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カラダ 3
満月が近づくにつれ、甘い匂いはますます強くなっていった。
岩穴いっぱいに匂いがこもって、吐き気がする。
甘ったるい水は粘り気をもって、肌に、ウロコに、重く絡みついてくる。
(これは、オスを狂わせる匂い)
狂わせて、がんじがらめにして、交尾を果たすまで絶対に逃がさないために。
背びれが震えた。
恐ろしくて、気持ち悪くて、今すぐ岩穴を飛び出して逃げたかった。
でも、どこへ?
「……大丈夫」
満月さえ、乗りきれば。
夜が明けるまで、大人しくしていれば。この岩穴の奥で。
シェルは入り口をぴったり閉ざして、本棚の奥の、せまい隙間で丸くなった。
熱っぽくて、身体がだるい。頭がぼんやりする。床の冷たい砂が心地よかった。そのままウトウトして、目をつぶった。
――ドンドンッ!
ものすごい音がして、シェルは飛び起きた。
岩穴のなかは真っ暗。
すっかり夜になっている。
入り口をふさいだ本棚を、外側からだれかが乱暴に殴りつけていた。
床に丸くなったまま息をひそめて入り口を凝視しているシェルの目の前で、本棚がものすごい音をたてて内側に倒れこんできた。もうもうと上がる砂煙のなか、誰かが入ってくる。そいつが、床にへばりついて凍りついているシェルを見た。
身体の大きな、オスの人魚。
砂煙のむこうにゆれている、夕陽みたいに赤い尾びれ――
床から飛び起きて、窓にしがみついていた。
背後でシェルを呼ぶ怒声を無視して、ちいさな窓を無理やりくぐりぬけて、岩穴の外へ逃げ出した。外にもすでに、たくさんの人魚たちが集まっていた。
(オスだ、みんな……)
窓から飛び出してきたシェルを見たとたん、全員、目の色が変わった。
襲いかかってくる彼らに、恐ろしくて、動けなくて、叫ぶこともできず凍りついていたら。シェルを捕まえようとのびてくるたくさんの腕を、誰かが尾びれではじき返した。
赤いウロコ。
同じ色の背びれがゆれる、大きな背中。
「コイツは俺のだ! 手を出すなよ!」
聞き覚えのある声が怒鳴っている。
(ちがう! 知らない!)
震える尾びれでむりやり水を蹴って、シェルは逃げるように泳ぎ出した。
赤い尾びれのオスもついてくる。ぴったりシェルの背後に寄り添って、追いすがってくるオスたちの群れを追い払いながら。……つがいを守るみたいに。
「ついてくるなっ!」
僕は、ならない。
ダリオのつがいにも、他のオスのつがいにも、絶対に。
シェルの貧弱な尾びれでは、ふり切ることなんて到底できない。
泳ぎ疲れて、テーブルのように平らなサンゴの上に、シェルはぐったり崩れ落ちて咳きこんだ。
情けなくて、悔しくて、サンゴのうえを涙の粒が転がっていった。
(やっぱり僕は、ダメな人魚だ)
何もできない。
ひとりじゃ、自分のことすら守れない。
おばあさまが正しかった。
(どうして僕は、こんなにっ……)
うつむいているシェルの頭上で波がゆれた。
ゆっくり近づいてきたダリオが、満足そうに笑っていた。
「もう、追いかけっこはおしまいか? 期待してたんだぜ、少しは楽しませてくれよ」
そばを泳ぎぬけながら、赤い尾びれの先でシェルの尾びれを撫でていく。
妙にやさしくて、馴れ馴れしい。
ゾワゾワした。
だって、これは……つがいにする愛撫だ。
「さわるなっ!」
ネロの真似をして、歯を剝きだして威嚇してみたけれど、ダリオを喜ばせただけだった。
「いいじゃねえか、その顔! 俺はなぁ、追いつめられた小魚が必死に逃げまどう、そういう姿が最高に好きなんだ」
この、嗜虐趣味のヘンタイめ。
そのくせ、赤い尾びれをひるがえして堂々と泳ぐ姿には、どこか王者の風格がある。
西の海の人魚は、みんなこうなんだろうか。
