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ほろ苦い蜜月 3
目を覚ますと、シェルはネロの腕の中にいた。
シェルをのぞきこんでいたネロが、ぎゅっとシェルを抱きしめた。
「よかった……」
そう、耳元でつぶやいたネロの声は震えていた。シェルを抱きしめている腕もひどく冷たい。泣き出しそうな声でネロが言った。
「このまま目ぇ覚まさなかったら、俺……」
「もしかして僕、意識なかった?」
「のんきだな、お前」
はぁ、と呆れたように水を吐いて、ネロが笑った。
紅い目の端に一瞬、何かが光ったように見えたけれど、波にゆれる黒髪に隠れてしまった。
「おい、シェル?」
ちょっと険しい顔をしてネロがにらんだ。
懐かしかった。
一緒に暮らしていた頃は、シェルがコレクションを散らかして巣穴をいっぱいにするたびに、この顔でネロに怒られた。
「具合が悪いなら、ちゃんと言えよ。無理するんじゃねえ。俺がどんだけ心配──」
言いかけて、ネロが言葉を切った。
その顔がひっぱたかれたように歪むのを見て、自分が泣いているせいだとシェルは気づいた。
(ちゃんと、言う?)
なにを?
ネロと交尾したくない、って?
(言えるわけない)
涙があふれて止まらなくなった。
いやなのに。
泣きたくなんかないのに。
なのに、言葉がでてこない。
(どうして僕、こうなんだ)
大人になれば心の貝殻も大きくなるんだと信じていた。
なのに、シェルの貝殻はいつまでも小さいまま。ちょっと言葉に詰まっただけで、頭が真っ白になって、気持ちがいっぱいになって、涙が溢れだす。声がでなくなる。喉をぎりぎり絞められているみたいに、言おうとした言葉が意味をなさない嗚咽になる。情けない。悔しい。みっともない。
──涙が出るのは、反省していない証拠ですよ。
頭のなかで冷たい声が響いた。
幼い頃、シェルが何度も言われた、おばあさまの言葉。
──泣けば許されると思っているの? ただのズルですよ。甘えです。
(ちがう、ちがうっ)
僕は泣きたいわけじゃない。泣きたくなんかない。伝えなきゃ。伝えたいよ。ちゃんと。なのに言葉が。気持ちが。頭が真っ白になる。いやだ、どうして、どうして────
「みっともなくなんか、ねぇよ!」
ネロがシェルを抱きしめて、自分の胸にシェルの泣き顔を押しつけた。
ネロのにおいがする。落ち着くにおい。僕がこの世で一番好きなにおい。
「小さくたっていい。約束しただろ? 俺がシェルの貝殻になるって。教えてくれ、シェル。誰だ? こんなにシェルを泣かせてるヤツ。俺が噛みちぎってやる!」
ネロがシェルを抱きしめて、やさしく背中をたたいてくれる。
そうだった。
だれも聞いてくれなかったシェルの言葉を、ネロだけはいつもちゃんと聞いてくれた。
すぐに泣き出すシェルに呆れたり、腹を立てたり、バカにして笑ったりせず、シェルの気持ちが落ち着くのを、ネロだけはじっと待ってくれた。
ネロは、そういう人魚だった。
「シェル、ゆっくりでいい。ひとつずつ、俺に教えて」
涙であふれた貝殻の底からシェルがぽつりぽつりと言葉を引っぱり出すのを、ネロはシェルを抱きしめたまま、何も言わずに待ってくれた。
「僕はっ……」
ネロとまた逢えて、本当にうれしかったんだ。
ネロのそばにいたかった。
ネロが来なくなるんじゃないかって、不安だった。
僕がネロを拒んだら、ネロはもう、来なくなる。来る理由がなくなる。
ネロを誰にも渡したくない。だから……
「はぁ? 交尾できねぇなら、来ねぇって? どんだけクズ野郎だよソイツは!」
ネロが眉間にしわを寄せ、おでこを押さえて深く水を吐いた。
「……あのさぁ。シェルはぜんっぜん聞いてなかったみてぇだから? ぜんぶ波に流されちまったみてぇだから? 何万回でも言うけど? 俺は、シェルが好きなんだ。シェルだけを好きなの。好きだから、シェルと交尾したいんだ」
「わかってるよ」
大丈夫。
鵜呑みにしたりしない。
その場限りの誓い。やさしいウソ。
満月の夜に、交尾の相手にささやく仮初の愛。
(僕にだって、そのくらいわかる)
「ちがう。シェル、俺は本気で」
