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第22話 Truth & Proof
九月中旬 土曜 午前十時
オープンを告げるブザーが鳴り終わる前から、東京・代官山の洗礼されたギャラリーには、尋常ではない熱気が渦巻いていた。それは、まるで巨大な生き物の呼吸のようだった。
舞台袖の、全てを見渡せる暗闇の中から、プロデューサーである誠は、息を殺してその光景を見つめていた。
入り口に設えられた、特注のメインパネルのトラブルを、玲二の、アーティストとしての閃きが救った、あの夜。 誠と玲二、そして、チームの仲間たちが創り上げた、個展『Truth & Proof』の幕が、今、ついに上がる。
眼下に広がるのは、ゆっくりと、だけど絶え間なく動き続ける、人の海。彼らは、何かを求める巡礼者のように、厳かで、静かな熱を帯びていた。
会場に流れているのは、誠が選んだ、ただ静かなアンビエントミュージック。だけど、その音楽を包み込むように、会場全体から不思議な音が聞こえてくる。
それは、数千人の観客が発する、囁き声の集合体。写真の前で足を止め、息を呑む音。こらえきれずに、鼻をすする音。隣の友人に、震える声で何かを語りかける声。
その全てが、この空間が、ただの展示会場ではなく、一つの巨大な感情の揺りかごになっていることを示していた。
誠の視線が、ある一点で留まる。
会場の一角、例の「惚れバレ写真」と共に、協力してくれた女性ファンの感謝と勇気のメッセージが、スポットライトに照らされて飾られている。その前で、女子高生のグループが、涙を拭いながら、何度も、何度も頷いている。
別の壁では、かつて辛い記憶の象徴だった「ボートデート」の写真の前で、あるカップルが、そっと手を握り合っている。
壁という壁に飾られているのは、玲二が撮りためた、愛に満ちた自分の写真。
だけど、この空間の中で、誠の目には、そこに写る自分は見えていなかった。
見えていたのは、この写真を撮った時の、玲二の瞳。
この横顔を、彼はどんな気持ちで見つめていたのか。この笑顔に、彼はどんな愛を感じてくれていたのか。
玲二の三年間分の「好き」が、ライティングディレクターである潮の創り出した完璧な光を浴びて、今、会場の全ての人々の心に、直接語りかけていた。
(……勝ったな)
込み上げてくる感情を、奥歯でぐっと堪える。
「……すげえな、おい」
誰に言うでもなく、ほとんど吐息のように漏れた言葉は、プロデューサーとしてではなく、ただの、愛される喜びを知った一人の男としての、偽らざる本心だった。
誠は、もう一度、会場の熱狂を目に焼き付けると、これから始まるトークイベントのために、静かに踵を返した。
最高の答えを、提示する準備は、もう、整っていた。
◇◆◇◆◇
会場の中盤、『音声の真実』ブースでは、ひときわ静かで、内省的な空間が広がっている。 壁に埋め込まれた巨大なスクリーンに映し出されているのは、多くの来場者にとって見覚えのある、あの映像――U-sagiとmazeのコラボ企画『共響』のメイキングフィルムだ。
微かに流れる、少し切ないピアノのBGM。親密そうに、でもどこか儚げに笑い合う二人の姿。それは、ネット上で幾度となく再生され、数多のファンの心を掴み、そして、誠の心を深く傷つけた、因縁の映像だった。
映像だけを見れば、それは完璧に、特別なパートナー同士の仕草として映っている。 だけど、この展示では、スクリーン下部に、会話の内容が**字幕(キャプション)**として、静かに表示されていた。 来場者は、映像の美しさと、そこに添えられた言葉の、不思議な不協和音に首を傾げる。そして、ブースに備え付けられたヘッドホンを手に取るか、自らの携帯からBluetoothイヤホンを接続する。
