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第3話 秘密の恋人

お預かりした文章を、ご依頼に沿って整えさせていただきました。 幸せな時間から一転して、二人の関係に亀裂が入っていく心の痛みが、肌に伝わるように描写することを心がけました。 一緒に暮らし始めてからほどなくして迎えた夏。二人はヨーロッパの海にいた。 太陽がこれでもかと照りつけ、海面を砕けた宝石のようにきらめかせている。 「うわっ、見てください誠さん!あそこの岩、本当にゴリラみたいな形してる!」 「ははっ、本当だな。自然にできたとは思えないな」 貸し切りの小さなボートの上で、玲二は子供のようにはしゃぎ、誠はその隣で穏やかに笑っていた。潮風が心地よく頬を撫で、カモメの鳴き声とボートが水を切る音だけが聞こえる。まるで世界に二人きりになったような、完璧な時間だった。 不意に、玲二が振り返る。逆光に髪が透けてきらめき、潮風に少し潤んだ瞳、そして誠だけに向けられる、気の緩んだ柔らかい笑顔。 ――カシャ。 誠は、思わずスマートフォンのシャッターを切っていた。 画面の中には、誠が世界で一番好きな顔が、最高の表情で切り取られている。 「あっ、今撮りました?」 「ああ。すげえいい顔してたから」 「もう、やめてくださいよ」 照れながらも嬉しそうに笑う玲二を見て、誠の胸は愛しさでいっぱいになった。この気持ちを、この幸せな瞬間を、形にして残したい。誰かに見せたい。ごく自然な、純粋な衝動だった。 「なあ、これ、インスタにあげていいか?」 その一言で、ボートの上の空気が一瞬にして凍りついた。 玲二の顔から、ふっと笑顔が消える。まるで仮面をつけ替えるように、その表情は「インフルエンサー・U-sagi」のものに変わっていた。 「……やめてください、誠さん」 「なんでだよ。すげえいい写真だろ? 俺たち、付き合ってんだし」 「ダメなものは、ダメなんです。お願いします」 頑なな玲二の態度に、誠の中で何かがカチンと音を立てた。なぜ隠す必要がある。俺は、お前のファンのために付き合ってるんじゃない。 「…俺のSNSなんだから、俺が決める」 意地になって、誠はインスタグラムのアプリを開き、写真を選択し、短いコメントを添えて『投稿』ボタンを押した。 その瞬間。 堰を切ったように、スマートフォンの画面に通知が殺到する。 『ピコン、ピコン、ピコン、ピコン!』 鳴り止まない通知音。画面の上部から滝のように流れ落ちてくるコメントのプレビュー。 『誰こいつ?』 『U-sagiに馴れ馴れしくしないで』 『うざ。売名行為?』 『U-sagiの隣にいるの、マジ無理なんだけど』 『このアカウント特定して晒そうぜ』 祝福の言葉など一つもない。そこにあるのは、剥き出しの悪意と、誠の存在を否定する攻撃的な言葉の嵐。一秒、また一秒と、リツイートと引用の数が天文学的な速さで増えていく。 「なっ……」 誠は息を呑んだ。楽しかったはずのデートの空気が、指先から急速に冷えていく。心臓が嫌な音を立てて脈打ち、画面を持つ手が震えた。これが、玲二がいつも言っていた「ファン」の正体なのか。 誠は、半ばパニックになりながら、震える指で『投稿を削除』のボタンを押した。 画面から嵐は消え、ボートの上には気まずい沈黙と、ただ規則正しい波の音だけが残る。 完璧だったはずの世界に、大きな亀裂が入ってしまった。 何も言えずに俯く誠に、玲二が静かに、そしてどこか諦めたような声で言った。 「……ほら、言ったじゃないですか」 誠が顔を上げると、玲二は悲しそうな、それでいて諭すような目で誠を見ていた。 「僕のファンが、あなたの悪口をいうのを見たくないんです。これは…僕の『仕事』ですから。わかってください」 『仕事』。 その一言が、見えない壁となって二人の間に横たわった。誠は何も言い返すことができず、ただ、きらめきだけが変わらない海の水面を、ぼんやりと見つめることしかできなかった。 