1 / 23

第1話 出会い

SNSの光が僕たちを強く照らすほど、その足元に落ちる影は、深く、濃くなった。 フィルター越しの完璧な笑顔と、誰にも見せられない涙。 「いいね」の数で価値が測られる世界で、僕たちは本当の気持ちさえ見失っていく。 これは、見せかけの全てを脱ぎ捨てて、たったひとつの「無加工の愛(UNFILTERED LOVE)」を見つけ出すまでの、不器用な二人の再生の物語。 『UNFILTERED LOVE』 「出会い」 三年前、東京の夜が秋の色を深め始めた頃。 ファッション業界は、たった一人の男の新たな門出に熱狂していた。大手メゾンから独立した天才デザイナー、嘉納(かのう)市彦(いちひこ)。彼が自らの名を冠した新ブランド『KANO』の、記念すべきローンチパーティーだ。 舞台は、表参道の並木道を抜けた先に佇むイベントホール。 ガラス張りのファサードの向こうに、白とグレーを基調にしたミニマルなエントランスがのぞく。受付を済ませ、重厚な扉に招き入れられた先は、意外なほどの静寂に満ちていた。全ての装飾を削ぎ落とした長いアプローチは、外界のノイズから精神を切り離し、これから始まる体験への感性を研ぎ澄ませるための儀式的な通路のようだ。 その静寂も、廊下の突き当たりにある扉を抜けた瞬間、世界は一変する。 体の芯を揺さぶる重低音のビートが、静寂の破片ごと空間を支配する。モノクロームだった視界は、壁から床までを走る暴力的な光の洪水に飲み込まれた。高価な香水の香り、熱を帯びた業界人たちの鋭い賞賛の声、そしてシャンパングラスの触れ合う硬質な音が、五感の全てを奪うように満たしていく。選ばれし者だけが放つ、沸騰するような熱狂がそこに渦巻いていた。 無数のスポットライトが、『KANO』の挑発的な新作を纏ったマネキンを神々しく浮かび上がらせる。時折、プロジェクションマッピングが光の角度を変え、硬質なはずのマネキンの表情に妖しい生命感を宿していた。 会場の壁から天井、床までもが一つのキャンバスと化し、『KANO』のロゴがノイズと共に現れては消え、デザイン画のラフスケッチが幾何学的な光の線へと分解されていく。プロデューサーである生稲(いくいな)(まこと)が、空間デザイナーと照明デザイナーに口を酸っぱくしてオーダーし、実現させた光の没入空間だった。 その全てを、誠は会場後方の壁際に腕を組んで静かに見つめていた。 この熱狂は、彼が数ヶ月にわたって神経をすり減らし、作り上げたものだ。招待客たちの高揚した表情、誰もがスマートフォンを構え、この非日常を競うように切り取ろうとしている。計画通り、『熱狂』は生まれている。 (……客の入り、ピークタイムへの誘導は完璧。BGMの切り替えタイミング、三分押し。許容範囲だ。ドリンクの提供速度、問題なし。VIPへのアテンドも滞りない) 誠はインカムに小さく指示を飛ばしながら、プロデューサーの目でフロア全体を俯瞰する。全ての歯車が、彼の描いた設計図通りに、完璧に噛み合っている。 口の端にだけ、わずかな満足の笑みを浮かべた。 舞台は、完璧だ。 「――おい、マコ。大成功じゃねえか」 不意に隣から、シャンパングラスを片手にした男の声がした。誠の幼馴染であり、今や業界でも指折りの照明デザイナーとなった、海藤(かいとう)(うしお)だ。 「潮か。招待客リストにお前の名前はなかったはずだが」 「市彦が来いってしつこくてな。でも、自慢するだけある。…このプロジェクションの使い方は一本取られたよ。どこの照明屋だ?」 「企業秘密だ」 「けち」 「ケチで結構。楽しんでいけよ」 「もちろん」 軽口を叩き合いながらも、潮の目には親友の完璧な仕事への隠しきれない賞賛が浮かんでいた。 その時だ。 微かに、それでいて確かな熱を帯びて、入り口付近がざわめいた。誠の視線が自然とそちらへ向く。 そこに立っていたのは、一人の青年だった。『KANO』のコレクションの一つであろう、アシンメトリーな黒いシャツをさらりと着こなしている。派手さはないのに、彼がそこにいるだけで、場の空気が数センチ浮き上がるような不思議な存在感があった。 デザイナーの嘉納本人が彼に駆け寄り、親しげにハグを交わす。 「ようこそ、レイちゃん! 席はそこの最前列よ」 その席次で、彼が今、最も注目を集めるインフルエンサー『U-sagi』こと鵜鷺(うさぎ)玲二(れいじ)本人だと誠は理解した。 (なるほど、あれが…) 今、業界で最も「数字を持つ」男。誠もまた、同じ『創る』側の人間として、純粋な才能の輝きには目がなかった。『U-sagi』はどんなクライアントの難解なオーダーにも完璧に応える一枚を撮ると言われ、彼のフィルターを通した写真は、ただの広告ではなく一つの作品として成立する。彼が紹介した商品は、必ず売れる。その神話のような噂は、誠の耳にも届いていた。だから一度、その眼を覗いてみたかったのだ。 誠が値踏みするように見つめる先で、玲二は驚くべき行動に出た。 彼はメインの展示品であるレザージャケットの前で足を止めると、スマートフォンを取り出す。近くにいた女性客に、人懐っこい笑顔で話しかけた。 「すみません、このジャケット、すごくないですか? ちょっとだけ、持っていてもらえます?」 そして彼女を巧みに誘導し、会場の壁に投影されたデジタルアートの、青く明滅する光が当たる位置に立たせた。 誠が仕掛けた正規の照明ではない。計算の外にある、偶然の光。それが特殊な加工をされたレザーの質感と化学反応を起こし、まるで生き物のように妖しい光沢を放った。 カシャ、カシャ。 玲二は数枚の写真を撮ると、その女性に画面を見せる。 「見てください。この光、生地がまるで呼吸してるみたいに見えません?」 女性が「本当だ、すごい!」と声を上げ、その周りに自然と人だかりができた。玲二は間髪入れず、インスタグラムのストーリーに投票機能付きでアップする。 会場のあらゆる要素を「武器」として、その場で最高のコンテンツを創り出す。他の客を巻き込み、「体験」そのものをバズらせる。ブランドへの貢献と、自身のフォロワーへのエンタメを同時に成立させる。 淀みない一連の所作は、まるで予め振り付けられていたかのように的確で、そして、どうしようもなく美しかった。 (……こいつ、ただのインフルエンサーじゃない。プロの『仕掛け人』だ) 誠の胸に、初めて会う男への確かな感嘆と、強い興味が湧き上がる。 「…へえ、面白いのが来たな」 隣に立つ潮の呟きは、誠の耳には届いていなかった。 人だかりが落ち着いたのを見計らい、誠は玲二に近づいた。 「はじめまして。このパーティーの企画を担当している、誠です」 声をかけられ、玲二は少し驚いたように振り返る。そして、ビジネス用の完璧な笑顔を貼り付けた。 「あなたが生稲誠さん。どうも、鵜鷺 玲二です。素晴らしいパーティーですね。嘉納さんの世界観が完璧に表現されていて…」 「さっきの、見ました。ジャケットの投稿」 誠は、その社交辞令を遮るように言った。玲二の瞳に、わずかに警戒の色が浮かぶ。 「プロジェクションの光を使うとは。正直、うちの照明チームより、あんたの方がこの服の魅力を引き出していた」 不器用な賛辞を、真っ直ぐに告げる。 「…面白い仕事、しますね」 それは、ファンからの称賛でも、クライアントのお世辞でもない。一人のプロフェッショナルが、もう一人のプロフェッショナルへ送る、剥き出しのリスペクトだった。 玲二の、完璧に作り上げられたプロの笑顔が、ふっと消える。 そして、目の前の不器用な男へ、心の底から湧き上がるような、本当の、無防備な笑顔を見せた。 「……あなたも、面白い方ですね、誠さん。よかったらこの後、二人で飲みませんか?」 これが、三年にわたる二人の物語の、本当の始まりだった。 「僕の連絡先です」 そう言って玲二は、誠のジャケットの胸ポケットに、するりとビジネスカードを滑り込ませた。嘉納に呼ばれると、少しだけ名残惜しそうに誠を見て、その場を離れていく。 まだ青年のとの対話の余韻に浸っていた誠の背後から、にやにやと笑う潮が再び現れた。 「おい、見たぜ、マコ」 からかい口調の声に我に返り、誠は自分より上背のある潮を睨みあげる。 「…見てたなら、茶々を入れに来るな」 「いやあ、傑作だった。あの生稲誠が、若造インフルエンサーに見事に口説き落とされる瞬間を、この目で見られるとはな」 図星を突かれ、誠の顔にじわりと熱が集まる。 「ちがう! あれは仕事の話の延長で…!」 「へえ、そうなんだ。首まで赤くなってるけどな」 「うるさい!」 潮は声を上げて笑うと、動揺を隠せない親友の肩を、バン、と力強く叩いた。 この夜、誠の完璧だったはずの世界は、一人の美しく才能あふれる「仕掛け人」によって、静かに、けれど抗いようもなく、侵食され始めていた。

ともだちにシェアしよう!