その瞬間、世界は一変する。 耳に流れ込んでくるのは、加工されていない、ありのままの「音声」。切ないBGMは消え失せ、代わりに聞こえてくるのは、二人のプロフェッショナルの、生き生きとした会話だった。
「はい、オッケーでーす!少し休憩挟みまーす!」
ディレクターの声がかかったあとも回っているメイキング用の小型カメラが、汗を拭う玲二にペットボトルの水を渡す『maze』こと間瀬晃の姿をとらえていた。
「お疲れ。やっぱ、レージと組んで正解だった。感がいいから、楽でいいわ」
「こちらこそ。晃さんがいてくれると、絵面が締まって助かります」
「お、やっと名前で呼んだな」
「…からかわないでください」
「あんたのそういうとこ、好きだぜ」
間瀬が、くく、と喉を鳴らして笑う。
「丁寧で大人しそうなのに、その実、全然懐かないし、意地っ張り。芯があって信用できる。…まあ、たまには俺の言うことも素直に聞けよな」
「善処します」
真顔で返す玲二に、間瀬は面白そうに目を細めた。
「そういや、あんたを世に出した、あの伝説のパーティー。三年前の、KANOのブランドローンチだろ?」
「え…」
「企画したの、あの生稲誠ってプロデューサーなんだってな。俺も当時、噂で聞いたぜ。空間の使い方も、光の操り方も、完全に天才の仕事だったって。マジでセンスいいよな、あの人」
『生稲誠』という名前が出た瞬間、玲二のプロフェッショナルな仮面が、コンマ数秒だけ緩む。その瞳に、隠しきれない誇りと愛情が、蜂蜜みたいにとろりと滲んだ。
「……! ええ、そうなんです。誠さんは、本当に…すごい人なんです」
恋人を褒められて、玲二の表情は完全に「インフルエンサー」の仮面が剥がれ、柔らかく綻んでいる。音声を聞けば、誰を思ってこぼれ出た「素」の顔だったのか、一目瞭然だった。フィルムの中の間瀬は、その表情の変化を見逃さず、狙いすましたように畳みかける。
「だよな。俺も一度、仕事してみたいって本気で思ってる。なあ、今度紹介してくれよ、その『誠さん』に」
その瞬間、玲二の顔から、さっきまでの柔らかな表情が消え失せた。さっと警戒の色を浮かべ、慌てて言葉を探している。
「え……いや、それは……。彼は今、すごく忙しいみたいで…ちょっと、難しい、かな……」
その見え透いた嘘に、間瀬は確信犯的な笑みを浮かべた。
「へえ…。そんなに紹介したくないんだ、その『誠さん』のこと」
「な、そ、そんなんじゃありません!」
図星だと顔に書いてある玲二の表情が、たまらなく面白い。
「あんたは顔に出るタイプだからな。気を付けないと、大事なもんは、あっという間に横からかっさわれるぜ」
そう言うと、間瀬は少し乱れていた玲二の前髪を、親しげでありながら、計算された仕草で、軽く指で撫でて直した。
『共響』の世界観が好きで、玲二と間瀬のコンビを応援していたファンたちを、この展示は決して貶めたりはしない。むしろ、彼らが愛したあの親密な空気感が、実は、玲二が隠しきれないほどの愛情を、別の誰かに向けていたがゆえの表情だったという、切なくも尊い「真実」を提示するのだ。 それは、物語のミッシングピースが、カチリと嵌まるような、感動的な発見の体験だった。
そして、メイキング映像が静かに終わると、画面は、スーツ姿の間瀬本人が、カメラに向かって語りかける、撮り下ろしのコメント映像へと切り替わる。
「やあ、みんな。『Truth & Proof』へようこそ。 俺たちの『共響』メイキングフィルムの、“本当の音”は、楽しんでもらえたかな?