目で追わずにいられない。つい、心惹かれてしまう。悔しかった。
「あ、あっちへ行けよ! また引っぱたかれたいのっ?」
「へぇ、いいのか?」
ダリオが笑いながら、ちらっと背後へ視線をやった。
むこうのサンゴの陰に、遠巻きにこちらを窺っているオスたちの群れが見える。ダリオの意地悪な笑みが深くなった。
「俺がいなくなったら、どうなるだろうなぁ?」
群れのオスたちはみんな、おかしな目つきでシェルを見つめている。
(この、匂いのせいだ)
匂いにあてられて、今すぐシェルに飛びかかりたくて、でもそうしないのは、自分たちよりずっと強いダリオが牽制しているから。
波がゆれた。
泳ぎよってきたダリオが王冠みたいな金髪をなびかせて、シェルの耳元でささやいた。低い、甘ったるい声で。
「俺のつがいになれよ」
「……フジツボだって、もっと愉快な冗談を言うよ」
「お前にしてやるって言ってるんだぜ。この俺が。群がってくるメスどもを全部捨てて」
「自慢しにきたの? モテモテだって? ならメスをつがいにしろよ! 選び放題でしょ!」
「忘れたいんだろ、アイツのこと?」
甘ったるい声がささやいた。
「忘れさせてやるよ。俺が。いつまで引きずるつもりだ? あのバケモノは、おまえを捨てて谷底へ帰ったのに」
ズキンと、心臓が痛んだ。
見ないようにしていた傷口から、鮮血があふれだしてくる。
(ダメだ)
これじゃ、ダリオの思うツボ。
わざと傷口をえぐってるんだ、僕をゆさぶるために。本当に悪趣味で、嫌なやつ。
「捨てられたんだよ、おまえは。アイツは今ごろ谷底で、メスどもと激しく戯れてるだろうさ。知ってるか? 谷底の発情期はすごいらしいぜ?」
「……あなたには、関係ない」
「さて、どうだろうなぁ?」
ダリオが低く笑った。
ゾワゾワする、妙な笑い方だった。
すごく、いやな予感がする。
「ひとつ、面白い話をしてやるよ。この匂いのことで」
ダリオが水を吸いこんだ。波にただよう甘い匂いを味わうように。シェルを見つめる金色の目が、熱っぽくギラついた。
「匂い?」
「お前は、変わるんだろ?」
「なんで……」
ダリオが知ってるの?
だって、ほとんどの人魚は知らないはずだ。変わる人魚の歌は、あまりにも古い伝承だから。むこうにいるオスたちはきっと知らない。シェルは古い巻貝を集めては、その歌を聞くのが好きだった。そのシェルですら、詳しいことはわからなかったのに。
困惑が顔に出ていたらしい。
ダリオがニヤッと笑った。罠にかかった小魚を眺めるように、愉快そうに。
「うちにもあるんだよ。古臭い、化石みたいな巻貝が山ほどな。大半はあくびが出るようなガラクタ。けど、ひとつだけ、なかなか面白い歌を歌うんだ。気になるか?」
ダリオが言葉をきって、焦らすようにシェルを見た。
「……どんな歌?」
無視するべきだとわかっているのに。好奇心に勝てなかった。
「王サマたちの歌さ」
王さまの歌。
西の海の?
ダリオのご先祖さまは西の海の人魚だという。それが本当なら、シェルの知らない古い歌が代々受け継がれていても不思議じゃない。
「その歌が言うには、古の王たちは選べたらしい」
「なにを」
「変える人魚をさ」
「変える……?」
「そう、変えてたんだよ。お気に入りが、かならずメスとは限らないだろ?」
ダリオの含みのある笑いに、ハッとした。
たしかに、ずっと違和感があった。
だって、あまりにも突然すぎる。
遠い時代に失われたはずの変わる体質。それが、なぜ僕に……
書庫からの帰り道。
ダリオに噛まれた首筋。
治ったはずの傷口に、思わず手がのびた。
信じたくない。
でも、つながってしまった。
いやだ。聞きたくない。声が震えた。
「僕に、何をしたの……?」
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