゃったじゃないですか。ひどいです。來さん。責任取ってください」
「……どうやって、責任取ればいいの?」
「分からないです。でも、今すぐ僕の不安を取り除いてください。僕に伝えてください。もっと分かるように。僕を好きだって……」
暮野は苦しそうに眉間に皺を寄せると、八神の両手首を掴み、床に押さえつけた。
「伝えていいなら、容赦しないよ。俺の優弥への思いに、その体がどうなっても知らないぜ?」
「体?」
「そう。体……」
(ああ、構わない……欲しい。來さんの愛を体で感じたい)
こんなに心から誰かを欲したことなどあっただろうか? この高まる感情のままお互いを求め合ったら、どれ程の快楽と幸福が待っているのだろう。八神はそれを想像すると、全身から、今まで出したこともないフェロモンが放たれているような感覚を覚える。一度も感じたことのないこんなセクシャルな気分は、自分の中に別な自分がいることを暴かれてしまったようで怖い。でも、そんな恐怖より、暮野が欲しいという欲望の方が勝り、それが今すぐに爆発しそうなのは、きっと抗いようのない運命なのだと、八神は覚悟を決める。
「構わない……來さん。僕の体、どうにでもしてください」
八神は震える声で必死に思いを伝えた。
「分かった。でも、ここじゃ駄目だろう? お父さんがいるし……」
「……あっ、そうだった……バカですね、僕」
オーバーヒートしてしまった自分の体にいきなり冷や水を掛けられたような気分を味わい、八神は急に恥ずかしくなった。
「気が変わったりしないで……」
「え?」
暮野がひどく焦燥感を漂わせた顔で八神を見つめた。
「変わらないです。でも、どうすれば……」
「ミッションのために用意されたマンションが一室あるんだ。そこに今から行こう」
ミッションという言葉に八神は素早く反応する。その部屋に行くということは、八神と暮野の行為がそのミッションに関係することを意味しているのではないか。八神は突如湧いた疑いに少しだけ不安になる。暮野が八神を好きだというのは、ミッション達成のための「口実」なのだとしたら……。
八神は、はあっと深く息を吐くと、頭を左右に振った。
暮野が黙り込む八神を不安気に見つめている。焦燥感は更に増しているように見え、八神はそれに比例するように、不安感を深める。でも、お互いに見つめ合っていると、導かれるように自然とひとつの気持ちが溢れて来るのが分かる。そして、それは暮野も同じだと思いたい。
(早く繋がりたい……)
それ以外の気持ちなどないと八神は確信すると、暮野を見つめ、「分かりました」と丁寧に答えた。
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