あの音声のない映像を見て、君たちがたくさんの物語を**『妄想』**し、熱狂してくれていたこと、俺は知っている。クリエイターとして、君たちの心をそれだけ揺さぶれたことを、誇りに思う。
もしかしたら、本当の会話を聞いて、少しだけ、がっかりした人もいるかもしれない。 でも、忘れないでほしい。あのコラボで君たちが感じた興奮や、胸の高鳴りは、君自身の**『本物の体験』**だ。それは、決して嘘なんかじゃない。
この個展で、本当の答えは見つかっただろ? なら、憶測で誰かを傷つけるのは、もうやめだ。 これからも、安心して、俺たちの創る最高のエンターテイメントを楽しんでいこうぜ」
――maze
ヘッドホンを外して静かに涙を拭う女性もいた。
そして、バーナビーのトラウマの象徴だった『空が燃えた日』の写真の前で、その再生の物語を読み、固唾をのむカップルもいた。
誠が仕掛けた「謎」は、今、この場所で、一人ひとりの心の中で、感動的な「答え」に変わっていた。
プロモーションから知った人もいれば、誠徹がストーカーだと騒がれた騒動をリアルタイムで見ていた人もいるだろう。なかには何らかの発言をした人もいるのかもしれない。
一人ひとりの心の中で、それぞれの視点から物語が紡がれる。
来場した人たちからきこえてくる声も含めて、すべての人にそれぞれの物語の真実がある。
まさに、事実はひとつ。真実はそれを知る人の数だけあるのだ。
◇◆◇◆◇
やがて、メインステージで行われる初日トークイベントが、クライマックスを迎えた。 ゲストとして招かれた『maze』が、マイクの前に立つ。会場の誰もが、彼が何を語るのかに注目していた。司会者が最後のゲストを紹介した。
「そして、最後に、玲二さんの盟友でもあります、インフルエンサーの『maze』様より、お祝いの言葉をいただきます!」
会場が、期待と少しの緊張感を含んだ、独特のどよめきに包まれる。 ステージに上がった『maze』は、悪びれる様子もなく、自信に満ちた笑みを浮かべてマイクの前に立った。
「玲二、そして、マコ。まずは、心から、おめでとう。間違いなく、今年最高の個展だ」
『maze』は、ステージ袖にいる二人に向かって、まず祝福の言葉を贈った。
「さて、と……。」
会場が、固唾をのんで彼の次の言葉を待っている。『maze』は、客席をゆっくりと見渡すと、続けた。
「会場の中には、俺が編集した『共響』のメイキング映像の、“答え合わせ”みたいな展示があったらしいな。あれを見て、『『maze』に騙された』って思った奴もいるんじゃないか?」
ざわめきが、大きくなる。
「だけど、言わせてもらう。俺は、嘘は流してない」
『maze』の声が、力強く響き渡る。
「俺が流したのは、才能ある二人の男が、真剣に作品作りに向き合ってる姿だ。そのなかには休憩中の雑談もあった。それは、事実だろ? あれを見て、みんながどう解釈するかは、見た人自身の体験であり、感想だ。 違うか?」
彼は、挑発するようでいて、楽しそうに問いかける。
「誰が本命で、誰が悪役なのか。ハラハラしながら、毎日SNSをチェックしたよな? 次の予告編はまだかって、待ち遠しかったよな? そうやって、ここに至るまでの道のりを楽しんでいた気持ちは、嘘じゃないだろ?」
会場の誰もが、反論できない。
「エンターテイメントってのは、そういうもんだ。」
『maze』は、ふっと笑うと、今度は真っ直ぐに、ステージ袖の誠を見つめた。その瞳には、初めて、剥き出しのリスペクトが浮かんでいた。
「……俺は、『共響』のメイキングフィルムで、好奇心をくすぐる最高の“謎”を提示したつもりだった。だけどどうだ? プロデューサー・生稲誠は、その遥か上を行った」
