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第20話 設営

時刻は、深夜2時を回ろうとしていた。 イベントイベント会社コネクトプロダクションズのミーティングルームには、飲み干されたコーヒーの紙コップと、膨大な資料が散乱している。その中心で、三人の男たちが一枚の設計図を睨みつけていた。 プロデューサーの誠。彼の幼馴染で、照明デザイナーの潮。そして、アーティストである、玲二だ。 「……ここの光は、ただ明るくするだけじゃダメなんです」 最初に口を開いたのは、自分の作品が配置されるエリアを、真剣な眼差しで見つめていた玲二だった。彼が指しているのは、トラウマの象徴である、あの『空が燃えた日』の写真。 「冷たい絶望の底から、一筋の希望の光が差し込んでくるような…うまく言えないけど、そういう『物語』を光で感じさせたい。できますか?」 その、アーティストならではの抽象的で、感情的なリクエストに、照明のプロである潮が腕を組んで唸った。 「『物語』、か……。玲二さんの気持ちはわかる。だけど、それを照明で表現するのは、正直、かなりコストがかかる。誠、この予算じゃ、特殊なムービングライトは入れられないぞ」 「わかってる」 誠は、恋人の熱い想いと、親友の現実的な意見の板挟みになりながら、静かに答えた。玲二が不安そうな顔で誠を見る。 「誠さん……。やっぱり、無理なお願い、ですよね…」 「いや」 誠は潮の方を向くと、ニヤリと笑った。 「おい潮。無理だって言うなよ。お前、昔からそうやって、俺の無茶振りをなんだかんだで形にしてきただろ」 「はあ? なんだよ、いきなり」 「覚えてるか? 小学生の時の秘密基地。俺が『天井から星が見たい』って言ったら、お前、文句言いながら、黒い画用紙に無数の穴開けて、裏から懐中電灯で照らして、プラネタリウムみてえなもん作ってくれたじゃねえか」 「…そんな昔の話、よく覚えてんな。あれは、お前の設計図がデタラメだったから、俺がなんとかするしかなかっただけだろ」 ぶっきらぼうに言う潮の顔は、少しだけ嬉しそうだ。 二人のやり取りを、玲二は少し驚いたように、そして愛おしそうに見つめている。自分の知らない、誠の顔。彼の歴史。 誠は、玲二に向き直った。その瞳は、プロデューサーとしての自信に満ちていた。 「大丈夫だ、玲二。お前の『物語』を、必ず最高の光で表現してやる」 彼は、再び設計図に視線を落とした。 「潮。プロジェクターは必要ない。床置きの小型LEDを、この写真の周りだけ追加で設置する。そして、人感センサーと連動させるんだ。観客がこの写真に近づいたら、最初は足元だけを照らす、冷たくて細い青い光が点灯する。それが絶望だ」 「ほう」 「そして、観客が写真の真ん前に立った瞬間、全ての光が、写真全体を包み込むような、暖かいオレンジの光に一斉に切り替わる。…これなら、最小限の機材と電力で、『希望への変化』をドラマチックに演出できる。どうだ?」 そのアイデアに、潮は目を見開いた。そして、やがて「…ったく」と頭を掻く。 「お前、昔からそういうとこだけは、頭回るよな。…いいぜ、やってやろうじゃねえか。最高の『プラネタリウム』をな」 「!……本当ですか!?」 玲二の顔が、パッと輝く。 彼は、尊敬と愛情に満ちた目で、自分の恋人を見つめた。 プロデューサーとしての誠。アーティストとしての玲二。そして、二人を繋ぎ、技術で支える親友の潮。 最高のチームが、個展の成功させると、確信した夜だった。 ◇◆◇◆◇ 個展のオープンを一週間後に控えた、深夜。 代官山の会場となる建物内では設営作業が続いていた。工具の音と、スタッフたちの活気に満ちている。その喧騒から少し離れた場所で、誠は一人、携帯を耳に当て、苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。 「…いや、話が違う。契約では、今日の最終便で納品されるはずだったろ」 「……」 「今から再発注だと? ふざけるな、もう時間がないんだぞ!」 電話の相手は、個展の入り口を飾る、特注のメインパネルを製作している業者だった。資材トラブルで、納品が絶望的に遅れるという、最悪の連絡。誠は、ギリギリまで冷静さを保とうと努めていたが、その声には隠しきれない焦りが滲んでいた。 電話を切り、天を仰いで、深く、重いため息をつく。 入り口は、いわば個展の「顔」だ。 そこが、無骨な仮設の壁のままでは、来場者を迎えることなどできない。どうする。代わりの業者を探す時間も、もうない。プロデューサーとして、最大のピンチだった。 だらりと机に突っ伏するように腰を下ろし、頭を抱える誠の背中に、静かな声がかけられた。 