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第4話 崩壊の足音
お預かりした文章を、ご依頼に沿って整えさせていただきました。
恋人への複雑な想いに揺れる誠の、心の痛みや焦燥感が肌で感じられるような情景描写を心がけました。
出会ってから三年目の六月下旬、金曜の夜9時。
イベント会社コネクトプロダクションの、だだっ広いプロデュース部のフロアで煌々と灯りがついているのは、窓際の一角だけだった。そこにいるのは、たった一人。
誠は、もう何杯目になるかわからない、ぬるい缶コーヒーを呷った。口の中に広がる気の抜けた甘さと金属の冷たさ。味なんて、もうほとんどしなかった。
モニターには、彼を苛む元凶――コラボ企画『共響』の、本日公開されたばかりのプロモーション映像第一弾が、音もなく繰り返し再生されている。
企画内容は、写真家の『U-sagi』と動画クリエイターの『maze』が、共同アトリエに一週間泊まり込み互いを題材にした作品を制作するというものだ。U-sagiが撮ったmazeのフォトブックと、mazeが撮ったU-sagiのショートムービー。誠は歯を食いしばりながら、プロデューサーとして、その映像のクオリティを認めざるを得なかった。
(……完璧な仕事だ)
mazeこと間瀬 晃 が創り上げたのは、単なるメイキング映像ではない。
玲二を白い光の中に佇む孤高のアーティストとして描き、間瀬自身を黒い影を纏う野性的な挑戦者として描く、鮮やかな対比。共同アトリエでの親密な朝の風景。撮影中、間瀬が玲二の顎のラインに演出としてそっと触れる指先。全てが美しい音楽と計算され尽くしたカット割りで、一つの「物語」として完璧に編集されている。ファンが最も熱狂する、疑似恋愛ドキュメンタリーの煽りそのものだ。
コメント欄は、案の定、熱狂の渦だった。
『#mazeANDU-sagi推せる』
『この二人、絶対付き合ってる』
その熱狂こそが、間瀬の言う「エンゲージメントのループ構造」だ。彼はファンに「答え」を与えない。ただ、「この二人の関係はどうなるの?」という無限の「問い(妄想)」を投げかけることで、プロジェクトの価値を爆発的に高めている。
(……これじゃない)
誠はモニターを睨みつけた。その瞳には、青く静かな焔が燃えている。
(俺なら、玲二をこんな売り方はしない)
間瀬のやり方は、玲二の類稀なるルックスを最大の武器として利用している。彼を、神秘的で少しだけ隙のある、美しい「アイドル」として消費させるやり方だ。短期的なビジネスとしてなら正解かもしれない。玲二が本当にアイドルなら、このコラボを礎にキャリアを築くのも有効な手段だろう。
玲二はアイドルじゃない。彼には撮りたいものがある。このやり方は、玲二のアーティストとしての価値を削ぎ落としかねない危うさを孕んでいた。
(あいつの武器は、ファインダーを通して、世界の魂を切り取る、あの「眼」だ)
(俺なら、あいつの作品そのものを中心に、もっと息の長い、本物の物語を創る…!)