『maze』は、舞台袖にいる誠を、真っ直ぐに見つめた。その瞳には、剥き出しのリスペクトが浮かんでいる。
「彼は、全ての謎と憶測、ネットの悪意さえも、全て最高の伏線に変えて、この場所で、たった一つの『真実の愛』という、誰もが予想しなかった、最高の答えを提示した。真実を、最高のエンターテイメントに昇華させたんだ。……クリエイターとして、完敗だよ。あんたの勝ちだ、マコ。玲二のパートナーはあんたしかいない」
『maze』はそう言うと、ニヤリと笑い、二人に向かって拍手を送ってみせた。 それは、最高のプロフェッショナルが、自分を超える才能と覚悟に出会った時にだけ見せる、最大限の賛辞だった。 会場は、一瞬の沈黙の後、今度こそ、この物語に関わった全ての表現者たちへの、嵐のような拍手に包まれた。
◇◆◇◆◇
maze のトークイベントが終わって、ステージは無人のまま会場のBGMがかかる。
ステージスケジュールはこのあと、初日の最後を飾るU-sagiの挨拶だ。
個展初日、トークイベント開始十分前。
代官山の会場のバックステージは、熱気と、成功への期待感で、むせ返るようだった。
「…誠さん、準備、できましたか」
玲二が、緊張した面持ちで、誠のいる控室のドアを叩いた。
中から聞こえてきたのは、誠の、不機嫌で、低い声だった。
「…できるわけ、ねえだろ」
玲二がおそるおそるドアを開けると、そこには、鏡の前で腕を組み、眉間に深い皺を刻んだ誠の姿があった。
そして、その隣には、満足げな笑みを浮かべる、嘉納。
誠が着ているのは、プレビューツアーで纏った、あの漆黒の「制服」ではなかった。
嘉納が、この日のためだけに、特別に仕立てた、寸分の狂いもない、美しいカッティングのタキシードだった。
「なんだよ、これ」
誠は、鏡の中の自分を、忌々しげに睨みつける。
「ただの写真展だろ。アカデミー賞の授賞式でもあるまいし、こんな、仰々しい格好して、どうすんだよ」
その、子供のような文句に、嘉納は、やれやれと肩をすくめた。
「何言ってるのよ、マコ。これは、**あんたたちの『門出』**でしょう?」
嘉納は、誠の蝶ネクタイを、くい、と直しながら、諭すように言った。
「今日、あんたたちは、ただのプロデューサーとアーティストじゃない。世間に、全てを晒して、新しい人生を始めるのよ。その、一番大事な舞台に、中途半端な衣装で立たせるわけにはいかないわ」
「だからって、これは…」
なおも、むっとして抵抗しようとする誠に、嘉納は、とどめの一言を放った。
その瞳は、もう、友人ではなく、このイベントの成功に責任を負う、プロのクリエイターの目をしていた。
「客は大入り。満員御礼よ。 その、何千人もの観客と、何万人もの配信の視聴者の前で、プロデューサーである、あんたが、そんな、ぶうたれた顔してるわけにいかないでしょ」
そして、嘉納は、悪戯っぽく、笑った。
「それとも何? この最高の舞台を、主役の一人である、あんた自身が、ぶち壊す気?」
その言葉に、誠は、ぐっと、言葉を詰まらせた。
彼は、助けを求めるように、部屋の入り口に立つ、恋人を見た。
しかし、玲二は、嘉納が用意した、対になるデザインの、優美なタキシードを完璧に着こなし、ただ、申し訳なさそうに、そして、祈るように、誠を見つめ返しているだけだった。
(…はめられた)
誠は、観念したように、天を仰いで、大きく、大きく、息を吐き出した。
そして、もう一度、鏡の中の自分を見る。
「……わかったよ。着ればいいんだろ、着れば」
その、不貞腐れたような言い方に、控室にいた潮と嘉納が、どっと笑う。
