2 / 23

第2話 名前のない写真

あの運命的なファッションブランド『KANO』のローンチパーティーから、数日が過ぎた夜。 玲二は、「仕事の相談」という建前で、誠を食事に誘った。店は、六本木の隠れ家のようなダイニングレストラン『シエル・デル・ソル』。 最初は、ぎこちないビジネスディナーになるはずだった。 美しい創作料理が運ばれ、当たり障りのない業界の話と、互いへの社交辞令が、テーブルの上を滑っていく。プロデューサーの「生稲 誠」と、インフルエンサーの「U-sagi」。二人の間にはまだ、見えないガラスの壁があったのだ。 でも、誠が、ふと、玲二に問いかけた。 彼は、ワイングラスを置くと、品定めするようなプロデューサーの目ではなく、ただ純粋な興味を浮かべた瞳で、玲二を真っ直ぐに見つめた。 「玲二くんは、本当にこれが撮りたっていうのがあるの?」 「え…」 「タイアップでも、仕事でもなく。ただ、あなた一人がカメラを持って、心が震えるのは、どんな瞬間? そういうの、ある人?」 その、あまりに率直で、本質を突く問いに、玲二は息を呑んだ。誰も、そんなことは聞いてくれなかった。誰もが、インフルエンサー『U-sagi』の、バズる写真や、フォロワーを増やすテクニックにしか興味がなかったから。 玲二の口から、言葉が溢れ始めた。 ファインダーを通して、世界の何を切り取りたいのか。消えてしまう光、言葉にならない感情、誰も気づかない、物の持つ魂の輝き。それを、一枚の写真に永遠に閉じ込めることが、自分の天命なのだと。 話すうちに、彼の瞳は熱を帯び、身振り手振りは大きくなる。彼はもう、インフルエンサーではなかった。ただの、夢中で作品を語る、一人の青年だった。 誠は、その『熱』に、ただ、引き込まれていた。 そして、玲二の話が途切れた時、今度は玲二が、問い返した。 「誠さんは…どうして、イベントを?」 誠は、少し照れたように笑うと、誠実に、自分の仕事を語り始めた。 イベントとは、単なる「催し物」ではない。それは、時間と空間をデザインし、光と音で演出し、そこに集う人々の感情を一つの方向に導くことで生まれる、一夜限りの、二度と再現できない「体験」なのだと。人々の心が共鳴し、熱狂が生まれる、その瞬間の奇跡を創り出すことが、自分の仕事なのだと。 その時、玲二は、確かに感じていた。 自分は、一枚の写真という「静止した瞬間」に、永遠を閉じ込めようとする人間。 目の前にいる誠は、イベントという「流れる時間」の中に、永遠を創り出そうとする人間。 追い求める手法は違えど、二人が見つめている頂は、驚くほど、よく似ていた。 (…この人だ) 玲二は、生まれて初めて、自分の魂に、真っ直ぐ触れようとしてくれる人間に出会ったと感じていた。上辺の『U-sagi』ではなく、その奥にある、不器用で、どうしようもなく写真に取り憑かれた、本当の自分を見つけ出そうとしてくれる人。 食事を終え、夜風が心地いい帰り道。 六本木の華やかな光を背に、二人の会話は尽きることがなかった。 やがて、玲二が住むマンションのエントランスの前で、二人は立ち止まる。名残惜しい沈黙が、二人の間に流れた。 ビジネスディナーのはずだった夜は、生涯忘れられない、特別な夜へと変わっていた。 二人の物語が、ここから始まる。そんな確かな予感が、秋の夜風の中に、満ちていた。 食事を終え、夜風が心地いい帰り道。 「今日は、本当にありがとうございました。すごく、楽しかったです」 玲二が言うと、誠は、少しだけ寂しそうな、優しい顔で笑った。 「こちらこそ。…また、連絡する」 また、連絡する。 その、どこまでもプロフェッショナルな言葉。その、完璧な距離感に玲二の胸が、ちくりと痛んだ。 (…このまま、終わらせたくない) 衝動的な熱が、彼を突き動かす。 「――待ってください!」 背中を向けて歩き出そうとした誠を、玲二は、思わず呼び止めていた。 誠が、不思議そうな顔で振り返る。 「あの…っ」 玲二は、心臓が口から飛び出しそうになるのを、必死で堪えた。顔が、熱い。でもこのままここで別れたら、きっと次に会うときはもうビジネスパートナー以上の関係は得られない。そう思ったのだ。 「今日の、話…すごく、刺激的でした。誠さんの、仕事への考え方とか、創るものへの情熱とか…。僕が、今まで会った、どんな人とも違ってて…」 彼は、一度言葉を区切ると、震える声で、続けた。 「だから、僕…あなたのこと、もっと知りたいです。