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第5話 恋敵

七月の第一週、金曜日。ポップアップ会場設営日。 会場となる中目黒のインダストリアルなギャラリーは、オープンを二日後に控え、慌ただしい熱気に満ちていた。 誠は、プロデューサーとして、その現場を完璧に掌握している。 木曜の深夜零時からエントランスにブルーシートを張り巡らせて資材を搬入。トラックからの運び出しには誘導員を追加配置し、近隣への配慮も怠らない。金曜の早朝から設営を開始し、夜のファンミーティング前に全てを終える算段だ。 その仕事ぶりは、怜悧で、的確だった。彼の心は、静かに死んでいた。 昼過ぎ、ファンミーティングのリハーサルのため、玲二と間瀬がクリエイティブチームと共に現れる。 途端に、空間の空気が華やいだ。 会場中央のスポットライトの下、玲二と間瀬がチームに囲まれ、熱っぽく何かを話し合っている。笑い声が起きる。間瀬が、玲二の肩を親しげに抱く。誰もが同じ熱を共有し、一つの作品を創り上げる、まばゆいほどの「共犯者」たちの姿。 誠は、その光景を、数メートル離れた場所から、分厚い仕様書の束を抱えてただ見ていた。 彼と、あの輪の間には、まるで水族館の分厚いガラスの壁があるかのようだ。 クリエイティブな話し合いの場に、彼の席はない。 誠の仕事は、間瀬のチームから送られてくる要求を、滞りなく実現させること。会場の電源容量、機材リスト、搬入経路の確保…。無機質な数字と格闘し、協力会社として淡々と駒を動かすだけの存在だった。 「あ、生稲さん。お疲れ様です」 間瀬のチームの若いディレクターが、誠に気づいて声をかけてくる。その声には、仲間に向ける熱はなく、現場の「業者」に対する、丁寧で明確な一線が引かれていた。 「メインモニターの電源ですが、やはり壁打ちでお願いします。ケーブルが見えると、間瀬さんの美学に反するので」 「……承知しました」 (俺なら、こんな非効率な配線はしない。客の導線を確保しつつ『美学』とやらに沿うよう、布やパネルで隠すこちらのルートが遥かにスマートだ) 喉まで出かかった言葉を、誠は飲み込んだ。 彼のアイデアなど誰も求めていない。検品した機材を、彼らの描いた設計図通りに配置させるため、設営スタッフに指示を出すだけだ。 コラボの主役である恋人の一番側にいながら、撮影の合間に彼らが過ごす控室のドアは、誠の前で固く閉ざされている。完璧な「部外者」。 そして何よりこの仕事は、自分の恋人が才能ある別の男と、世間が熱狂する「物語」を紡いでいく様を、すぐ側で黙って見ていることを誠に強制する。 プロデューサーとしてのプライドを蹂躙される屈辱と、玲二の恋人としてのどうしようもない嫉妬。 二重の苦しみが、明るい照明が照らすこの華やかな現場の片隅で、じわじわと、確実に、誠の精神を静かに蝕んでいくのだった。 すべての設営が仕様書通りに完璧に終わったのは、午後五時前だった。 誠はスタッフたちを労い解散させると、一人、誰もいなくなった会場を見渡した。完璧な仕事。そこに、彼の魂は一片もなかった。 その時、誠はまだ知らなかった。 設営中、会場の外で彼がスタッフに指示を出す姿を、朝から集まっていた一部のファンが、不穏な目つきで何度も写真に撮っていたことを。 そして、一年半前に燻っていた「誠ストーカー説」が、『あの男が、またU-sagiの現場にいる』という悪意あるキャプションと共に、SNS上で再び静かに燃え広がり始めていたことを。 ◇◆◇◆◇ 同日金曜夜8時。 玲二と間瀬のコラボ企画『共響』のプロモーションが世間を騒がせ始めていた頃。 西麻布の交差点から一本裏に入った、看板のないオーセンティックバー。分厚い一枚板のカウンターに、犀川と照明デザイナーの潮は、グラスを挟んで静かに向かい合っていた。 「…そういえば、六本木の美術館でやっていたメディアアート展、最終日に滑り込みで見てきたよ。潮くん、さすがだった」 アイスブレイクとして、犀川は最近業界で最も話題になったイベントを切り出した。潮が、その照明設計を手掛けていたのだ。 「空間全体を一つの生命体みたいに見せる、あの光のプログラミング。圧巻だ。…久しぶりに、嫉妬したよ」 潮は、琥珀色のウイスキーを揺らしながら、その意外な言葉に少しだけ目を見開いた。 「どうも。クライアントは少し面倒でしたけどね」 「拘りがあるお客さまってことだろ? そういう客は満足してくれたら次もあるし紹介もしてくれる。