誠の、プロデューサーとしての、そして、一人の男としての、新たな門出は、こうして、最高の仲間たちの、少しだけ、手荒い祝福の中で、その幕を開けようとしていた。
◇◆◇◆◇
そして、イベント初日、ステージでの挨拶。主役である玲二が、司会者からマイクを受け取って握りしめた。彼は、嘉納が手掛けた、最高の「鎧」である淡紅色のタキシードを着ていた。照明が当たると白に見える、正装に観客がざわめきを発した。
玲二は、一度、満員の会場をゆっくりと見渡す。そして、深く、深く、頭を下げた。
「本日は、本当にありがとうございました」
顔を上げた彼の瞳は、涙で潤んでいたが、その光は、かつてないほど力強かった。
「僕は今日ここで、インフルエンサーとして、そして一人の人間として、僕が犯した大きな過ちについて、お話しなければなりません」
瞳を閉じて、また開くと話し始めた。
「僕は、愛する人を『隠す』ことで、彼を、そして僕自身を守れると思い込んでいました。でも、それは間違いでした。その選択が、結果として僕が人生で最も大切に思う人を、深く傷つけました。僕を信じてくれていたファンの皆さんに、大きな誤解を抱かせてしまったのは、僕です。僕を護ろうとしてくれた一部の熱心なファンの方々には行動をした人もいると思います。僕が『隠す』ようなことをしたせいです。心からお詫びします。僕が、もっと早く、本当のことを話す勇気を持てていれば…。全ては、僕の弱さが招いたことです。本当に、申し訳ありませんでした」
再び、玲二は、深く頭を下げる。会場は、水を打ったように静まり返っていた。
「この個展『Truth & Proof』は、そんな僕にとっての、『生きなおし』の証です。もし、この場所にいる皆さんの中に、過去の過ちに苦しんでいる方がいるなら、知ってほしいです。間違った場所からでも、もう一度、誠実に向き合えば、やり直すことはできるのだと…、その、やり直す機会を与えてくれたのが、プロデューサーであり、僕のパートナーである、誠さんです」
玲二は、舞台袖にいる誠を、優しい目で見つめた。
「そして、今日ここに来てくださったファンの皆さん、僕たちを支えてくれた潮さん、嘉納さん、mazeさん、全てのスタッフの皆さん。心から、感謝しています。これからも、応援していただけると、嬉しいです」
「そして最後に……もう一人、このステージに上がらなければならない人がいます。この個展の企画者であり、僕の写真の、そして、僕の人生の、主人公です」
玲二は、舞台袖に向かって、叫んだ。
「誠さん!ステージに、上がってきてください!」
「は……?」
聞いていない。
そんな段取りは、ない。
誠が呆然としていると、隣にいた親友の潮が、照明ブースから「早く行けよ、主役」と笑い、背中を押した。 腹を括り、眩しい光の中へ足を踏み出す。
淡緑色のタキシードを着た誠が、ステージの中央、玲二の隣に立った、その瞬間だった。 パッ、と会場の全ての照明が落ち、一本の、強烈なスポットライトだけが、二人を暗闇から浮かび上がらせた。
(この、タイミング…この、光の落ち方…!)
誠の、プロデューサーとしての脳が、瞬時に状況を分析する。インカムで指示は出していない。アドリブか?いや、違う。この、完璧なまでに計算された光の演出は、潮だ。あいつが、ブースで、何かやっている。
(そうだ、この、仰々しいタキシードも…! 嘉納の奴、『門出だ』なんて、うまいこと言いくるめやがって…!)
潮と、嘉納と…そして、目の前で、悪戯っぽく、しかし、決意に満ちた顔で、自分を見つめている、玲二の真剣な表情。誠の頭の中で、パズルのピースが、カチリ、カチリと、音を立てて嵌まっていく。
(まさか、お前ら、三人で…俺に内緒で、こんなことを、仕込んでやがったのか…?)
