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下心 1

「――ねえ、ネロ! 待ってよ!」    何度もシェルは呼びかけた。  黒い背びれの大きな背中はふり返らず、シェルを引っぱって泳いでいく。  波にそよぐソフトコーラルの群生を抜けた先は、明るい硝子サンゴの林。  海面から降りそそぐ月光を浴びて、背の高いサンゴたちが透きとおった枝を青白く煌めかせ、あたりは夢のようにぼんやり明るい。  そのサンゴの根元のあちこちでは、手を繋いだり、尾びれを絡めたり、よりそった恋人たちが見つめあって、愛をささやきあっている。    シェルの手を引いて泳いでいた人魚は、一瞬戸惑ったように、黒い尾びれをとめた。  まぶしそうに顔をしかめて、サンゴ越しの月明かりと、睦みあう人魚たちをウンザリした目でにらみつけた。  それでもまた、ぐいぐいシェルの手を引っぱって、その真ん中を突っ切って泳いでいこうとする。   「ネロってば!」    引きずられて後ろを泳ぎながら、シェルは手を引っぱって呼びかけた。   「もう少し、ゆっくり泳いでよ!」    僕、君と話したいことが山ほどある。   (どうして、わかったの)    あそこに、僕がいるって。  なんで浅瀬に。  君は谷底に帰ったんじゃないの。  もう逢えないと思ってた。  逢いたかった。  ずっと。  ねえ、僕たちは、 (また、昔のように戻れる……?)    黒い尾びれの人魚がふり返った。  サンゴの明かりに照らされた顔は、知らない人魚みたいだった。  記憶にあるやんちゃな少年の面影はすっかり消えて、大人びた、するどい顔立ち。波にゆれるつややかな黒髪も、ひと蹴りが信じられないほど力強い尾びれも、夜の闇よりも深い色。なのに真紅の目だけは記憶にあるそのままのガーネットの光で、シェルをじっと見つめている。  まっすぐで、吸いこまれそうな瞳。  はじめて彼を見たときから、この紅い目が好きだった。  獰猛で、容赦がなくて、なのにシェルを見つめるときだけ、溶けてしまいそうなほどやさしくなる。   「ここで始めていいんなら、止まるけど」 「はじめる?」    ネロの紅い目が、記憶通りにやさしかったから。  何を言われたのか、一瞬わからなかった。  ネロがちらっとむこうを見て、つられてシェルもふり返ったら、サンゴの根元に倒れこんで、もつれあっている人魚たちの姿が見えた。  ひそめた喘ぎ声と、砂を舞いあげて絡みあうふたつの尾びれ。何をしているのか、さすがにシェルにもわかった。  頬が熱くなった。   「えっと……と、とがった冗談だね。満月ジョークってやつ?」  ははは、とシェルが笑おうとしたら。   「冗談?」  ネロが眉をあげて、ムッとした顔でシェルを見た。 「冗談なんか言ってねえよ」 「えっ」    ドキッとした。  そ、そりゃあね?  僕たちはもう、子どもじゃない。  今夜は満月だし。  僕の身体は変わろうとしてる。  ネロが負かしたダリオだって、そのまわりに集まっていたオスたちだって、みんな、そのつもりであの場にいた。ネロが飛びこんでこなかったら、僕だって今ごろ、ダリオの腕の中で……  背びれがゾワッとして、あわてて首をふって振り払った。   (ネロだけは、ちがうと思ってた)    どうして、こんな気持ちになるんだろう。  岩の上にポツンと取り残されたような。  僕たちはもっと、魂の深いところで繋がっていた。  本能に駆られただけの即物的な繋がりじゃなくて。  少なくとも、シェルはそう信じていた。  あんなことにならなかったら、ふたりは今も子どもの頃のまま、寄り添って生きていたはずだ。かけがえのない片割れとして。 (そう思ってたのは、僕だけ?)     うつむいて黙っていたら、ネロがムッとした声でいった。   「逆に聞くけどさ。俺はたった今、シェルを奪い取ってきたよな」 「そう、なるのかな」 「シェルを口説いてたオスをぶっ飛ばしてきた。だろ?」 「まあ、そうだね」 「下心がないと思うか?」    どくんと、心臓が鳴った。   (下心)    ネロが?  僕に?  わけがわからなくて赤くなって、尾びれをゆらしてうつむいたシェルの頭上で、ウソだろ、とネロが水を吐くのが聞こえた。   「つまり、なに? シェルは俺がのんきにお喋りするためだけに、あいつの腹を噛みちぎって、血みどろにして岩に叩きつけて、シェルをあそこから連れ出したと思ってたわけ? へぇ?」    ネロが苛立ったように尾びれで砂をたたいた。  黒髪を手でぐしゃぐしゃにして、吐き捨てるようにつぶやいた。 「……俺は完全に、眼中にないってわけだ」 「え?」  聞き返そうとしたら、ネロの紅い目が、ギラリと光った。  繋いでいた手を乱暴に引かれて、シェルはあわてて、倒れこんだ場所にしがみついた。  あたたかい。  しなやかで、力強い……ネロの胸。  時の流れはちっとも平等じゃない。自分よりずっとオスらしく成長した身体つきにどきどきした。押しのけようともがいたら、両腕できつく抱きしめられて、ぎゅっと、その胸に押さえつけられた。   『逃がさねえよ』  シェルを閉じこめた両腕の力が、そう言っていた。

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