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第1話
「ルキ君お疲れさま。今日も綺麗だったよ」
「お疲れ様ですぅ! 相変わらずお世辞が上手いんだからぁ。有難うございましたっ」
親指を立て爽やかに笑うカメラマンは満足そうで、少し擽ったくも感じる誉め言葉も悪い気はしない。上機嫌さが周囲に伝わるような満面の笑みを努めて返すと、その場の雰囲気も華やかなものへと一変した。
身長は178センチで、体重は60キロ前後の25才。細身で手足が長く、透き通るような白い肌は化粧映えも抜群と定評あり。肩に掛かる長さの金髪は柔らかめで、お人形さんの様だと表現されがちな整った顔立ちは勿論自覚していない訳もなく、自信満々な横顔と佇まいはすれ違う人の目を釘付けにする。
テレビでも街中でも目にしない日は無い。三歩歩けばルキがいる。大袈裟にも聞こえるキャッチフレーズが出てくる程、ジェンダーレスモデルのルキは人気絶頂中だった。
ルキというのは芸名で、本名は草薙流生(くさなぎ るき)。名前をカタカナに変えただけの為、芸名で呼ばれる事には最初から違和感も抵抗もなかった。
ヒールの高い靴で歩く大変さを思い返すと自然と吐息が零れ、それを誤魔化すように無造作に分けられた前髪を手指でかき上げる。
なんであんな歩きづらい靴を好んで履くんだろう。あぁ、爪先が痛い。
艶のある金髪がさらりと流れるように耳元へと落ち、肩に触れる髪を指先で絡めとり弄っていると視界に大切な人の姿が映る。
疲労で落ちかけていた気分が途端に上昇し、口角の緩みを感じた。
「竹内さぁんっ!」
ファインダー越しに魅惑的な笑みを浮かべ、きっと格好良いであろうポーズをとり続けたみんなの王子様を演じる時間は終わった。やっとそう心から思える瞬間で、自然と唇が弧を描く。
「ルキ君、撮影お疲れ様でした。耳にタコでしょうが、今日もとても綺麗でしたよ」
「お疲れ様です! その台詞さっきカメラマンさんにも言われたんですけど、竹内さんに言われると、…、百倍嬉しい、です」
頬の火照りを感じ、意図せず言葉尻が小さくなってしまった。
流生がつい照れ笑いを浮かべてしまうこの男性の正体はマネージャーの竹内で、ルキがデビューしてからずっと面倒を見てもらっている。
竹内は常に冷静沈着で誠実。流生より五センチ程高いスラッとした体格でスーツを着こなしていて、温和な笑みを浮かべるとシンプルな銀縁眼鏡を手指で押し上げた。
竹内の年齢を聞いた事は無いけれど、年上でとても頼りになる欠かせない存在だ。
そんな竹内の顔が見られただけで、疲れが吹き飛ぶくらい嬉しい。気持ちが先立ってしまい、竹内の肩と触れ合う距離に流生が身体を寄せるが竹内に避ける素振りは無い。
竹内の柔和な笑みは変わらず、いつもの様に他愛もない雑談の時間を楽しみながら控室へと向かった。
人目を気にせずこんな風にしているものだから、流生と竹内は何度かゴシップ誌に取り上げられた事もある。
その度に事務所から注意を受け、真摯に謝罪をする竹内に申し訳ないと思いながら、流生も頭を下げた。
二人の間に恋愛感情は無いと事務所が発表し、流生も「ただのモデルとマネージャーの関係です」と、訊かれる度に人懐っこい笑顔で対応をしてはいるが、何度も目撃されているものだから説得力なんて無い。
さらに初回からマスコミには目を付けられていたものだから、当事者と事務所が何を発表したところで、結局は何も信じては貰えなかっただろうと思う。
そんなわけで最終的には事務所の力が発動し、ルキと竹内の恋人説は闇の中へと消え去り今に至っていた。
流生の所属する事務所は所謂大手で、社長を筆頭に上層部の力がとても強いと業界でも有名だ。
だからこそ社長の一番のお気に入りであるルキのスキャンダルが見過ごされる事は無く、何度もやらかしているにも関わらず助けられていた。
控室の前まで着くと竹内がドアを開けてくれ、流生はエスコートされて中へと入る。
二人が控室に入るとドアの静かに閉まる音に続き、ガチャリと鍵の閉まる無機質な音が部屋に響いた。
竹内が鍵を閉めてくれたのだと察し、二人だけとなった空間で脱力する。
「竹内さん…」
流生が甘えた声色で呟くように名前を呼ぶと、竹内の大きな手が背中に触れてきた。
「ルキ君、今日も頑張りましたね」
やっと二人きりになれた。
吐いた息を震わせながら流生が頷くと、竹内は優しく抱き寄せてくれる。肩口に顔を埋めると竹内の匂いが鼻孔を擽り、感情を抑えきれずに頬擦りをしていた。
竹内は動じる事無く受け止めてくれて、よしよしと背中を擦ってくれる。
僅かに震えた弱々しい声で流生が何度も竹内の名前を呼んでも、その度に竹内は「どうしました?」と、穏やかに低く囁きながら背中を優しく撫で上げてくれた。
竹内から伝わってくる体温が心地良く、聞こえてくる心音は流生の気持ちを落ち着かせてくれる。
ずっと緊張しっぱなしだったから、こうさせてもらえる事が本当に癒しだった。
「竹内さん、いつも、…ごめんなさい」
でも、ずっとこうしてはいられない。
それは十分理解していて、名残惜しさから蚊の鳴く様な声になってしまいながらも身体を離した。
これがルキの素の姿だった。
左右に忙しなく揺れてしまう瞳は余裕のなさの表れで、明るくて自身に満ちた笑顔も天真爛漫さの欠片も無い。