その日から、誠は自分が撮った玲二との写真を個人のフォルダに保存するだけで、誰にも共有することはなくなった。 玲二は二人きりでいる時は常に誠の体に触れている。ひとたび外に出れば、決して触れようとはせず、一緒にいることを聞かれても友人としか紹介しない。 それが、二人の間の暗黙の了解になっていった。 ◇◆◇◆◇ 一年半前の冬。吐く息が白く染まる夜だった。 嘉納の依頼で誠が企画した、ファッションブランド『KANO』の新作発表イベントは、多くの来場者で賑わっていた。 「誠さん、ここの照明、すごくいいですね。この下で商品を持つと、ディテールが綺麗に飛ぶんで、SNS映えするんですよ」 「ああ、そこはこだわったんだ。玲二なら気づくと思ってた」 「ご期待に添えたならなによりです。ここ、いい会場ですね」 「嘉納のつてでな。俺の名前だけじゃここは無理だった」 会場の少し奥まった場所で、誠と玲二は声を潜めて笑いあう。イベントに招待された玲二は、プロのインフルエンサーとしての視点から、誠の創り上げた空間の優れた点を的確に指摘していく。自分の意図を完璧に汲み取ってくれる玲二の存在が、誠には誇らしかった。 「おーい、二人とも!」 潜めていたプロフェッショナルな空気を気にも留めない、能天気でどこか憎めない声が割り込んでくる。 「誠、あいかわらず難しい顔してんな。ちゃんとプロデューサー様、やれてんのか?」 声の主は、潮だった。誠の物心ついた頃からの幼馴染であり、二人が付き合っている秘密を共有する、数少ない友人の一人だ。彼は今回、照明デザイナーとして関わっているわけではない。それでも、業界では名の知れた腕利きのライティングディレクターとして、誠が最も信頼を置くクリエイターの一人でもあった。 「当たり前だろ。お前は遊びに来たのか? いいご身分だな」 「なに言ってんだ。仕事だよ、仕事。お前のプロデュースした会場だし、嘉納の舞台だしな。…玲二くんも、お疲れさん。誠が迷惑かけて、困ったりしてねえか?」 潮はそう言うと、二人の間にずかずかと入り込み、その大きな腕で気兼ねなく、ぐいっと肩を抱き寄せた。遠慮のないスキンシップと親しみに満ちた言葉が、張り詰めていた仕事の緊張感をふっと和らげる。玲二も思わず「いえ、いつも助けられてます」と笑みをこぼした。 三人の間に、一瞬だけ、華やかなパーティー会場にいることを忘れるような、プライベートで温かい空気が流れた。 その時だった。 「あ、あのっ…U-sagiさんですよね!?」 人垣をかき分けるように、一人の若い女性客が駆け寄ってきた。その瞳は、憧れの存在を前にした熱でキラキラと輝いている。 「はい、そうですけど…」 「きゃーっ!やっぱり!ファンなんです!いつも見てます!握手してください!あと、もしよかったらセルフィーも…!」 「ええ、いいですよ」 玲二の表情が、プライベートの柔らかなものから、完璧に計算されたプロのインフルエンサー『U-sagi』のアイドルスマイルへと一瞬で切り替わる。その様子を、誠と潮は少し離れた場所から見守る。潮はどこか感心したように、誠は複雑な気持ちで。 女性客は震える手で、コーラルピンクのスマートフォンを玲二に差し出す。ストラップには、垂れた耳が可愛らしい小さな兎のぬいぐるみが揺れていた。彼女が純粋なファンであることが、痛いほど伝わってくる。 フラッシュが一度、強く焚かれた。 夢のような時間にうっとりしながらも、女性はふと、常に玲二の傍らに佇む誠の存在に気がついた。そして、その輝く瞳に何の悪意もない、ただ純粋な好奇心だけを乗せて口を開く。 「あの、あちらの方ごはどういうご関係なんですか?」 その言葉が、華やかな会場の喧騒の中で、奇妙なほどはっきりと三人の耳に届いた。 玲二の完璧だった笑顔が、まるで磁器にひびが入るように、一瞬固まる。 彼の視線が、ファンの女性と誠との間を、コンマ数秒、激しくさまよった。 