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第23話 UNFILTERED LOVE(最終回)

あの熱狂の個展から、季節は一つ巡った。 春。新緑の木漏れ日が、きらきらと歩道に降り注いでいる。 誠と玲二は、東京・代官山の穏やかな通りを、二人で、ゆっくりと歩いていた。繋がれた手は、もう人目を気にするものではない。時折、すれ違う人々が二人に気づき、「あ」と小さく声を上げ、邪魔にならないようにしながら、でも、心のこもった微笑みを向けてくれる。 その度に、誠はまだ少し照れ臭そうに視線を逸らし、玲二は嬉しそうに小さく会釈を返す。そんな穏やかなやり取りも、すっかり二人の日常の一部になっていた。 二人が暮らすマンションのリビングは、春の午後の、柔らかな日差しで満たされている。 部屋に入ると、誠は、すっかり習慣になったように、窓際の鉢植えに水をやり始めた。ベランダで育て始めた、小さなハーブの鉢植え。その緑の葉を、慈しむように見つめる横顔は、かつて企画書を睨んでいた、あのプロデューサーの顔ではない。完全に気の抜けた、穏やかな男の顔だった。 「誠も、すっかり板についたみたいですね。ハーブ育てるの」 キッチンから顔を覗かせた玲二が、楽しそうに言う。 「お前が紹介してくれた『友達』だからな。大事にしねえとだろ」 誠は、ぶっきらぼうにそう答えた。その左手の薬指で、シンプルなプラチナの指輪が、春の光を浴びて、きらりと輝いていた。 リビングに戻ると、誠の携帯が、メッセージの着信を告げた。ソファの隣に座った玲二が、何気なくその画面を覗き込む。トークルームに表示された名前は、『MAA (maze)』。 玲二は、少しだけ、拗ねたように唇を尖らせた。 「誠って、みんなのこと、あだ名で登録してますよね」 「ん?ああ。その方が、楽だろ」 「…僕のことも、レイ、とかあだ名付けてくれてもいいですよ? 僕も、マコって呼びたいし」 その、少しだけ不安そうな声に、誠は、怪訝な顔で玲二を見た。 「はあ? なんでそうなるんだよ。お前は、『玲二』で、俺は『誠』だろ」 「そうだけど、でも、晃さんだって会社に来た日から『マコ』って呼ばせてたのに、僕だけがずっと『誠さん』とか『誠』って呼ぶのは、なんだか、仲間外れみたいで…」 すると、誠は、心底、面倒くさそうに、大きなため息をついた。 「…あのな。間瀬は『マコ』でいいんだよ。みんなも俺を『マコ』って呼ぶだろ。でもお前は、『誠』って呼べ」 「え…」 「例えば、潮は『マコ』でもいいけど、お前は『誠』。分かったな」 それは、あまりにわかりずらくて不器用だけど、よく聞くとかなりストレートな、独占欲の告白だった。玲二は、嬉しさが込み上げてくるのを、必死で堪える。 「…じゃあ、僕のことも、『玲二』って登録してくれてるんですよね?まさか、『U-sagi』とかじゃないですよね?」 その言葉に、誠は、さらに面倒くさそうに、ため息をついた。 「…お前、確かめないと気が済まないタチだな……じゃあ、俺のアドレス帳みるか?」 彼は、ぶつぶつ言いながら、アドレス帳のアプリを開いて、玲二の目の前に突きつけた。「プライベート」と名付けられたフォルダの中身。 『MAA (maze)』 『ICCHI』 『PIRO』 『USHIO』…… ずっとアルファベットの登録名が続く――そして、その中に、たった一つだけ。 『鵜鷺 玲二』 漢字のそれは、まるで、そこだけ違う空気が流れているかのように、整然と、そして、大切そうに、フルネームで登録された、自分の名前。 「……っ!」 玲二は、言葉を失った。誠は、そんな玲二の顔を見て、満足そうに、意地悪く笑う。 「納得したか? 俺は、ちゃんとお前の名前を呼びたいし、お前にも俺の名前をちゃんと……ん、ふぅ……」 ──特別 玲二は、もう、何も言えなかった。ただ、目の前の、どうしようもなく愛おしい、不器用な恋人の首に腕を回し、答えの代わりに、深いキスをするのが、精一杯だった。 唇が離れた後、玲二は、テーブルの上に置かれていた、一冊の旅行雑誌に気づいた。ヨーロッパの美しい街並みが特集されている。 「…犀川さんから、またメールが来てましたよ。『いい加減、君のパートナーにプレゼン資料だけでも目を通させろ』って」 玲二が楽しそうに言うと、誠は、盛大に肩をすくめた。 「あいつ、お前にまでそんなこといってんの? はあ、ピロは昔っから、しつこいんだよなぁ」 「あなたのことだから、資料を見たら絶対に行きたくなるから、わざと見てないんじゃないですか?」 「そんなことねえよ」 「はいはい。それで? 行くんですか、ヨーロッパ」 玲二の問いに、誠は、少しだけ遠くを見つめた。そして、恋人に向き直る。 「お前次第だ。新進気鋭のアーティスト様は、海外で撮りたい作品とか、あんのかよ」 玲二は、にっこりと笑った。 「俺が撮りたいのは、いつだって一つだけですよ。誠さんがいる風景、です。あなたが行くなら、俺はどこへでも行きます」 その言葉に、誠は、照れくさそうに、視線を逸らした。 ふと、玲二は、そばに置いていた愛用のカメラを、静かに持ち上げた。 窓のそばに立ち、夕暮れに染まり始めた東京の街を眺める誠。その横顔は、付き合い始めて三年目の夏に、絶望に打ちひしがれていた男とは、まるで別人だった。 カシャ。 優しいシャッター音に、誠が「ん?」という顔で、こちらを振り返る。 その、愛情に満ちた瞳を、玲二はまっすぐに見つめ返した。 「俺の(カメラ)は、もうずっと前から、あなたにピントが合ってるんですよ」 玲二は、いたずらっぽく、そして、これ以上ないほどの愛を込めて、微笑んだ。 「――生涯、ね」 誠は、一瞬、目を丸くした後、「…うるせえ」と呟きながら、ゆっくりと、幸せそうに、笑った。 そして、季節は巡り、再び夏が訪れた。 二人は、エーゲ海を見下ろす、あの断崖に立っていた。かつて、玲二から写真への自信と、ファンへの信頼を奪った、トラウマの場所。 空が、オレンジと紫のグラデーションに、静かに燃え始めている。 隣に立つ誠は、何も言わない。ただ、静かに、彼の隣にいる。 その、無言の信頼が、玲二の背中を、そっと押した。 (もう、怖くない) 彼は、カメラを構えた。 カシャ。 乾いたシャッター音が、夕暮れの海辺に響いた。それは、過去との決別の音だった。 彼のインスタグラムには、今、時々、何気ない写真が投稿される。 編集スタジオでうたた寝をする、少し疲れた彼の寝顔。ベランダで、ハーブに水をやる、気の抜けた横顔。そして、その写真には、必ず、こうクレジットされている。 『Photo by M.I.』 無加工の愛(UNFILTERED LOVE)を見つけた二人のファインダーは、これからも、輝かしい未来だけを、写し続けていくのだろう。 -了-

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