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カラダ 4
「くっ……はははは!」
突然ダリオが笑いだした。
背中をのけぞらせて、心底おかしそうに。
「なあ、シェル? わかるか? 俺がどんなに歓喜したか!」
ひとしきり笑って、ダリオがシェルを見下ろした。
月明かりのなか、金髪が波になびかせて。
「俺はガッカリしてたんだよ。粘り強くつけまわして、ようやくひとりになったお前を、勇気をふりしぼって噛んだのに。お前はちっとも変わる気配がなくて、あのバケモノとのんきに泳ぎまわっている。絶望したよ。お前は変わらない人魚だったんだって。諦めて、思い出しもしなかった。……この匂いを嗅ぐまではな」
赤い尾びれがシェルのすぐそばをかすめて、甘い匂いが波にひろがった。
「ずいぶん時間がかかったが、いかにも鈍臭いお前らしいよ。なあ、どんな気分だ? 大嫌いな俺に変えられて、甘ったるい匂いをまきちらしてるのは?」
赤い尾びれの先がまた、シェルの尾びれを撫でていった。今度はもっと、腰に近いところ。ゾクッとして、尾びれが思わずちいさく跳ねて、甘い匂いが波ににじんだ。
(いやだ、ちがう)
頭が真っ白になった。
腹が立った。
猛烈に。
「……最低だ」
「誉め言葉だな」
「どうしてっ、こんなっ!」
僕が変わるのは、ダリオのせい。
僕を蝕む、この甘ったるい呪いは。
悔しくて、視界が涙でにじんだ。
にぎりしめる手のひらに爪が食いこんで、食いしばった唇から血の味がした。
「もどしてよ! 今すぐ! 僕はメスになんかなりたくないっ!」
「戻す? 俺が?」
「あなたがやったんだ!」
僕にこの呪いをかけた。
なら、とく方法だってわかるはずだ。
「そりゃムリだ。俺はちょっと突っついて、フタを開けただけ。中身がカラならヤドカリは出てこない。喜べよ、シェル。今の時代、変わる体質は貴重なんだぜ?」
「なんで僕をっ!」
他にたくさんいるのに。
メスだってオスだって、喜んでダリオに従う人魚たちがたくさんいる。
(なのに、ここまでひどい嫌がらせを)
わかってる。
ダリオは昔からそうだった。
(僕のことなら、どれだけ踏みにじっても許されると思ってるんだ)
「本当に、わからないのかよ」
ダリオの声が、あんまり苦しそうだったから。
シェルは一瞬、戸惑った。
いつもあんなに傲慢で、この海のすべてを見下しているくせに。いまは真剣な顔でシェルを見ていた。
熱をおびた金色の目を、切なくゆらして。
何かが見えそうだった。泥のむこうに、チラッとひるがえる尾びれように。
シェルは乱暴に首をふって、それをふり払った。
わからない。
(わかりたくない。そんなもの)
ダリオが一瞬、傷ついたような目をして。
その目がギラリと光った。
赤い尾びれの先が、わざとらしくシェルの尾びれをくすぐった。
軽く撫でる程度だったのに、シェルは身体を震わせて、「あっ」と声を洩らした。
甘い声。
喜んでいるみたい。
(ちがう!)
だって、勝手に身体が。
ダリオが触れたのは、腹の下だった。
さっきからずっと、じんわり熱くて、切なく疼いている場所。……スリットと、その奥の場所。波にただよう甘い匂いが一層強くなる。
(ちがう、いらない)
僕は、欲しくない。
シェルの喘ぎを聞きつけて、ダリオがますますいやらしく笑った。
シェルが座っているサンゴのまわりをゆっくり旋回し、シェルの脇を通り抜けざま、尾びれをこすりつけてくる。シェルが敏感に反応する場所だけに。何度も、何度も。
「戻る必要なんかない」
ダリオの低い声が、耳元で囁いた。
「俺のつがいになるんだから」
「絶対にいやだ!」
「そうかよ。なら、この力は使いたくなかったんだけどな」
ダリオの目がにぶく光った。
いやな予感がした。
背びれがピリピリする。
逃げようとしたけれど、遅かった。
『つがいになれよ、俺の』
ドクン、と心臓が跳ねた。
あの時の声。
洞窟の奥からこだまするような、不思議な声。
息ができない。
抵抗できない。
今すぐ、うなずいてしまいたい。
(いやだっ)
あの時はわけがわからなくて、怖いだけだった。
今のシェルにはわかる。
この声がなんなのか。
どんなに調べても巻貝の知識が足りなくて、断片的にしかわからなかったけど。ダリオが使った不思議な力によく似たものは、古い歌の端々に登場した。
『力ある声』
古の人魚たちが持っていた力は、そう呼ばれていた。
人魚の王さまが、人魚たちを従わせていた力。
いやだ。
だって。
(僕が好きなのは、ひとりだけ)
他の人魚とつがうくらいなら、今すぐ、泡になってやる。
……なのに。
シェルの身体は、ダリオの愛撫に反応しはじめていた。尾びれの先でやさしく撫でられるたびに、喜んで、期待して、欲しい、もっと欲しいと、疼きが焦燥に変わっていく。腰が浮いて、縋りつきそうになる。
(いやだっ)
声にあらがって、理性で必死におさえつけながら。
シェルは、突然、虚しくなった。
(抑えつけて、拒んで、それから?)
どうするの?
ダリオは見逃してくれない。
ダリオから逃げたって、他のオスたちがいる。
無事に岩穴まで帰れるなんて、本棚の裏でうずくまって目をとじていれば解決するなんて、そんな夢みたいなこと思ってる?
(バカじゃないのか)
ひとりじゃ、何もできないくせに。
(助けてくれるネロは、もういない)
自分の身すら、守れないくせに。
顔をあげて、ダリオを見た。
赤い背びれのゆれる大きな背中。力強いなめらかな尾びれ。くすんだ金髪に、メスたちがチヤホヤする高慢で甘ったるい笑顔。
(……僕の、大っ嫌いな人魚)
こんなやつに触られるくらいなら、サメに喰い殺される方が百倍マシ。
でも、ダリオは強い。それは確かだ。
海のルールは単純だ。
強い者が勝つ。
ダリオを遠ざければ、向こうのオスたちを刺激する。血の匂いに狂った肉食魚の群れにたった一匹で飛びこむのと同じ。それなら、ダリオひとりの方が、まだ。
(どうせ、同じなんだ)
誰だって。
ネロか、ネロじゃないか。それだけ。
(だったら、僕にできることは?)
目をとじて、唇を噛んだ。
押し寄せてくる感情を抑えつけて、水を吸いこんで。
覚悟を決めて、ゆっくり目をあけた。
今の僕に、できることは。
……なるべくいい条件を、引き出すこと。
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