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第6話 掛け違いの金曜日

お預かりした文章を、ご依頼に沿って整えさせていただきました。 二人の関係が決定的に壊れていく夜の、張り詰めた空気と心の痛みが肌で感じられるような情景描写を心がけました。 同日、金曜の夜六時過ぎ。 誠が玲二と暮らすマンションに帰ると、玲二はファンミーティングへ向かうための身支度の最中だった。 「誠さん、おつかれさまでした。あの……現場、どうでした?」 「ああ、問題ない。完璧に仕上げてきた」 「…よかった。何か、トラブルとか…」 「ない。風呂入るわ」 バスルームに消える、あまりに素っ気ない背中。 玲二は、その背中を不安な気持ちで見つめていた。 (……大丈夫、そうかな) 先ほどからSNSで、誠が設営現場にいたことでファンの一部が不穏な騒ぎ方をしているのが気にかかる。直接何か言われたわけではなさそうだ。最近ずっと疲れ気味で反応が薄いから、きっと、いつものことだ。 そう自分に言い聞かせ、玲二は気持ちを切り替えて鏡に向き直った。 誠は熱いシャワーを浴び、夕食を無理やり胃に詰め込むと、ソファに深く腰かけた。 リビングでは、玲二が出かける準備をしながら落ち着きなく部屋を歩き回っている。クローゼットから出したばかりの、嘉納がデザインした洒落たジャケットに袖を通し、鏡の前で髪を整える。 誠は、そんな恋人の背中を、ぬるくなったコーヒーカップを握りしめながら、ぼんやりと眺めていた。 『共響』のメイキング映像が、頭の中で何度も再生される。 自分の知らない顔で笑う玲二。 彼に親しげに触れる、間瀬の手。 そして、SNSに溢れる二人を祝福する声。 溜まり続ける不満と不安。何かを言わなければ、このまま何かが決定的に壊れてしまう。そう思うのに、どんな言葉を選べばいいのか全く分からない。 言葉にならない黒い感情が塊になって、喉の奥で詰まっている。呼吸が心なしか浅かった。 誠は気を紛らわすためにスマートフォンを取り出し、画面をスクロールした。 目に飛び込んできたのは、玲二と懇意にしている有名ファッションデザイナーの女性が、数分前に投稿した一枚の写真だった。 『才能溢れるU-sagiさんと、秘密のミーティング』 その言葉と共にアップされていたのは、夜景のきれいなレストランのテラス席で、横並びに寄り添うように笑い合う玲二と彼女のツーショット。玲二の肩に、彼女の手が親しげに置かれている。 ずきり、と誠の心臓が物理的な痛みを訴えた。 「……おい、玲二」 誠の声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。 準備の手を止めた玲二に、誠はスマートフォンの画面を突きつける。 「これ、どういうことだ」 玲二は、その画面を一瞥すると、うんざりしたように息をついた。 「どうって? 仕事ですよ。彼女のブランドの、次のシーズンのタイアップです」 「仕事…? これのどこが? 俺には、ただのデートにしか見えないが?」 「もう、やめてください。くだらないことで、勘繰るなんて」 その、あまりに冷たい玲二の態度に、誠の中で何かがぷつりと切れた。 「くだらない…? お前が、俺の知らないところで、知らない女とこんな写真を撮られて、俺が不安に思うのが、そんなにくだらないことなのかよ!」 声を荒らげる誠に、玲二はさらに残酷な一言を放った。 「彼女のことは、何とも思っていません。だから、ああやって写真を載せられるんです。あなたとは、違う」 (あなたとは、違う) その言葉が、誠の頭の中で歪んだエコーのように響いた。 本気だから、隠さなければならない。 その決まり文句が、もはや『日陰にいろ』という宣告にしか聞こえなかった。 誠が何かを言い返そうと口を開きかけた、その時。玲二は壁の時計を見て、急いで上着を手に取った。 「もう行かないと。ファンミーティングに遅刻します」 玲二はそれだけ言うと誠に背を向け、足早に玄関へと向かう。議論を、一方的に放棄したのだ。 バタン、と無慈悲なドアの音。 一人残された部屋で、誠はゆっくりとソファに崩れ落ちた。 怒りはもうなかった。ただ、胸にぽっかりと大きな穴が空いたような、途方もない虚無感が誠を支配していた。 (そうだ。いつだって、そうだった) 脳裏に、過去の記憶が次々と蘇る。 二年前、ボートの上で彼に言われた言葉。 『これは…僕の『仕事』ですから』 一年半前、ネットで見た噂。 『誠が、U-sagiのストーカーをしている』 いつだって、玲二は自分よりもファンや仕事を優先した。 この自分の存在を、ひた隠しにして…。 一人きりのリビングはがらんとして、不自然なほど静かだった。 壁の時計の秒針が、カチ、カチ、と時を刻む音だけがやけに大きく耳に響く。 時間は無情に過ぎていった。10時を、深夜0時を、そして午前2時を指す。 スマートフォンは沈黙したままだ。 最初は怒りに任せて何通もメッセージを打ち込んでは消した。 やがてそれは心配に変わった。 『事故にでも遭ったんじゃないか』。そんな不安が頭をよぎるたび、心臓が冷たくなる。 午前三時を回る頃には、怒りも心配もどこかへ消え失せていた。後に残ったのは、ひどく疲れた諦めだけだった。 (…違うな。あいつはただ、俺のいるこの部屋に、帰りたくないだけだ) ソファに深く体を沈めたまま、誠は虚ろな目で暗闇を見つめた。 玲二の放った言葉が、何度も、何度も頭の中で反響する。 『あなたとは、違う』 その言葉が、ネットに溢れるファンからの悪意ある言葉と重なって聞こえた。 (なあ、それって、俺が……) 『誰こいつ?』 『うざ。売名行為?』 (お前にとって、俺が……) その時だった。 カチャリ、と玄関の鍵が開く小さな音。 午前四時。 ふらりとした覚束ない足取りでリビングに入ってきた玲二から、微かに酒と、そして誠の知らない甘い香水の匂いがした。その香りは鋭い棘のように、誠の神経を逆撫でした。 「……どこに、行ってたんだ」 ソファに座ったまま、誠がかろうじて声を絞り出す。喉がカラカラに乾いて、声がうまく出なかった。 玲二は、誠の顔を見もせずに虚ろな声で答えた。 「……ファンミのあと、バーに。打ち上げですよ。店はよく、覚えてない。…疲れてるんだ。寝かせてくださいよ」 玲二はそれだけ言うと誠の横を通り過ぎ、寝室のドアの向こうへと消えていった。 パタン、と閉まるドアの音。 ああ、終わったんだな。 誠は、夜が明ける気配のない暗闇の中で、静かにそう悟った。 『…大丈夫ですよ。俺が、ここにいますから』 二年前にこのリビングで玲二が言った言葉が、遠い過去のものになってしまった。 誠は、自分の手をぎゅっと握りしめる。あの時、玲二が重ねてくれた、温かい手が自分より少しだけ大きかった感触を思い出して、静かに、嗚咽した。

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