仕事のパートナーとしてだけじゃ、なくて…」 玲二は、俯きかけた顔を、ぐっと上げた。そして、誠の瞳を、潤んだ、でも、強い意志を宿した瞳で、まっすぐに見つめた。 「誠さんのことが、好きです。…僕と、付き合っては、もらえませんか」 言った。 言ってしまった。 長い、長い沈黙。玲二は、もう、心臓が張り裂けてしまうかと思った。 やがて、誠は、何かを堪えるように、ふっと、息を吐いた。そして、次の瞬間、その口元に、驚きと、困惑と、そして、どうしようもないほどの愛しさが入り混じった、柔らかな笑みが浮かんだ。 「……ははっ。そうきたか。やられたな」 誠は、そう呟くと、玲二の目の前まで歩み寄った。 「会ったばっかで勇気があるっていうか、無謀っていうか。面白いよな。まさか、俺が、年下の、それも今、日本で一番注目されてるインフルエンサー様から、先に口説き落とされるとは思わなかった」 そして、彼は、悪戯っぽく笑うのをやめると、真剣な、優しい声で言った。 「…答えは、友達としてならもちろん『はい』だ。でも、俺、恋人になれるかどうかはまだわからない。だから、お試しってことになる。それでいいなら、どうだろう、玲二くん」 誠が、そっと、玲二の手に触れる。 「俺と、付き合ってみる?」 その、不器用で、けれど、どこまでも誠実な提案に、玲二の瞳から、安堵の涙が、一筋だけ、こぼれ落ちた。 こうして、一人の青年の、人生で一度の勇気が、二人の物語の、最初のページをめくった。 まだ、本当の恋人ではない、少しだけもどかしい、「お試し」の日々の、始まりだった。 ◇◆◇◆◇ 誠と「お試し」で付き合い始めて、三ヶ月が過ぎた、冬の日曜の午後。 誠の部屋の、日当たりの良いリビング。穏やかで、少しだけ気怠い、完璧な休日。 ローテーブルを挟んで、二人はそれぞれの時間を過ごしていた。誠はソファに寝そべって、分厚いデザイン系の雑誌をめくり、玲二はその傍らのラグの上で、ノートパソコンで撮りためた写真の整理をしている。 静かな部屋に響くのは、ページをめくる乾いた音と、かすかなクリック音だけ。 その穏やかな時間の中で、ふと、玲二は作業の手を止め、ソファにいる恋人を見上げた。 午後の柔らかい日差しが、誠の少し赤みがある茶色の髪を髪を照らしていて、その輪郭を金色に縁取っていた。集中すると、わずかに眉間に皺が寄る癖。時々、納得したように小さく頷く仕草。 インフルエンサー『U-sagi』のファインダーが捉える、完璧に計算された「被写体」ではない。 恋人である玲二だけが知っている、無防備で、ありのままの「誠」の姿。 (……ああ) 愛しさが、胸の奥から静かに、けれど確かに込み上げてくる。 玲二は、音を立てないように、すぐそばに置いていた愛用のカメラを、そっと手に取った。 ファインダーを覗くと、世界の全てが消え、彼だけが切り取られる。 差し込む光、空気中の塵のきらめき、彼の呼吸、その全てが、一枚の絵になっていく。 カシャ。 ほとんど吐息のような、小さなシャッター音。 その音に、誠がゆっくりと顔を上げた。 「ん? 撮ったのか」 「……はい。あまりに、いい画だったんで」 悪戯っぽく笑う玲二に、誠は「そうかよ」とぶっきらぼうに言いながら、体を起こして隣にやってきた。「見せてみろ」と、玲二の手にあるカメラの液晶画面を覗き込む。 そこに映っていたのは、柔らかな光に包まれた、自分の真剣な横顔だった。 「……すげえな」 誠は、素直に感嘆の声を漏らした。 「なんか、プロが撮ったみてえだ」 「プロですけど」 と、玲二が少しだけ得意げに言うと、誠は「いや、違う」と、首を横に振った。 そして、画面の中の自分と、目の前の恋人の顔を交互に見比べると、これ以上ないというくらい、嬉しそうな、優しい笑顔で言った。 「これは、"インフルエンサーのU-sagi"が撮った写真じゃねえ」 「……」 「これは、“俺の恋人の玲二”が撮った顔だ」 その言葉は、どんな賛辞よりも、玲二の心の真ん中を、温かく満たした。 (この人は、いつもそうだ。僕の写真の技術じゃない。そのレンズの奥にある、僕自身の「気持ち」を見てくれる。それに、今、……『俺の恋人の』って…) 心臓が、甘く、きゅうっと音を立てる。玲二は、潤んだ瞳で、隣にいる不器用な恋人を見上げた。 「…僕、恋人合格、ってことですか?」 試すような、少しだけ震えた声。 その直接的な言葉に、誠は「しまった」とでも言うように、一瞬、目を見開いた。 「え、そこ。わざわざ聞いちゃう? 