今だって竹内に頬釣りをしてしまった自分の大胆さに赤面してしまって、顔を上げる事が出来ない位だ。
流生であって、ルキじゃないのだから仕方が無い。けれど、それを理解している人はほんの一握りで、今が流生の素でいられる貴重な休憩時間だった。
「いえ、私はルキ君に頼ってもらえて嬉しいですよ。無理だけはしないで下さいね」
竹内の柔和な物腰と穏やかな声に、何度助けられたかわからない。
流生がおずおずと上目遣いで見上げると、竹内は目を細めて笑みを返してくれた。
「…、ぁ、ありがとうございます」
つい視線を逸らしてしまったが、なんとか言葉を発すると頭を撫でられた。
竹内の優しい手の感触で胸が熱くなる。
流生の目元が僅かに赤く染まると唇が自然と弧を描いていて、堪えきれずに笑みが零れてしまった。
沈黙が全く息苦しくなくて、辛くない。
流生がそう思える人はルキの設定を熟知している人の中でも竹内しかいなくて、心から信頼しているのも竹内だけだった。
ふとした瞬間、竹内の左手薬指に光る指輪を見て落ち込むけれど、幸せだった。
指輪の存在で現実に引き戻され、伝えなければいけない事を思い出して口を開く。
「ぁ、あの、竹内さん。香水が…、そろそろ終わってしまいそうで…、その」
「はい、そろそろそういう時期かと思いまして、社長から新しい物を預かっておりますので安心して下さい。…それと、新しい仕事が入りまして…、お茶でも飲みながら、お話させて戴いてもよろしいですか?」
香水は一人暮らしをしている部屋から外に出る時には必須の代物な為、竹内の機転には大助かりだった。
だが、香水の話に続いた竹内の、どこか歯切れの悪さがどうにも気になる。
「仕事の話はいつでも構いませんけど…」
流生が途中まで言ってチラリと竹内の顔を覗き見ると、目が合うや否や片眉を下げ困惑気味に苦笑を浮かべた。
竹内さんのこの顔、嫌な予感しかしない。
そんな想像が容易にでき、流生も釣られる様に顔を強張らせながら笑うと、控室中央にあるテーブルに促される事となった。
二人掛けソファに流生が腰を下ろすと、竹内がお茶を淹れてくれた。
竹内は流生の傍に姿勢良く立ち、黒くて分厚い手帳を広げる。竹内の形の良い唇が薄く開き、流生の顔色を窺うような視線に嫌な予感を抑え込むと話を聞く姿勢を作る。
「あの…、話って」
なんとも言いづらそうな竹内の仕草に話を聞きたくない気持ちもあったが、ここで流生が話を聞かなくて困るのは当然竹内だ。
竹内を困らせる事だけはしたくない。絶対に。
だから、意を決して口を開いた。
「あの、…僕なら、平気です。…、今日も、上手く出来ましたし、…香水と抑制剤さえあれば、僕は、ルキに…、なれます」
特別な香水と抑制剤がある事で、流生はルキになっていた。逆に言うと、この二つが無ければルキは存在しない。
というのも、アルファ、オメガ、ベータの存在するこの世界で、流生はオメガで、ルキの設定はアルファだからだ。
本来オメガである流生がルキという作られた存在を演じる為には、オメガである事を絶対に悟られてはいけないのだ。
これに一役買っているのがついさっきも話に出ている香水で、特別に調合されたこれは、オメガのフェロモンを完全に中和する成分が入っている。
ルキがイメージキャラクタ―を努めるブランドから発売されている香水。それをルキが付けている事に疑問を持つ人は居ない。
ユニセックスで爽やかな香りの中に程よい甘さも含まれていて、ルキのイメージにもぴったり。販促効果も期待できるという事で、 当初の匂いを邪魔しない中和剤を密かに使用するという案が消えて以来使用していた。
実際、隠れて使用しなくても良い点は流生のストレス軽減にも大いに貢献している。
勿論世間に出回っている香水にそんな効果は無く、流生の物だけが流生のフェロモンをベースに調合された特別仕様となっていた。
その為、仮に流生の香水を他人が使ったところで変化は得られず、勘付かれる事も無いというのだから発案者には頭が下がる。
抑制剤は数ヵ月に一度くるオメガのヒートを抑える必需品として、事務所から仕事の一環として服用を義務付けられている。一般的な物ではあるが、流生が自ら購入するわけにもいかない為、定期的に配布されていた。
それと困った事に流生のヒート周期は不順で、そのせいか発情症状がかなり強く出てしまう。抑制剤をもってしても、完全に抑え込む事が出来ていないのが現状だった。
ヒート中の欲に支配された自分は性に貪欲で、その時の事は思い出したくもない。
けれど、症状が強く出る数日間は部屋に一人で缶詰めにさせられるから、ヒートが待ち遠しい気持ちも少しだけあったりする。
ともかくこうして中性的な魅力が人気で天真爛漫で社交的、言いたい事はなんでも言える『ルキ』というキャラクターが作られているのだ。
何故アルファにする必要があるのかは社長が決めた事で流生には知る由もないが、恐らくオメガらしからぬ気の強そうな見た目のせいだろう、と勝手に理解している。
普段の自分の性格と真逆のルキを演じる事に苦痛を感じない日は無いけれど、自分がルキでいる限りはマネージャーである竹内が傍にいてくれるから、頑張れていた。
竹内の存在は、それ位流生にとって大きいものだった。
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