観客のどよめきの中、玲二が、誠の前に、ゆっくりと片膝をついた。
「……!」
誠は玲二を凝視した。
玲二は、マイクを通さず、震える声で、誠だけに語りかける。
「誠さん。僕の弱さで、あなたをたくさん傷つけました。たくさん待たせて、たくさん泣かせました。本当に、ごめんなさい」
そして、彼は顔を上げ、今度は、会場の全ての人々、そして配信を見つめる全世界に向けて、誓うように言った。
「でも、あなたが諦めずに僕の手を掴んでくれたから、僕は今、ここに立っています。僕のファインダーが捉えたいのは、もう綺麗な景色じゃない。あなたのいる、未来だけです」
玲二は、ポケットから小さなベルベットの箱を取り出した。
「もう二度と、あなたを一人にはしない。これからは、公私ともに、生涯のパートナーとして、僕の隣にいてください」
箱が、開けられる。中には、シンプルな指輪が、スポットライトを浴びて輝いていた。
「誠さん…俺と、結婚してください」
誠の瞳から、堪えきれなかった涙が、次々と溢れ出した。声が出ない。 ただ、目の前の、世界で一番愛しい男に向かって、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、何度も、何度も、力強く頷いた。
「……んだよ。こんな……聞いてない……ぞ」
やっと絞り出したのは、そんな、彼らしい、愛情表現だった。
「その、……ふ、ふつつかもの、だけど…その、よろしくな、玲二」
玲二が、その震える左手の薬指に、そっと指輪をはめる。 その瞬間、会場の照明が一斉に戻り、天井から、銀色のテープがキラキラと舞い降りた。 割れんばかりの拍手と、歓声と、祝福の嵐。 ネットのコメント欄は、お祝いの言葉で、完全に埋め尽くされていた。
誠は、自分を抱きしめる恋人の腕の中で、確信した。 長かった、三年間。 その全ての苦しみは、この瞬間のための、長い、長いプロローグだったのだと。
このあと、SNSでは『♯うさマコご祝儀』タグが登場してトレンドにあがった。
前日や初日に来場したファンたちがつくったハッシュタグだった。
『Truth & Proofのチケット、無事ゲット!これはチケット代じゃない、二人へのご祝儀です!末永くお幸せに! #うさマコプロポーズおめでとう #うさマコご祝儀』
『今日の個展は、世界で一番素敵な結婚披露宴でした。プロポーズの瞬間、涙が止まらなかった……。私のご祝儀(チケット代)、二人の今後の活動の足しにしてください! #うさマコご祝儀』
『グッズも全部買った!これももちろんご祝儀の一部です(笑)生稲 誠、私たちのU-sagi を、一生幸せにしてあげてくださいね! #うさマコご祝儀』
あれほど恐れていたファンの反応。そのファンたちが、自分たちの関係を、こんなにも温かく、ユーモアを交えて祝福してくれている。玲二は嬉しそうに、そして誇らしそうに微笑む。その瞳が潤んでいた。
「誠さん……見てください……。みんな……『ご祝儀』だって……」
誠はプロデューサーとして、収益見込みや損益分岐点といった、ビジネスの「数字」でこのプロジェクトを動かしてきた。イベントとしての個展がファンたちの熱量で盛り上げるための仕掛けを考えたときも、最終的に興行収入が今後の玲二の活躍を左右する。そこに視点を絞って、成功をもたらすストーリー構成をみていた。その誠にとって、これは完全に計算外の出来事だった。お金では決して計れない、人々の善意と祝福。彼の目も潤いが宿る。
「……フン。勝手なこと言いやがって」
憎まれ口を叩くその横顔は、誰が見てもわかるくらい、優しく、幸せそうに緩んでいるのです。
◇◆◇◆◇
それから二週間。
玲二の個展は大盛況で終日を迎えた。
展示されている写真は数あれど、ただ一つだけ、玲二の直筆のキャプションが付けてあった。
