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カラダ 5
顔をあげて、ダリオを見た。
上目づかいで、波ににじんだ匂いと同じくらい甘ったるい、媚びた目をして。
そんな顔、したことない。うまくできている自信がない。
でも、ダリオにはお気に召したらしかった。
シェルの気配が変わったことを敏感に察して、嬉しそうにそばへ寄ってきた。
「どうした?」
「……もう、意地悪なこと、しない?」
「意地悪? なんのことだ?」
さすがにムッとして、ダリオを睨んだ。
なるべく可愛らしく見えるように気をつけながら。
「いっぱいしたよ。僕の尾びれを引っぱったり、僕の本を隠したり、僕のことを笑ったり」
「あ、あれは、お前が……」
何か言いかけて、ダリオは口をつぐんだ。
気まずそうに目をそらして、ちょっと顔を赤らめて。けれど、すぐに笑顔になった。シェルの愛を乞う、切なくて、高慢な笑顔に。
「わかったよ。お前が嫌がったら止める。誓ってやる。これでいいだろう?」
「僕、痛いのはイヤ」
ダリオが鼻で笑った。
その辺の下手くそなオスと一緒にするなよ。そう言いたげに。シェルがちょっと睨んだら、わかった、わかった、と肩をすくめた。
「無理やりもイヤ」
「ああ、わかってる」
こんなワガママを俺が許すのは、お前だけだ。そんな目でシェルに微笑みかけてくる。恋に溺れて、夢中になっているオスの目つき。焦れったそうに尾びれがゆれている。
「やさしく、してくれる?」
「ああ、たっぷりやさしくしてやるよ」
ダリオがニヤニヤ笑って、赤い尾びれをシェルにこすりつけてきた。焦れたように、誘うように。
傲慢だけど、乱暴はしない。
これがきっと、ダリオの思う「やさしさ」。
沈みきった心の底から小さな泡を吐いて、シェルは尾びれを持ちあげた。今までサンゴの上に座りこんだまま、頑なに動かさなかった尾びれを。
もう、いいんだ。
逃げ道なんてないんだから。
(僕が、悪いんだ)
自力で逃げ出すことすらできない、僕が。
自由なんて、身の程知らずな望みだった。
もう……どうでもいい。
頭の中で響く声は、これ以上抑えきれそうにない。
水を吸うのも苦しい。
抵抗するのをやめて、その声に身をゆだねたとたん、身体がすっとラクになった。
頭がフワフワする。
眠りに落ちる寸前のように。
溶けてしまいそうなほど、心地いい。
声に導かれるまま、シェルは白い尾びれの先端で、赤い尾びれをそっと撫でた。それがダリオへの「返事」だった。
ダリオの顔に、笑みがひろがっていく。
満足そうに勝ち誇って、泳ぎよってきたダリオが、両腕をひろげた。その腕のなかに、シェルはおとなしくおさまった。
ダリオの胸に身体を預けて、強い力で抱きしめられた。
厚い胸も、腕の力も、貧弱なシェルとは比べものにならない。一瞬でも逃げられると思った自分が、みじめだった。ダリオの胸からオスのにおいがして、身体の奥が疼くのが、悔しかった。
泣かないように踏んばった。
もう、シェルの涙の意味を汲みとってくれる人魚はいない。心をゆらしてはいけない。貝殻から気持ちが溢れないように。もう、気持ちなんて溜まらないように。
……なのに。
「――――――シェルッ!!!」
名前を叫ぶ声がして、転がるように飛びこんできた人魚の姿を見て。
シェルは目を疑った。
信じられなかった。
(うそだ)
だって、君は、もう。
どうして。
どうして、ここに。
(いつもそうだ)
僕がいちばんつらい時に、突然目の前にあらわれる。
手をさしのべて、僕を引っぱり出してくれる。
真っ暗な岩陰から、無限にひろがる明るい海へ。
「迎えにっ、きたっ」
記憶よりずっと、たくましく成長した黒い尾びれの人魚。
肩を激しく上下させて、荒く水を吐いている。その姿に、閉ざそうとしていた心のなかの貝殻がカタリと開く音がした。
波のように押し寄せる感情が、ちっぽけな貝殻をたちまちいっぱいにして、視界がぼやけた。もう、溢れさせないって決めたのに。
だめだ。
やっぱり僕。
(……ネロが、好き)
鮮血で真っ赤に染まった海に。
するどい牙を剥きだしてダリオに噛みついているネロの姿に、見知らぬ怪物のようなおぞましい形相に。恐怖を感じたけれど、正気にもどったネロの紅い瞳には、懐かしいやわらかな光が宿っていた。
――行くな。
そう手を伸ばしたダリオに、一瞬心がゆれた。
でもそれは、いつでも自信たっぷりなダリオとは思えないくらい、弱々しい声だったから。戸惑っただけ。
ネロに手を引かれて、シェルはもう、ふり返らずに泳ぎだした。
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