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第21話 前夜/静かな熱意

金曜、夜。VIPプレビューツアー開始30分前。 代官山のギャラリーに併設された、殺風景なスタッフルームは、静かな、しかし、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの緊張感に満ちていた。 鏡の前に、誠と玲二が並んで立っている。その二人に向き合うのは、腕を組み、デザイナーとしての厳しい目で、ミリ単位の着こなしをチェックしている、嘉納だった。 「いいわね。上出来よ」 嘉納が、満足そうに頷く。二人が纏っているのは、この個展のスタッフ全員のために嘉納がデザインした、特別な制服だった。 一見すると、ミニマルな黒のロングジャケット。けれど、二人のために作られたそれは、ディテールが、全く異なっていた。 アーティストである玲二が着ているのは、少しだけ着丈が長く、柔らかなドレープを描く、チャコールグレーに近い黒。プロデューサーである誠が着ているのは、より短い着丈で、肩のラインが強調された、漆黒のジャケット。玲二より、誠のほうが少しだけ背が低い。けれど、嘉納が創り上げた、その絶妙なデザインバランスによって、二人が並び立つ姿は、まるで、一つの完璧な芸術作品のように、互いを補い合い、引き立て合っていた。 「これは、ただの制服じゃないわ」 嘉納が、玲二の襟元を、そっと直しながら言った。 「あんたたちが、今夜、初めて、自分たちの物語を語るための『鎧』よ。それぞれの、最高の武器を、その身に纏いなさい」 その言葉に、玲二は、ごくりと息を呑んだ。誠は、ただ、鏡の中の自分と、そして、その隣に立つ、恋人の姿を、じっと、見つめていた。 同日、夜八時。 クラウドファンディングで高額を投じてくれた、わずか二十数名を迎えて、VIPプレビューツアーは、静かに始まった。 来場者が、まず足を踏み入れるのは、深い闇。壁一面に、玲二が撮りためた、星が瞬く、静かな夜の海の映像が投影されている。それは、観る者を、一度、都会の喧騒から切り離し、物語の深淵へと誘うための、見事な序章だった。 そして、その闇を抜けた先に、三つの部屋へと続く、道が示されている。 プロデューサー・生稲誠と、アーティスト・鵜鷺玲二が、VIPツアーの参加者に挨拶をし、心を、ある一つの「真実」へと導くために、その物語の道順を、自らの声で、案内していった。 第一部:The World of "U-sagi" - 仮面と、最初の亀裂 最初の部屋は、世間が知る、完璧なインフルエンサー『U-sagi』の世界。その華やかなキャリアの最後に、一枚だけ、異質な空気を放つ写真が飾られている。『空が燃えた日』。彼の心が、初めて、そして、最も深く傷つけられた、トラウマの象徴。 けれど、その部屋の最後に、一枚だけ、異質な空気を放つ写真が、静かに飾られていた。 『空が燃えた日』。 手書きの、痛々しいほどのキャプションと共に展示されたその写真は、彼の心が、初めて、そして、最も深く傷つけられた、トラウマの象徴。来場者は、ここで、彼の完璧な仮面の裏にある、最初の「亀裂」に触れることになる。 第二部:The Noise - 噂の「真実」と、声なき「証明」 次に、来場者は、SNSの噂や憶測という「ノイズ」に満ちた世界へと導かれる。壁には、例の「惚れバレ写真」と、悪意あるコメント。でも、そのすぐ隣には、「目撃者」のファンからの、温かい手書きのメッセージ。そして、『音声ありき、の真実』のブースで、来場者は、いかに「真実」が、簡単に切り取られ、歪められていくかを、目の当たりにするのだ。 第三部:UNFILTERED - 無加工の、愛と風景 そして、最後の部屋。そこは、誠を被写体とした、あの「下書きフォルダ」の写真たちが、初めて、世に公開される、最もプライベートな空間。誠が「ストーカー」などではなく、玲二というアーティストの、唯一無二の「ミューズ」であったことを、何よりも雄弁に物語っていた。そして、その一番奥には、和解の後に撮られた、全く新しい、温かい光に満ちた、数枚の風景写真が、飾られていた。 ツアーは、熱狂的な感動の中、幕を閉じた。 玲二が、一枚の写真の前で、アーティストとして心の震えを語れば、誠が、被写体となった己の、痛々しい記憶を、静かに紐解いていく。それは、二人の魂の告白劇そのものだった。 会場の出口で、誠と玲二は、並んで立っていた。ツアーを終え、まだ、その感動の余韻に浸っている、支援者たちを、見送るためだ。 「お二人の覚悟、しかと、受け取りました」 「勇気を、ありがとう」 その、一つひとつの温かい言葉に、玲二は、「ありがとうございます」と、何度も、何度も、頭を下げた。 