こんなところでそういう言い方は慎んだほうがいい」 犀川は立てた人差し指を唇に当てて笑う。その仕草は、彼の整いすぎた冷酷にすら見えるルックスを、一気に親しみやすい印象に変えた。 「勉強になります。…犀川さんこそ、ヨーロッパはどうでした?」 「ああ。…最高の舞台を見つけてきた」 犀川は切れ長の目を弧にして笑うと、バーテンダーに目配せして同じ酒をもう一杯頼んだ。そして、本題に入る。 「単刀直入に言う。僕は、日本に戻ってきたんじゃない。次の戦いのための、チームを作りに来たんだ」 「…戦い、ですか」 「ああ。パリを皮切りにヨーロッパの主要都市を巡る、大規模な文化交流イベントだ。日本のポップカルチャーの本当の熱量を、彼の地に見せつけてやる。…数年がかりの、俺のライフワークになるだろうな」 犀川は、潮の目を真っ直ぐに見つめた。 「その光の演出の全てを、君に任せたい。照明監督として、俺のチームの心臓部になってほしいんだ、潮くん」 パリ、数年がかりのプロジェクト、照明監督。 どれも、クリエイターとして心が沸き立つ言葉だった。潮は、感心とわずかな警戒を込めて、目の前の男を見返す。 「…光栄ですね。少し、時間をください。数年となると俺も即答できない」 「もちろん、時間はやる。最高のチームを作るためなら、いくらでも待つつもりだ」 「それは気が長い」 潮は笑った。犀川の魅力的な申し出にプロとして強く興味を惹かれながらも、慎重に言葉を選ぶ。 そして、犀川はまるで当然のように、二つ目の爆弾を投下した。 「…それで、そのチームの、俺の右腕となる総合プロデューサーは、生稲誠に任せようと思ってる。親友だろ?」 その名前に、潮の表情が予測通りわずかに曇った。 「…マコを?」 「ああ。あいつの才能は、国内で燻らせておくべきじゃない」 潮は、グラスの氷を指先で弄んだ。その声には、諦めとほんの少しの棘が混じっている。 「…あいつは今、立て込んでますよ。例の、インフルエンサーのお守りで」 その、あからさまに軽蔑を含んだ「お守り」という言葉を、犀川は見逃さなかった。 「ああ、彼氏くんの、な」 犀川は、嘲るのではない。冷たい事実を告げるように言った。 「知ってるさ。…ほんとに、ひどい顔をしてる」 潮の動きが、止まる。 「まるで、生きたまま死んでるみたいだ。あれは単に仕事が忙しいってだけの顔じゃない。…溺れてる人間の顔だ」 潮は何も答えなかった。その沈黙は、雄弁な肯定だった。 (…だろうな。あいつは、そういう相手を選んじまったんだ) 潮の脳裏に、一年半前の光景が蘇る。ファンの前で、誠のことを「イベント会社の人」だと平然と言い放った玲二の顔。あの時から、潮の中で玲二という人間への評価は、決して覆ることのない軽蔑に変わっていた。 犀川は、潮の沈黙に、彼が自分の「味方」であると確信する。 「…君も、そう思うか。なら、話が早い」 犀川はウイスキーを一気に煽ると、静かだ有無を言わさぬ声で言った。 「俺は、誠に手を差し伸べるつもりだ」 「……」 「泥沼から救い出して、もっと大きな、あの才能にふさわしい世界へ連れていく。これは、プロデューサーとして、そして誠をこの業界に引っ張った人間としての、俺の『責任』だ」 その言葉を聞いて、潮は全てを理解した。 これは単なる仕事のオファーではない。誠を、玲二から引き剥がすための、宣戦布告だ。 そして自分は、それを望んでいる。 潮は、ゆっくりとグラスを置いた。カウンターに、カツン、と硬い音が響く。 彼は初めて、犀川を真っ直ぐに見つめ返した。 「……洋昌さん、あれからずっとマコのことを?」 「ああ、……俺は一途なんだ。知らなかったなら覚悟しといてくれ。あんたの光にも惚れてるからな」 肩をすくめる犀川に、潮は笑った。 「じゃあ、お手並み拝見としますか」 それは、共犯者になることを受け入れた合図だった。 彼は、続けた。 「一つだけ。あんたのやり方で、あいつを今以上に傷つけるようなことがあれば、その時は、俺があんたを潰す」 それは玲二を守るための言葉ではない。 ただ一人、親友である誠の最後の幸福だけを願う、究極の警告だった。 犀川は、その脅迫めいた言葉さえも、余裕の笑みで受け流した。 「わかっているさ」 「……」 「俺は、あいつを救うんだから」

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