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ほろ苦い蜜月 4

 「……ここにいてよ」  シェルの口から出た声は静かで、ゾッとするほど冷たかった。  自分の声だなんて信じられないくらい。 「帰らないでよ。僕のそばにいて」   (僕、なんてイヤな人魚なんだろう)    自分でも吐き気がした。  ネロを困らせるって、わかっているのに。  わかっていて、試そうとしてる。  信じられないくらい、わがままで、意地悪。    自己嫌悪がミノカサゴの毒棘みたいにシェルの心臓を突き刺してくる。  なのにその痛みがもたらす痺れは、蜜みたいに甘い。  ネロを困らせたい。  ネロをゆさぶって、支配して、ネロのすべてを僕にしてしまいたい。   「僕を選んでよ」  ネロの手からすり抜けたひれ先で、ネロのあごにふれて、上をむかせて。  シェルは微笑んだ。  赤い唇をうすくあけて、挑発するように青い目を細めて。  ずっと抑えつけてきた欲望を解放するのは、背びれが震えるほど心地よかった。   (大事なんでしょう、僕のこと)    死んでもいいくらい。  欲しいんでしょう、僕の愛が。   (なら、ネロは何を差し出すの?)    ネロがちいさく水を飲んだ。  シェルのひれ先で、ネロの喉が動いた。  紅い目のぎらつきが強くなって、ネロがのばした手がシェルの尾びれをつかまえた。尾びれの先にキスをして、熱い舌でまた、ネロがシェルのウロコを舐める。  焦れったいほど、やさしく。    「わかった」  顔をあげたネロが、ガーネットみたいに紅い目でシェルを見つめ、ちいさく笑った。  全部わかっている目だった。  シェルの不安も独占欲も、醜い心の奥底までぜんぶバレていて、そんなシェルを丸ごと受けとめて、ネロはなぜか嬉しそうに笑っていた。 「ここにいるよ。ずっと」 「ほんとに?」 「本当だ」  たったそれだけの言葉が、涙がにじむほど嬉しかったから。   「そうだ、一緒に見にいくか?」 「見にいく……?」   ネロがなにを言っているのか、シェルは一瞬わからなかった。  シェルの手を引いて、胸の中にやさしく抱き寄せて、ネロが尾びれで水を蹴った。  砂をやわらかく舞いあげて、上へと泳ぎだした。  「あっ」とシェルのあげた悲鳴が泡になって、陽射しにきらめきながらのぼっていく。その泡をネロは追い越して、黒い尾びれをさらに蹴った。梢からさす光に苦しそうに目を細めているのに、ネロはまぶしい光を目指してまっすぐ泳いでいこうとする。シェルの頭から血の気が引いた。   「だめ! おねがい、戻って!」 「つかまってろ。スピード上げるぞ」 「やめて、ネロ!! 僕が意地悪だった……っ!」  シェルの目からあふれた涙が、はるか下の砂の上をコロコロ転がっていく。  海面の光を目指していたネロが、尾びれをゆるめて、困った顔でシェルの目元をぬぐった。   「ごめん、シェル。泣かせるつもりじゃなかった」 「ごめっ、なさい……僕がっ、わがままを……言ったからっ」 「俺は嬉しいよ。シェルが甘えてくれんの。お前ははいつも我慢しすぎ。これくらい、俺はいくらでも」 「僕はイヤだっ。ネロがっ……苦しむのはっ……」  ぎゅっと、強く抱きしめられた。  ネロがシェルの髪に顔をうずめ、シェルの耳をやさしく噛んだ。    「聞け、シェル。ちゃんと。俺、ずっとシェルが好きだった。たぶん、シェルが最初に笑ってくれたときから」 「けど……おしまいだって、ネロがそう言ったんじゃない」  この森で。  今日とおなじ、朝の光のなかで。   「そうだな。救いようのねぇバカだった。……けど、シェルの口からは聞きたくなかったんだ。シェルに言われたら、俺もう、生きていけなかった」    なにそれ。  ひどいよ、ネロ。 