「誠さん、あの壁…」 振り返ると、自分の写真のプリントをチェックしていたはずの玲二が、いつの間にか隣に立っていた。彼の視線は、誠ではなく、問題となっている入り口の、がらんとした壁に向けられている。その目は、心配する恋人のものではなく、被写体と対峙する、アーティストの目だった。 「もし、あの壁が、壁じゃなくなるとしたら?」 「……どういう意味だ?」 戸惑う誠に、玲二は、確信に満ちた声で言った。 「あの壁、いっそ、全部、黒いベルベットの布で覆ってしまうんです。そして、僕が撮りためた、夜の海の映像を、床から天井まで、プロジェクターで投影するのはどうでしょう」 「……!」 「入り口を抜けた瞬間、来場者の目の前に広がるのが、ただの壁じゃない。静かに波が寄せ、星が瞬く、無限の夜の海。観る人はまず、僕たちが見てきた『静かな夜』の中に一度沈み込んで…そこから、光に満ちた写真の世界へと歩き出すんです。東京って市の名前にも掛け合わせてあって、きっと好意的に受け入れられると思うんです」 玲二は、誠の目をまっすぐに見つめた。 「絶望から、希望へ。展示全体の、完璧な序章になると思いませんか?」 それは、感情的な慰めではなかった。 トラブルを逆手に取り、物語の導入として、より高次元の演出へと昇華させる、一人のアーティストとしての、完璧な代替案。 誠は、呆然と、目の前の恋人を見ていた。 弱くて、臆病で、守ってやらなければと思っていたこの男は、もういない。 そこにいたのは、自分の才能を信じ、共に戦う覚悟を持った、対等なパートナーだった。 やがて、誠の口元に、驚きと、感嘆と、そしてどうしようもないほどの愛しさが入り混じった、深い笑みが浮かんだ。 「……お前…」 誠は、立ち上がると、玲二の頭を、少し乱暴だけど、この上なく優しくかき混ぜた。 「最高かよ」 「ちょっと、髪が乱れます。やめてくださいよ」 「いいじゃねえか。またセットすれば」 「そんなことすると、抱きしめますよ」 玲二は、言うが早いか、誠の体に腕を回した。誠は、観念したように、でもどこか嬉しそうに、その肩に顎を乗せる。 「俺たちの、サイコーを見せつけてやろうぜ。玲二」 「ええ。…これで、あなたの最高傑作イベントは、『KANO』のローンチパーティーーじゃなくて、僕の個展になるんだ」 ぴたり、と誠の動きが止まった。 「お前…」 玲二は、そんな誠の背中に、さらに強く腕を回しながら、長らく胸の奥に秘めていた、本当の想いを告白した。 「ずっと、嫉妬してたんです。三年前、あなたに初めて会った、あの夜から。なんで、この人の創る世界の代表作が、僕じゃないんだって。…あなた、知らなかったでしょう」 誠は、ゆっくりと玲二の体から離れると、その両肩を掴んだ。驚きに見開かれた瞳で、目の前の恋人を見つめる。 (…嫉妬? こいつ、そんなことを、ずっと…?) 脳裏に蘇るのは、三年前の、あの華やかな夜。 世間では、いまだに俺の代表作だと評価される、ファッションブランド『KANO』のローンチパーティー。 皮肉なことに、玲二がマクロインフルエンサーとして、世に広く知られるきっかけになったイベントでもあった。 でも、誠にとって、あの日の本当の意味は、たった一つしかない。 ――玲二に、出会えた日。 ただの仕事の成功譚(サクセスストーリー)に、温かい血が通った、唯一無二の記憶。それだけだ。 それなのに、この男は。俺の過去の栄光にさえ焦がれるほど、俺の「一番」になりたいと、あの夜からずっと、願い続けていてくれたというのか。 込み上げてくるのは、愛しさだけだった。 誠は、たまらないというように、一度、強く玲二を抱きしめた。そして、再び向き直ると、悪戯っぽく、だけど、生涯を懸けた誓いを込めた、真剣な顔で言った。 「…上等だ。見てろ、玲二」 「え…」 「お前のこの個展を、俺の、いや…俺たちの、生涯最高の代表作にしてやる。嘉納のパーティーなんか、誰も思い出せなくなるくらい、完璧なやつをな」 その力強い宣言に、玲二の瞳が潤む。 誠は、そんな恋人の涙を指でそっと拭うと、どちらからともなく、深く、優しいキスを交わした。 長いキスの後、誠は、名残惜しそうに唇を離した。 でも、その瞳はもはや甘い恋人のものではなく、目標を完全にロックオンした、百戦錬磨のプロデューサーの鋭い光を宿していた。 彼は、すぐさま親友の潮に電話をかける。その背中は、再び、この逆襲劇の全てを率いる、頼もしい司令塔のものに戻っていた。 玲二は、そんな誠の背中を、静かな、そして誇らしげな笑顔で見つめていた。 この人の隣に立つために。自分は、もっと、強くなる。 心の中で、そう、固く誓いながら。

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