そして、嘉納がこの日のためだけにデザインした、展覧会のロゴが、銀糸で刺繍された、シルクのスカーフを、一人ひとりに、手渡していく。 最後の支援者を見送った後、会場には、再び、静寂が訪れた。 「…やりましたね、誠さん」 「ああ。…まだ、始まったばかりだ」 誠は、そう言うと、そっと、玲二の手を握った。明日から始まる、本当の戦い。でも、もう、怖くはない。 開催前夜の 金曜日 深夜23時過ぎ 代官山駅から少し歩いた、路地裏に佇むコンクリート打ちっぱなしのギャラリー兼イベントスペース。 夜の喧騒とは隔絶された、個展『Truth & Proof』の静かなギャラリーから、わずか数十名の招待客たちが、夢見心地のような、あるいは魂を抜き取られたような、不思議な表情で吐き出されてくる。 彼らは、クラウドファンディングで二人の物語に高額の支援を寄せ、その返礼として用意されたVIPプレビューツアーに参加した人々。今この瞬間、個展『Truth & Proof』の結末を、世界で最初に知ってしまった**「証人」**たちだ。 彼らの脳裏には、まだ玲二の声が、そして誠の声が、生々しく響いていた。 一枚の写真の前で、玲二がアーティストとして撮影時の心の震えを語れば、誠が、プロデューサーとして、そして被写体となった己の、痛々しいまでの記憶を静かに紐解いていく。 明日からの一般公開では許可される写真撮影も、この夜だけは固く禁じられていた。このツアーのためだけに、照明デザイナーの潮が創り上げた、光と影が織りなす、一夜限りの演出。それはもはや展示ではなく、二人の魂の告白劇そのものだった。 ツアーの最後に交わされた短い質疑応答と、一人ひとりに手渡されたお土産の重みが、あれが現実だったのだと教えてくれる。 誰からともなく、口々に「すごかった…」「言葉にならない…」という囁きが漏れる。それはありふれた感想の言葉でありながら、その声には、一つの巨大な感情の奔流を浴びた者だけが共有できる、特別な響きがあった。 彼らは、それぞれの足で夜の街へと散らばっていく。そして、まるで示し合わせたかのように、一人、また一人と携帯を取り出した。 指先は、まだ感動に震えている。目撃してしまった物語の重さと、胸を突き上げるような衝動。ネタバレはできない。だけど、この気持ちを、今すぐ誰かに伝えたい。話したい。聞いてほしい。 こうして、静かな熱狂は、SNSという広大な海へ、一滴、また一滴と、確かに放たれていったのだ。 ID: Megu_UsaLove(23:30) 『Truth & Proof』VIPプレビューツアー、終わりました。 まだ、指が震えてる。 ネタバレは絶対に禁止なので、何も言えません。 何も言えないけど、これだけは言わせてください。 明日、行ける人は、絶対に行って。人生観が変わるとか、そういう陳腐な言葉じゃ足りない。これは、歴史の目撃です。 #TruthAndProof ID: Tantei_Fan(23:45) 例の予告編の答え合わせ、してきた。 …完敗だよ。俺たちの考察なんて、全部、あの二人の掌の上だった。誠さんの仕掛け、恐ろしい。そして、U-sagiさんの愛は、あまりにも深い。 これはミステリーじゃない。壮絶なラブストーリーだ。傑作。 #TruthAndProof考察班 #誠さん参りました ID: creator_K(23:52) 同業者として嫉妬すら覚える。空間演出、照明、展示構成…全てが一級品。生稲誠というプロデューサーの才能は本物だ。そして、U-sagiというアーティストの、剥き出しの魂に、ただただ打ちのめされた。写真は、ここまで雄弁になれるのか。 #TruthAndProof ID: Witness_Rina(0:15) 1年半前、私が撮った一枚の写真の、本当の物語を、今日やっと知ることができました。 誠さん、U-sagiさん、ありがとう。 あなたたちの真実を見せてくれて、本当に、本当にありがとう。 今、涙が止まりません。 #うさマコの真実を見届けた タイムラインは、騒然となった。 ネタバレは一切ない。それなのに、VIPツアーに参加した全員が、判で押したように「泣いた」「最高だった」「言葉にならない」とだけ報告している。その異様なまでの一体感が、逆に人々の好奇心を煽りに煽った。 『一体、会場の中で何があったの!?』 『なんで? みんな泣いてる!? 』 『チケット、明日の朝一で絶対取る!』 日付が変わった、午前0時。 個展の公式サイトが、一時的にサーバーダウンした。週末のチケット予約サイトに、アクセスが殺到したためだった。 まだ、本当の幕は上がってさえいない。 でも、この物語が「社会現象」になることは、もはや誰の目にも明らかだった。

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