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カラダ 1
(ぼくの気持ちは、ネロがくれる気持ちとは違うのかもしれない)
そう気づいたのは、二人がまだ、ちいさな巣穴で暮らしていた頃。
書庫の整理に出かけた帰り道。
シェルは襲われた。
背後から腕を掴まれて、「あっ」と叫んだ口を押さえつけられて、背の高い海藻の茂みに引きずりこまれ、砂のうえに無理やり押し倒されていた。
シェルにのしかかっているのは、ダリオだった。
夕陽のように赤い尾びれの、いじめっ子。
(ぼくがこの海で、いちばん大っ嫌いな人魚)
これまでも時々、ダリオに絡まれたことはあった。
でも隣にはいつも、ネロがいてくれた。
シェルの尾びれやポシェットを引っぱってやろうといじめっ子たちが腕をのばした瞬間、ネロが牙を剥いてにらみつけて、波のむこうへ追い払ってくれた。
でも、ここにネロはいない。
(ぼくがひとりになるのを狙ってたんだ)
背びれがピリピリ逆立った。
ダリオの様子は、おかしかった。
いつものヘラヘラした取り巻きたちは見当たらなくて、彼ひとりだけ。
もがいているシェルを砂に押しつけて、逃がさないよう自分の身体で押さえこんで、じっとシェルを見下ろしている。
思いつめた目で。
焦ったような暗い炎が、金色の瞳にくすぶっていた。
何かが欲しくて、苦しくて、でもどうすれば手に入るのかわからない、そんな目。
(どうして)
つい、もがく腕がとまった。
ダリオの表情が、いまにも砕けて、粉々になってしまいそうだったから。
いつでも王冠みたいな金髪を波にそよがせて、あんなに偉そうで、自信たっぷりで、意地悪で。そのくせ不思議な気高さで、他の子どもたちを従わせずにはおかないのに。
(どうして、そっちが泣きそうなの)
シェルの抵抗がゆるんだその一瞬を、ダリオは見逃さなかった。
金色の目がギラッと光って、重たい身体がのしかかってきた。
赤い尾びれをシェルの尾びれにこすりつけて、シェルの唇に噛みつくように、厚い唇を重ねてくる。
「やっ……」
びっくりして、恐ろしくて。
押さえつけてくるダリオの手をふり払って、ダリオの胸を思いっきり突き飛ばして逃げようとした、その瞬間。
『騒ぐな』
耳元で響いた声に、ドキッとした。
奇妙な声だった。
洞窟の奥から聞こえてくるように反響していて。怒鳴ったわけではないのに、その声が頭いっぱいに鳴り響いて、背びれが震えた。冷たい手で心臓をわし掴みにされているみたいで、身体の内側から魂を引きずり出されそうだった。
もっと奇妙なことに、それはダリオの声だった。
ダリオの唇はまだ、シェルの唇を無理やりふさいでいるのに。
(なにが……おこってるの……?)
わからない。
怖い。
本能が逃げろと叫んでいる。
なのに、どうしようもなく惹きつけれられる。
もっと聞きたい。
この声に従ったら、どんなに心地いいんだろう……
混乱しているシェルの耳に、またその声が響いた。
『動くな。おとなしくしろ』
その命令が耳元で響いたとたん、ピタッと身体が動かなくなった。
頭から尾びれの先まで、太いロープでがんじがらめにされたみたいに。
(やだっ、動けっ……)
力を入れようとしても、小指の先すら動かせない。
ダリオが唇をはなして、顔をあげた。
見開いた大きな目に涙をうかべ、抵抗できずに横たわっているシェルを、じっと見下ろして。その顔に、少し驚いた、でも満足そうな笑みがひろがっていく。
波にそよぐ金髪の下で暗い目がギラッと光った。次の瞬間、ダリオがシェルの首筋に顔をうずめ、やわらかい肌に噛みついた。
「ぁ……っ!」
シェルがあげた絶叫はかすれて弱々しくて、だれにも届かないまま、吐き出したちいさな泡とともに波にかき消えてしまった。でも、おかげで奇妙な声の呪縛がとけた。
(動ける……!)
がむしゃらにもがいた。
尾びれをめちゃくちゃにくねらせて、ダリオの腕を、背中を、手あたり次第に引っ搔いた。泣きながらもがくシェルをダリオがますます強く砂におさえつけて、しつこく尾びれをこすりつけて、唇を重ねてくる。唇のすきまから熱い舌を挿しこんできたから、その舌を思いっきり噛んでやった。
「ギャッ」
ダリオがのけぞった隙に、その身体を渾身の力で押しのけて、シェルは尾びれを蹴った。巣穴にむかって、ちぎれるくらい尾びれを動かした。ダリオは追いかけてこなかった。
巣穴に逃げ帰って、ネロの胸に飛びこんで、泣きながら縋りついて。
シェルは気づいてしまった。
ダリオが尾びれをこすりつけてきた意味に。
ダリオと同じ気持ちを、自分がネロに抱いていることに。
(ぼく……ネロの腕のなかは、イヤじゃない)
胸も、手も、ダリオのはあんなに気持ちが悪かったのに。
ネロのなら、心地がいい。心配そうに覗きこんでくるネロを見あげて、その唇に目が吸い寄せられた。
青い、つややかな唇。
ぱっくりひらいてよく笑う、大きな口。
小魚ぐらいはペロッと丸呑みにして、巨大な魚だって気にせずガブガブ齧りつく。食べおえたあとに長い舌で、ゆっくり、満足そうに、唇を舐める癖。
重なってきた唇が、ネロの唇だったら。
(……ぼくはきっと、拒まなかった)
こんな汚い気持ちを抱いているのに。
ネロはシェルに無邪気に微笑んでくれる。
(家族だと思っているから)
ぼくのことを。
最低なことをしている。
こんな、ネロを騙すみたいなこと。
でも、ネロと離れたくない。そばにいたい。たとえ、いつかはこの気持ちがバレて、嫌われるとしても。もう少しだけ。きょうだいでも、親友でもいい。ただ、ネロのそばにいたかった。
だから。
――――終わりにしよう。
そう、ネロの口から言われたとき。
シェルは、なにも言えなくなった。
(バカみたい、たくさん本を読んでいるくせに)
必要なときに、ぼくの口からは言葉がでない。
言葉のかわりに溢れ出してくるのはみじめな涙ばかりで。耐えきれなくてシェルはその場から泳ぎ去った。ネロの手をふりきって、さよならも言わずに。
(ぼくは、逃げたんだ)
もう二度と会えなくなることが、わかっていたのに。
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