それはプロデューサーとしての思想の違い。そして、恋人としての独占欲。
自分が一番、玲二の才能を引き出せるはずだという、傲慢にも似た絶対的な自負。
今の自分は、その「アイドル」として消費される恋人が立つ舞台を、ただ黙々と設営するだけの下請け業者だ。その、どうしようもない事実が、誠のプライドをじわじわと蝕んでいく。
そして彼は、再生される映像の中で、自分の知らない顔で蕩けるように笑う玲二の姿から、もう目を逸らすことができなかった。
(――考えるな。仕事だ)
胸のささくれを無視するように、誠はメールの山に意識を戻す。『maze』のクリエイティブチームからばらばらに届くポップアップイベントの仕様書をダウンロードし、自ら指揮する会場設営に関する情報を一つにまとめ上げていく。
指先は機械的にデータを整理していく。思考は、どうしても六週間前のあの夜に引き戻されてしまう。
玲二が高揚した顔でこの企画を語るから、てっきり『共響』そのものをプロデュースできるのだと思い、自ら手を挙げた。
実態は単なる協力会社。クリエイティブな話し合いの場に、彼の席はなかった。
六週間前の夜。玲二は珍しく興奮した様子で、間瀬という年下のライバルの才能を熱っぽく語っていた。その瞳に宿っていたのは、純粋な尊敬と、そして誠には決して向けられることのない、獰猛なまでの闘争心。
『誠さん、聞いてください。……すごい人なんです』
『間瀬って苗字だから『maze』。鵜鷺だから『U-sagi』の僕と、まるでお揃いで……』
『彼のほうが僕より一つ年下ですけど、自分の見せ方も、ファンの動かし方も、全てが計算され尽くしてディレクションしてるんです。僕は流れを決めたらあとは本番でその場しのぎだから、彼は違うなあって、ちょっと悔しいです』
『『共響』…このプロジェクト、きっと、すごいものになります』
そう言って未来に目を輝かせる恋人の横顔を、誠はただ黙って見つめていた。
あの時、胸に生まれた小さな冷たい石。それが今や、腹の底で焼け付くような巨大な鉛の塊と化していた。
(……笑えるな)
自嘲の笑みが漏れる。
玲二が自分以外の男と親密そうに笑い合うための舞台を、その恋人である自分が、今せっせと設営しているのだから。
その時だった。
「――おい、大丈夫か、マコ? ゾンビみたいな顔してるぞ」
不意に頭上から懐かしい声がした。ハッとして見上げると、数年間ヨーロッパに赴任していたはずの、犀川 洋昌 がデスクを覗き込むようにして立っていた。
「ピロ!? え…お前、どうしてここに? いつ帰ってきたんだよ?」
「昨日の夜な。時差ボケでどうせ眠れねえから、お前の顔でも見てやろうと思ったんだ。…どうやら、正解だったようだな」
犀川は、誠のモニターに映る玲二と間瀬の動画を一瞥すると、楽しそうに口の端を上げた。以前と変わらず、全てを見透かすような鋭い目をしている。
「驚いたぜ。すっかりやつれてるじゃねえか。何があったんだ、俺がいない間に」
「…っせえな。別に、何もねえよ」
「その動画を見てるお前の顔は、『何もない』顔には見えなかったぞ。それ、何の動画だ? アイドルか?」
「ちげえよ。マクロインフルエンサー同士のコラボ企画だ」
誠が仕様書を示すと、犀川はぱらぱらと興味深そうに内容を確認する。そして状況を察したように、からかうように朗らかに言った。
「おい、冗談だろ。この俺がヘッドハンティングした生稲誠が、インフルエンサー企画のただの下請けかよ。それで腐ってたってことか」
「っせえな。これだって、立派な仕事だろ!」誠は、自分でも驚くほど感情的な声で反論していた。「担当者を募集してたから、俺から希望したんだ。悪いか」
その、期待とは全く違う反応に、犀川のからかうような笑みがすっと消えた。
目の前の男は、昔、共に無理難題を笑い飛ばしたあの頃の誠ではない。冗談が通じない。心の鎧が一枚も残っていないような、危険な脆さ。
その原因が、モニターの中で無邪気に笑う恋人の姿にあることを、犀川は一瞬で見抜いた。
彼は気を取り直すように、わざと明るく肩をすくめる。
「まあ、いい。その“お守り”も、日曜には終わるんだな?」
そして、誠の肩に力強く手を置いた。誠はその手に、昔と変わらない、自信に満ちた熱を感じる。
「月曜の午後に、俺のデスクに来い」
「…なんだよ、改まった話か?」
「ああ。お前をこんなところで燻らせておくつもりはない。俺が見出した『才能』にふさわしい、本物の『世界』の話だ」
犀川はそう言い残し、自席へと向かっていった。
一人残された誠は、モニターの中の、遠い世界で笑う恋人と、今しがた目の前に現れた力強い恩人の姿を、ぼんやりと見比べていた。
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