タイトル:『空が燃えた日、心が死んだ日』
解説文: 「この一枚の写真は、かつて僕から色彩と自信を奪いました。
『嘘つき』という言葉が、僕の心を深く傷つけ、自分の『好き』という感情に蓋をさせました。それで僕は、プライベートや自分が表現したいものを明かさなくなりました。
でも、たった一人だけ、私の見た『真実の感動』を、その背景にある『痛み』ごと信じてくれた人がいました。
彼のおかげで、僕は再び、自分の心を信じてシャッターを切れるようになりました。
この写真は、僕の挫折と、再生の証です。
そして、僕を救ってくれた、愛するパートナーへの感謝そのものです。
―― U-sagi」
玲二がこの写真について、この解説文を手書きのまま展示したいといったとき、誠の心の中で、この個展のテーマである**『Truth & Proof(真実と証明)』**が、本当の意味で完成したと、そう思った。
(展示された状態で見るのは、これで見納めだな)
照明について話し合ったのが懐かしい。あのとき正直、誠はここまで成功する確信はなかった。でもひたすらやるしかないという気合で前だけ向いて突き進んだ結果がこれで、大満足だった。
個展『Truth & Proof』の最終日。
鳴り止まない拍手と祝福の声に包まれた、クロージングイベントが、まもなく始まろうとしていた。
プロデューサーとして、会場の隅でスタッフに最後の指示を出していた誠の元へ、ステージ衣装に着替えた玲二が、少し慌てたように駆け寄ってきた。
「誠さん、ここにいたんですね。もうすぐ、終了の挨拶が始まりますよ」
「わかってるって。すぐ行く」
誠は頷くと、インカムを外し、玲二と並んでステージへと向かう。
ファンたちの、温かい視線が、モーゼの海のように、二人のための道を開けていく。その、くすぐったいような視線から逃れるように、誠は、隣を歩く恋人に、そっと話しかけた。
「……今夜、何食べます?」
「…お前の作った唐揚げ」
「またですか?先週も作りましたよ」
「いいんだよ。俺は、あれが一番好きだ。こう、マヨネーズたっぷりかけて」
「だめです。マヨネーズは禁止です」
「え。なんでだよ。おいしいのに」
「ダメなものはだめです」
そんな、ありふれた、愛おしい会話を交わしながら、ステージへと続く、最も混雑したエリアに差し掛かった時だった。
向かい側から、一人の女性が歩いてきた。個展のロゴが入ったグッズの紙袋を、大切そうに胸に抱えている。
彼女は、ふと顔を上げた瞬間、誠と玲二の姿に気づき、その瞳を、驚いたように、わずかに見開いた。
誠の目に、ふと、彼女の手元が映った。
慌てて紙袋の後ろに隠そうとした、コーラルピンクの携帯。そして、そのストラップから揺れる、見覚えのあるような、ないような…小さな、垂れた耳の兎のぬいぐるみ。
だけど、彼女は駆け寄ってくることも、携帯を向けることもしなかった。
ただ、その顔に、花が咲くような、心からの、柔らかい微笑みが浮かぶ。
そして、二人がすれ違う、ほんの一瞬。
誰にも聞こえないくらいの、ささやかな声で、こう呟いた。
「……お幸せに」
その声は、会場の心地よい喧騒に溶けて、二人の耳に届いたかどうかさえ定かではない。
彼女は、振り返ることもなく、そのまま、満足そうな顔で、雑踏の中へと消えていった。
「……」
誠は、今すれ違った女性が去っていった方を、無意識に目で追っていた。
「今の、すごく優しい笑顔でしたね」
隣で、玲二がぽつりと言った。
「……ああ。そうだな」
誠は、短く応えると、繋ごうとしていた玲二の手に、そっと指を絡めた。
二人は、もちろん、もう覚えてはいない。
彼女が、一年半以上も前のあの夜、二人の間に流れる恋の始まりの、最初の「目撃者」だったことを。