誠には、その一瞬の躊躇いが、永遠のように長く感じられた。 心臓が、錆びついたブリキのように、ぎしり、と嫌な音を立てて軋む。 隣に立つ潮が息を呑む気配がした。親友の表情が一瞬で強張ったのを、彼だけが見逃さなかったのだ。 玲二の瞳に映っているのは、もはや恋人としての自分ではない。 ファンを前にして、どう処理すべきか戸惑う「問題」としての自分だ。 その事実が、何よりも誠の胸を冷たく抉った。 やがて玲二は、人当たりの良い笑みを再び浮かべると、こう言ったのだ。 「ああ、イベント会社の方で。…友人、なんだ」 ──友人── その言葉が、やけにゆっくりと誠の耳に届いた。 女性は「そうなんですね!イベント頑張ってください!」と満足そうに頭を下げ、去っていく。 後に残されたのは、凍りついたような沈黙だけだった。 玲二はバツが悪そうに視線を逸らし、誠はどんな顔をすればいいのか分からず、ただ立ち尽くす。 潮が何か言いたげに口を開きかけたが、親友を気遣うように、その肩にそっと手を置いた。そして、それまでとは打って変わった低く鋭い声で、誠にだけ聞こえるように囁く。 「おい、誠。…俺は、別れた方がいいと思うぜ」 友を想うからこその、真剣な眼差し。 誠は、潮の手を振り払うように、ゆっくりと首を横に振った。 「……やめろよ。仕方ないだろ、玲二の立場じゃ…」 ショックで痺れる心に鞭を打ち、無理やり恋人をかばう言葉を紡ぐ。その痛々しいほどの健気さが、潮には見ていられなかった。 「立場? …なあ、誠。今あいつは、お前のことをただの『イベント会社の人』だって言ったんだぞ。それが、あいつの言う『立場』か。お前は、それで本当にいいのか」 「……いいんだよ、俺が。だから、口出ししないでくれ」 誠は、二人の視線から逃れるように吐き捨てる。 「あいつのことは、俺が一番わかってんだから」 それは、自分自身に必死に言い聞かせている呪文のようでもあった。 潮はそれ以上何も言わず、ただ悔しそうに唇を噛んだ。 この日から、誠は自分の心の痛みに気づかないふりをすることを覚えた。 愛する人を守るという名の、決して誰にも内側を見せない、冷たくて重い鎧を、その身に纏うことを決めたのだった。 ◇◆◇◆◇ パーティーが終わり、誠を待つ玲二の背後から、怒りを抑えた静かな声がかかった。 「鵜鷺くん」 いつもの親しげな「玲二くん」という呼び方ではない。明確な拒絶を含んだ響きに、玲二は思わず振り返った。 「潮さん…? どうかしましたか」 「さっきの、見たぜ。ファンの子とのやり取り。『イベント会社の人』、ね」 その言葉に、玲二はバツが悪そうに視線を逸らす。 「いや、あれは、その…公の場だったので…」 「へえ」 潮は、玲二の言い訳を鼻で笑った。そして、ひとつの事実を教えることにした。 「なあ、知ってるか? 誠を、前の広告代理店から今の会社に引っ張ってきた、大恩人がいるんだぜ。犀川(さいかわ)洋昌(ひろあき)っていう、超一流のプロデューサーだ」 潮は、わざと玲二の目を覗き込むようにして続けた。 「誠も、そいつのこと『ピロ』って呼ぶくらい、仲がいいんだ。正直、俺はてっきり誠は犀川さんと付き合うもんだと思ってたよ。あの人はいつも、誠の仕事の価値を誰よりも理解して、リスペクトできてたからな」 玲二は言葉を失った。 潮の言葉の一つ一つが、鋭いガラスの破片のように彼のプライドと誠への愛情に突き刺さる。 潮は、そんな玲二の顔を満足そうに、そして軽蔑したように一瞥すると、最後の言葉を投げつけた。 「…誠を、がっかりさせるなよ」 その背中が去った後も、玲二はしばらくの間、その場から動けなかった。 「ピロ」 自分の知らない、恋人の特別な呼び名。 「犀川洋昌」 自分にはない全てを持つ、恋敵の名前。 二つの言葉が、この日から玲二の心に、深く、深く、刻みつけられることになった。

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