「僕は、きみに言われたんだよ。死んでしまいたいと思った」 「悪かった、本当に。逃げたんだよ俺は。救いようがねぇくらいズルくて卑怯だ。今すぐ俺を思いっきり殴れ」    そういったネロの笑顔が、泣きだしそうなくらい、弱々しかったから。  ひっぱたくかわりに、シェルはネロの鼻先にキスをした。   「……僕が、あの朝言おうとしたこと、わかる?」 「聞かせてくれ」 「僕ね、別の巣穴を探そうって。そう言うつもりだったんだ。何日かかっても、何年かかっても。きみと離れたくなかったから。……きみが、好きだったから」    ネロが目を見開いた。  (かげ)っていた紅い目に、光が宿った。 「好きだった? 俺のこと?」 「うん」 「家族としてじゃねぇの? ちゃんと、オスとして?」 「キス、したいって意味で」 「へぇ……俺はずっと、シェルにムラムラしてた」 「えっ?」     ネロが口をあけて腹の底からカラカラ笑った。  シェルを抱きしめて、やわらかく波打つ髪をかきわけて、耳元でささやいた。   『つがいになろう、シェル』  ハッとした。  その声が、ふつうの声ではなかったから。  たしかにネロの声なのに、いつものささやき声とは明らかにちがう。深い洞窟の奥から響いてくるような。何重にも反響して、シェルの耳から入りこんだ声が、身体中をめぐって、シェルの魂を震わせる。   (《力ある言葉》だ……)  だけど。   (どうして、ネロが?)    ダリオが使ったのと、おなじ力。  でも、何かがちがう。  ダリオの命令は檻だった。  シェルをがんじがらめにして、シェルの抵抗を封じこめて、無理やり従わせて支配する力。  ネロの声はちがう。  奪うのではなく、抑えつけるのではなく、シェルをやさしく包みこもうとする。  この力が、こんな風にも使えるなんて。  すごく、ネロらしい。   (もしかして)  ネロが、谷底の人魚だから?    この海のすべては、やがて谷底に流れつく。  谷底のやわらかな泥におおわれて、深い、深い、眠りにつく。  谷底にはまだ、残っているのかもしれない。  浅瀬の人魚たちが、とっくの昔に忘れてしまったものが。    ネロは無意識らしいけれど、これはただの誓いじゃない。 (ネロは僕に、魂の一部をくれようとしてる)    背びれが震えた。   (いいの、ネロ?)  本当に?  たしかにネロは、シェルにすべてをくれると言った。   (そんな価値、僕にある?)  あるわけない。  でも、はなしたくなかった。  ネロも、ネロが差し出してくれた誓いも。  ちっとも釣り合うような人魚じゃないのに。僕はなんて貪欲なんだろう。 「僕も」  ネロを抱きしめて、その耳元にささやき返した。 「僕も、つがいになりたい」    僕の言葉は、なんて薄っぺらいんだろう。  僕にも、使えたらいいのに。  カタチだけの誓いじゃなくて。  僕の魂を、ネロと分け合いたい。  でも、僕に返せるのはこれだけ。 「ネロがいい。ネロじゃなきゃ嫌だ」    ネロが泣きそうな顔で笑った。  シェルを力いっぱい抱きしめて、シェルに深く唇を重ねた。 「ネロ……もう一度っ、言って……」 「ん?」 「さっきの、言って……」 『つがいになろう?』  骨が軋むほど強くシェルを抱きしめて、深く口づけを交わしたまま、ネロの声が耳に響いた。  その声が、陽の光のようにかがやいて。  その黄金色の光が、重なった口づけからシェルの中に入りこんでくる気がした。  そのあたたかな温もりが、身体中をめぐって、シェルと溶けあって、尾びれの先まで満ちていくのをたしかに感じて。  シェルもネロの背中に腕をまわして、ぎゅっとネロを抱きしめた。      

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