あの時、彼女が握りしめていたコーラルピンクの携帯が、彼らを地獄に突き落とすきっかけとなり、その罪悪感に、彼女自身が苛まれていたことを。
そして、今、この『真実』が証明された場所で、心からの祝福を贈れたことで、名もなき彼女自身の物語もまた、ようやく救われたのだということを。
二人は何も知らない。
ただ、通りすがりの誰かがくれた、名前のない、温かい祝福を、確かに心に感じながら、喝采が待つ、光の中へと、再び歩き始めた。
◇◆◇◆◇
個展『Truth & Proof』は、社会現象となった。
その余波は凄まじく、玲二のインスタグラムのフォロワーは、あっという間に100万の大台を突破し、彼は、名実ともに、日本で最も影響力のあるアーティストの一人になった。
そんな熱狂の日々から、数週間が過ぎた、平日の午後。
誠と玲二は、個展の会場となった、思い出の地でもある代官山の、静かなカフェで、遅いランチをとっていた。
「…誠さん、これ…」
打ち合わせを終えたばかりの玲二が、携帯に届いた一通のメールに、目を見開いたまま、画面を誠に見せた。
大手飲料メーカーからの、広告写真の依頼だった。そこに書かれていた依頼内容は、玲二を震わせた。
『モデルは起用しません。鵜鷺さんの視点で、あなたの思う、家族の“幸せな時間”を、自由に創造してください』
商品を美しく見せるための、無機質な要求ではない。アーティスト・鵜鷺玲二の「視点」そのものを、作品として求めてきてくれている。
個展で、恋人である誠の自然体の写真を通して、二人の「愛の真実」を見せたこと。それが、玲二の「アーティストとしての魂の真実」を、何よりも雄弁に証明していたのだ。企業からのタイアップ依頼は、この日から、明らかに質を変えていった。「商品をきれいに撮ってほしい」から、「あなたの視点で『物語』を撮ってほしい」という、本質的なものへと。
「ま、当然だな」
誠は、自分のことのように誇らしげで、でも、ぶっきらぼうに言った。
「俺は、最初からお前の才能を信じてたし。世間が気づくのが、ちょっと遅いくらいだろ」
「…あなたが目利きだって自慢話なら、もっと言いふらしてくれていいですよ」
玲二が、嬉しそうに、そして、少しだけ、涙声で言い返す。その、穏やかで、幸せなやり取りを遮るように、今度は、誠の携帯が、テーブルの上で震えた。
誠は、表示された、知らない番号に、怪訝な顔で応答する。
「はい、生稲です。…ええ、お世話になっております。…はい?」
最初は、ビジネスライクに相槌を打っていた誠の眉間に、みるみるうちに、深い皺が刻まれていく。
「はあ…。いえ、ですから、私は、プロデューサーでして…。モデル仕事は、お受けできません。…はい。いえ、パートナーが撮影するという形でも、お断りします。…ええ」
誠の表情から、わずかな愛想笑いが、すっと消える。声のトーンが、一段、低くなった。
「…よく、聞いてください。俺は、あの物語を**『創った』プロデューサーです。物語に『なる』**つもりは、一切ない。才能を見つけるのが、俺の仕事ですので。…失礼します」
誠は、それだけ言うと、相手の返事も待たずに、通話を切った。そして、大きな、大きなため息をつき、テーブルに突っ伏した。
玲二は、口元に笑みを浮かべながら、そんな恋人の顔を、優しく覗き込んだ。
「誠さん、お疲れ様です。また、口説かれてました?」
楽しそうに、からかう恋人に、誠は、眉間に深い皺を寄せたまま、顔を上げた。
「…全部、お前のせいだからな」
その、不機嫌なようでいて、どこにも怒りのない声に、玲二は、幸せそうに、ふわりと笑った。
「仕方ないですよ。僕のミューズが、魅力的すぎるのが、いけないんです」
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