流せよ、普通…」 ぶっきらぼうに言いながらも、その耳はみるみるうちに赤く染まっていく。照れ隠しにぷいと唇を尖らせるその顔が、玲二にはたまらなく愛おしかった。 (ああ、もう、かわいい人) 玲二は、いたずら心が湧いてくるのを止められなかった。彼は、そんな誠の頬に、鳥が木の実をついばむように、軽く、ちゅ、と唇を寄せた。 「!」 その瞬間、誠は驚いた猫のように固まった。そして、次の瞬間、カッと顔を赤く染めると、ぷいっと顔を背けてしまう。 そうしているのに、その手は、裏腹に。 玲二の腕を、まるで離さないとでも言うように、両手でぎゅっと抱え込むように絡めて、ぴたりと体をくっつけてきたのだ。言葉とは全く違う、正直すぎる体の反応。 「おあずけ、ですか? 悲しいな」 玲二が、真っ赤になった誠の耳元で、楽しそうに囁く。 「う、うるせえ…!」 誠が、しどろもどろに抵抗する。 「お前は、そういうとこ、本当に、めげないっていうか…その、…とにかく、今は、心の準備が…!」 その、あまりに初々しい言い訳に、玲二はもう、笑みをこらえきれなかった。 (敵わないな。この人には) 込み上げる愛しさに、玲二は、もう一度、誠の腕をそっと引いた。抵抗なくこちらを向いた、照れて、少しだけ潤んだ瞳。 二人は、見つめあう。 そして、今度は、どちらからともなく、ゆっくりと唇を重ねた。 最初とは違う、確かめ合うような、深く、優しいキス。 やがて唇が離れると、誠は、もう何も言えず、観念したように、玲二の胸に、こてん、と頭を預けた。 そんな、照れて大人しくなった恋人を、玲二は、壊れ物を抱きしめるように、優しく抱きしめた。そして、もう一度、腕の中の温もりを感じながら、カメラの画面に目を落とす。 彼はこの時、確かに感じていた。この一枚は、決して世に出すことのない、自分だけの、かけがえのない「宝物」になるのだと。 二人の幸せが、永遠に続くのだと、まだ信じていられた頃の、温かい光の記憶だった。 ◇◆◇◆◇ それから、半年ほどで体を重ねた。そしてさらに三か月が過ぎて、季節は巡り、秋になった。 二人は、付き合って一年という節目を機に、新しいマンションを借りて、一緒に暮らし始めていた。どちらかの一方が出ていくのではなく、二人で選んだ、二人だけの城。 その夜は、窓の外を冷たい雨が叩いていた。 新しい、大きなソファの上。一枚のブランケットを二人で分け合いながら、玲二が選んだクラシックなホラー映画を観ていた。 画面の中で、じっとりとした恐怖が最高潮に達し、静寂を破るように、女の幽霊が画面いっぱいに映し出された、その瞬間。 「……っ!」 隣の誠の肩が、わずかに跳ねた。玲二がそっと横目で見ると、彼は、何でもないという顔を装 いながら、抱えていたソファのクッションを、指先が白くなるほど強く握りしめている。 (……かわいい) いつも、どんな時も、頼りになって、大人で、少しだけ怖いもの知らずの恋人。その、初めて見る子供っぽい姿に、玲二の胸は愛しさでいっぱいになった。 「誠さん」 わざと、甘えた声で呼びかける。 「もしかして、怖いんですか?」 「はあ? 馬鹿言え。こんなもん、何が怖いんだよ」 誠は、ぷいとそっぽを向いて、画面に集中するふりをする。でも、その耳が、ほんのりと赤くなっているのを、玲二は見逃さなかった。 映画のクライマックス。再び訪れた絶叫シーンで、今度は誠の喉から「ぅわっ…」と、押し殺したような小さな悲鳴が漏れた。彼は、咄嗟にクッションで顔を覆い隠す。 その姿を見て、玲二はもう、からかうのをやめた。 彼は、そっと誠の隣に体を寄せると、クッションを抱えていない方の手に、自分の手を優しく重ね、指を絡めた。 「…!」 驚いて顔を上げた誠に、玲-二は、ただ、にっこりと微笑みかける。 「…大丈夫ですよ。俺が、ここにいますから」 それは、いつも不安な夜に、誠が自分にかけてくれる言葉だった。 誠は、一瞬、目を見開いた後、気まずそうに「…うるせえ」とだけ呟いた。 けれど、絡められた指を解こうとはしない。それどころか、より強い力で、ぎゅっと握り返してくる。 画面の中では、まだ恐ろしい惨劇が続いている。 けれど、二人の間には、もう、雨音すら聞こえないほど、温かくて、穏やかな空気が流れていた。 (この、強くて、不器用で、どうしようもなく愛しい人。この人の隣が、俺の、本当の居場所だ) 玲二は、繋がれた手の温もりを感じながら、そっと、恋人の肩に頭を預けた。

ともだちにシェアしよう!