「隠さなくていいよ。他のメスたちにもおなじことを言ってるんでしょう?」
ネロの顔がこわばった。
「……そういうことかよ、くそっ」
ネロが顔をしかめて舌打ちして、黒髪を手でぐしゃぐしゃかき混ぜた。
傷ついた顔で、すがるようにシェルを見た。
「なあ、シェル。どうすれば許してくれる?」
「ゆるす?」
「自業自得なのはわかってる。するんじゃなかったよ、あんなこと。けど、どうでもいいと思ってたんだ。シェル以外のヤツなんて、どうでもよかった」
ネロの紅い目が、まっすぐにシェルを見た。
「俺は、どうしたらシェルに信じてもらえる? 尾びれを噛みちぎれって言うなら、いくらでもやってやる」
そう言って、ネロが本当に自分の尾びれにするどい歯を立てようとしたから、シェルは慌ててネロにしがみついた。
「やめて、ネロ! 僕、そんなことしてほしくない!」
「悪い、シェル。過去は過去だ。俺にはもう変えらんねぇよ。けどシェルは、それがイヤなんだろ?」
(……そっか)
すとんと腑に落ちた。
過去なんて気にしないって、言ったくせに。
(僕、本当はこんなに囚われてた)
ずっと、見たこともないメスたちの尾びれが目の前をチラついていて。
ネロに抱きつくたびに、その身体中に、たくさんの腕が絡みついている気がして。
ネロの口づけにこたえるたびに、たくさんの唇がネロに甘ったるくささやいている気がして。
ここにいないはずの彼女たちがいっせいにシェルを見て、美しい顔で嗤うのだ。ネロがくれる愛の言葉に、シェルが手をのばそうとするたびに。
──選ばれると思っているの? おまえのような、みすぼらしいデキソコナイが。
鼻の奥がツンとして、視界がにじんだ。
ネロに抱きしめられて、目の端からこぼれ落ちた涙を、熱い舌が舐めとるのを感じた。
「……教えてくれ、シェル」
ネロはシェルをサンゴの倒木のうえに座らせ、砂のうえからシェルを見上げた。
まるで、陸の物語の騎士が、主人の足元に跪くように。
ネロがそっと、シェルの手をとった。
「俺は、シェルのためなら死んだっていい。独りになって気づいたんだ。シェルがいたから生きてたんだって。シェルと別れた後、谷底で暮らしてた頃の俺は、死んでるのと同じだった」
サンゴに腰かけたまま、ネロを見下ろして。
シェルは静かに尾びれをゆらした。
尾びれの先の、波にひらひらする白く透きとおった先端がネロの頬を撫でて。ネロがひれ先をそっとつかまえて、唇を近づけた。目を細めて、大切そうに、愛おしそうに。
ゾクゾクした。
尾びれをゆらして、ネロの手からすり抜けて、そのひれ先でネロのあごを持ちあげたら、ネロがまた、シェルの尾びれをそっとつかまえて、キスをした。
焦がれるように紅い目をゆらして。
飢えた肉食魚のように目をぎらつかせて、でもその衝動に耐えて、熱い舌をシェルのひれ先に這わせてくる。今すぐシェルに触れたくて、でもシェルの許可をじっと待っている、焦れた苦しげな表情……
ネロのスリットがゆるく膨らんでいる。ひれ先でそっと撫でたら、ネロがちいさく泡を吐いて、紅い目の獰猛な光が強くなった。
鼓動がはやくなった。
ただよう波が甘く匂った。
きっと、今なら何もできる。
ネロは、なんでも聞き入れてくれる。
シェルの望みを。
ネロを思いどおりにできる。
シェルが尾びれをすこし持ち上げて、先端をわずかにゆらすだけで──
ふいに、ネロが顔をあげた。
目を細めて、忌々しそうに梢をにらんだ。
いつの間にか、あたりが明るくなっていた。
シェルの目でも暗がりに立ち並ぶサンゴの幹の、一本一本を見分けられるくらいに。
一番大きなサンゴの梢が朝の光に縁取られて、黄金色のきらめきが増していく。
朝だった。
いつもなら、ネロはとっくに谷底の暗闇へ戻っている時間。
タイムリミットだ。
──今夜また、話をしよう。
そう、ネロを急かして送り出さなきゃいけないって、わかっているのに。
シェルの頭の中を、すっと小魚がよぎった。
意地悪な目つきをして、きれいな尾びれを見せびらかして、わざとらしく目の前を通り過ぎていった。
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