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カラダ 2

 シェルが逃げこんだのは、書庫にしている岩穴だった。  あの真っ白な洞穴はネロとのケンカの発端になったと思ったら見るのも嫌だったし、ふたりで暮らしていた古い巣穴には、思い出が多すぎたから。  岩穴のなかは陰気で、ゴチャゴチャしていて、せま苦しかった。  おばあさまとふたりで暮らしていた頃は、あんなに広く見えたのに。  あふれかえったガラクタの山があっちにもこっちにも積みあがって、床が見えない。  部屋の隅の、本棚と窓のあいだの隙間にもぐりこんで、散らかっているものを押しのけて無理やり場所をつくって、シェルは尾びれを抱えて丸くなった。  どくどく血を流す魂を抱え、叫ぶように泣いた。  夜になっても朝がきても泣きつづけて、疲れ果てて、悪夢の底へ沈んでいった。    そうやって、時が流れていった。  薄暗い岩穴の隅で丸くなっているシェルの頭上を素通りして、いつまでもぐずぐず泣いているシェルを置き去りにして、数えきれない季節が過ぎていった。    ある日、シェルは違和感に気づいた。  久しぶりに、岩穴から出てきた時のこと。  すれ違うたびに、人魚たちがシェルをふり返った。   ギョッとしたような、怪訝そうな顔で。何人も。  イヤな気持ちになって、首をかしげて、シェルは気がついた。 (……だからだ。僕が)  今までは、となりにネロがいた。  ネロが守ってくれていた。  ネロと笑いあっていれば、他の人魚の目なんて気にならなかった。だから、すっかり忘れていたんだ。 (これが、当然の反応だって)  いつの間にか、まともな人魚になれた気でいた。  全部、ネロのおかげだったのに。   ――おまえは、何をやらせても駄目ねぇ。  頭の中で冷たい声が、いつものため息をついた。 ――誰に似たんだか。本当に、みっともない子。   「ごめんなさい、おばあさま」  鼻の奥がツンとして、あふれそうになる涙を手のひらで乱暴にぬぐった。  思い上がってたんだ。   僕はバカで、鈍臭くて、何ひとつ満足にできないデキソコナイなのに。  うつむいて、だれとも目を合わせないようにして、ささっと畑の海藻の世話をして帰ってきて。  そこでシェルは眉をひそめた。 「なに、この匂い……」  岩穴から、奇妙な匂いがもれている。  甘ったるい、頭の芯がくらくらするような匂い。みんなが僕を見てたのは、このせい?  岩穴を隅から隅まで見てまわって、その甘い匂いの出どころが、どうやら自分の身体らしいとシェルは気づいた。 (僕、死ぬのかな)  最初によぎったのはそれだった。   (いいや、それでも)  そう思った。  昔から、海はきらいだったから。   ――どうして人魚になんか、生まれたんだろう。  岩穴の奥で丸くなって。  広場の岩陰でうずくまって。  シェルはずっと、自分の尾びれを呪っていた。  ちいさくて、弱くて。みっともない、灰色の尾びれ。  一緒に泳ぎはじめても、他の子たちにどんどん追いぬかれて、いつもシェルだけおいていかれる。  頭上でかがやいている海面へみんなみたいに遊びに行きたいのに、すこし泳いだだけでヘトヘトになって、息が切れて、泳ぐのをあきらめてしまう。  面白い話だってできないし、頭が真っ白になって何も言えずに泣きだして、いつもみんなをウンザリさせる。  シェルはすぐに、だれにも相手にされなくなった。  楽しそうに遊んでいる子どもたちの輪にシェルの居場所はなかった。どの子の目にもシェルの姿は映らないみたいだった。そんなシェルに、おばあさまも失望したらしい。シェルがそばにいると、ため息ばかりで、不機嫌そうだった。   ――ぼくにも、足があればよかったのに。  陸は恐ろしい場所だと、みんな言う。  だけど陸になら、ぼくの居場所があるかもしれない。本当のぼくは、ニンゲンなんだ。  そう思い込まないと、押し潰されてしまいそうだった。  あの歌の人魚みたいになれたら。   そしたらぼくは、なんだって差し出すのに…… (ネロがいたから)    ずっときらいだった海を、シェルは好きになれた。  ネロが引っぱりだしてくれたから。  あの暗い岩陰から。  青黒い髪を波にゆらして、手をさしのべて、強く光るガーネットの目でまっすぐシェルを見つめて。  ネロだけだった。  ちゃんと、シェルを見てくれたのは。おばあさまでさえ目をそむける、どうしようもないシェルのことを。  シェルがすぐに泣きだしても、疲れて泳げなくなっても、ネロはそばにいてくれた。  シェルの手を引っぱって、ぐんぐん波を切って、まぶしい海面へシェルをつれていってくれた。 (もう、ネロはいないんだ)    僕がこの海で生きていたい理由は、永遠にいなくなってしまった。    それでも書庫を調べてみたのは、単純な好奇心からだった。  積もった砂をはらって、棚にならんだ貝殻の記憶を、ひとつひとつ、堀り起こしていく。  人魚は文字を使わない。  短い言葉を書き残したりはするけれど、ページを一枚一枚めくっていく分厚い本は、ほとんどが陸のもの。シェルがよく陸の本を読んでいたのは、ページをめくる瞬間がたまらなくワクワクするからだ。  海の知識の大半は、貝殻に詰まっている。  役目をおえて空っぽになった貝殻が長いあいだ波にゆられるうちに、たくさんの知識が染みこんで蓄積していく。貝殻にふれ、耳にあててその知識を聞くのが、人魚の読書。  歌になって流れこんでくる膨大な知識のなかに、シェルはとうとう、探していた情報を見つけた。    変わる人魚が、発する匂い。  異性を惹きつけて、変わったことをアピールする。  目的を――交尾を、果たすための匂い。  目の前が真っ暗になった。  そういう人魚がいるのは、たしかに聞いたことがある。 (だけど)  それは個体数が激減したときだけ。種族を守るために古い時代の人魚たちが持っていた特別な能力。平和な時代には必要ない。 (じゃあ、なんのために?)  なんのために僕は、メスになるの?  僕が心からつがいになりたいと思える、たったひとりの人魚とは、もう二度と逢うことはないのに?  頬をつたった涙が、コロコロと床を転がっていった。  自分自身に否定された気がした。  オスとして生きてきたこと。  ネロと過ごした、しあわせな日々。   「……海は、きらいだ」  この海は不公平で、残酷だ。  人魚なんて、いくらでもいるじゃないか。  どうして僕なの?  僕から言葉を奪って、ネロを奪って、生きる気力まで奪っておいて、これ以上まだ奪うっていうの?  窓のむこうに遠くかがやく海面をにらみつけて、ずるずると床にうずくまった。  鼻孔をかすめた甘い匂いが許せなくて、自分の尾びれに噛みついた。 「こんな、こんなカラダ……っ!」  いますぐ泡になってしまえばいい。  ぐちゃぐちゃに溶けて、波にさらわれて、跡形もなく消えてしまえ!  何度も、何度も。  泣き叫びながら。  ウロコが剥げて血がにじんでも、自分の尾びれを傷つけた。          

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