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ほろ苦い蜜月 2
黄金にかがやく夕陽が沈み、サンゴの森のふちに闇がせまる頃。
シェルは震えながら砂の上にうずくまっていた。
(怖い……)
ひたひたと満ちていく冷たい闇が、恐ろしくてたまらない。
背びれが震えて、背骨が震えて、凍えるほど冷たい水に尾びれの先まで浸食されていく気がする。
なにかがシェルを睨んでいる気がして、ハッとふり返るけれど、いくら目を凝らしても夕闇のむこうには何も見えない。心臓がばくばくして、押し潰されそうだった。
(はやく帰ればよかった)
明るいうちに。
そうすれば、こんな思いはしなくて済んだのに。
でも、離れられなかった。
心のどこかで、期待してしまったから。
(また、逢えるんじゃないかって)
ここにいれば。
まだ酔っていたかった。
満月の一夜の、夢みたいな余韻に。ネロの腕のぬくもりに。シェルを貫いた昂ぶりの狂おしい熱に。
岩穴へ帰ってしまったら、そのほのかな余韻さえ、消え失せてしまう気がして……
いつの間にか、うとうとしていたらしい。
突然、後ろから抱きしめられて、シェルはビクッと飛びあがった。
尾びれをひるがえして、叫ぼうとして、シェルはその声を飲みこんだ。
ガーネットのような紅い目が、シェルを見つめてやわらかく笑っていたから。
「ネロ……?」
僕、まだ夢を見ているんだろうか。
いるはずないのに。
ネロは谷底へ帰ったんだよ。
(僕、本当にみじめだ)
頭の中で、とうとうネロの亡霊まで作り出してしまった。
「なんだよ、その顔」
ネロの亡霊がぷっと笑って、シェルのおでこを指先で突っついた。
「砂浜に打ちあげられたカエルアンコウみてぇ」
なにそれ。
「マヌケ面ってこと?」
「愛嬌があるって意味だよ。ポカンとしてて」
ネロの亡霊が紅い目を細めて、シェルの髪に顔をうずめた。シェルの匂いをたしかめるように水を吸いこんで、シェルの耳を甘噛みする。
低い声がささやいた。
「なあ、シェル」
ささやきながら、ネロがシェルの耳を舐める。
熱い舌先が、シェルの耳から首筋、鎖骨へと這っていく。まるで生き物みたいに。昨夜を思い出して、舐められた肌が熱くなった。耳に響く低い声が下腹部をせつなく疼かせて、波に甘い匂いがひろがっていく。
「なんで驚いてる?」
「だって……んっ……」
「約束しただろ?」
「うん……ぁっ……」
(このネロは、僕の幻覚なの?)
本当に?
腰を撫でる手のひらの熱も、甘噛みする唇のやわらかさも、昨夜のネロ、そのまま。
「幻覚? 俺が?」
低い声が耳元で面白そうに笑った。
シェルの腰と尾びれの境目を撫でていた手のひらが、するすると下腹部へ這っていく。甘く疼いているスリットを長い指先がゆっくりなぞった途端、背中をのけぞらせたシェルの唇から、甘ったるい泡があふれでた。
「やっ……ネロッ……」
「これでも、幻覚だって?」
「あっ……ネロッ……はいってるっ……」
「シェル……挿入れて、いいか」
尾びれをくねらせて逃げ出そうとするシェルを強い力で抱きすくめて。ネロが荒く水を吐きながら、シェルをサンゴの幹に押しつけた。
ギラギラ光る紅い目に、シェルが映っている。
白い頬を染めて、とろけた顔でネロを見上げている、たよりない人魚。
無意識に尾びれがゆれた。ネロを待ちわびて、ネロの熱で貫かれるのを期待して、奥がせつなく疼いている。
戸惑いながら、シェルは重なってきた口づけに応えた。
ネロの首に抱きついて。
波にゆれる黒髪をなでて。
青灰色のネロの頬がかすかに赤く染まって、焦ったような顔で、シェルのスリットの奥へ、ネロがゆっくり挿入ってくる。
(熱い)
幻覚じゃない。
ほんとうに、本物のネロ?
だけど、どうして……
シェルが尾びれをくねらせるたび、波に甘ったるい匂いがにじんでいく。
昨夜の噎 せ返るような匂いじゃない。でもネロは酔ったような目で、苦しそうに顔をゆがめていた。暴走しないよう、必死に何かを抑えつけているみたいに。
ふいに、シェルの頭のなかを小魚がよぎった。
もしかして。
(僕の変化が、中途半端だったから?)
変わりきるかもしれない僕に、ネロはまだ、未練があって。
変わった僕と交尾したくて。
次の満月まで、もしかしたらネロは。
(……ダメだ。期待なんか)
自分に言い聞かせた。
(僕は、大勢の中のひとりだ)
谷底ではたくさんのメスたちがネロを狙っていて、彼女たちに勝てる武器を、シェルは何ひとつ持っていない。
ネロを引き留めておけるものを。
ネロを夢中にさせられるものを。
なのに、都合のいい夢を見たくなる。
(だって、僕いま、ネロと繋がってる)
ネロにゆさぶられるたびに、甘い匂いが波にはじけて、ネロが余裕をなくしていく。抱きついたシェルを突き上げて、こじあけた奥の奥まで、ネロでいっぱいにしようとする。
明日のことはわからない。
だけと、少なくとも今夜は、ネロの紅い目に映っているのは、僕だけ……
ネロの首に腕をまわして、ネロの喉にキスをした。噛みつくように。
必死だった。
ネロの気を惹きたくて。
(僕の、ネロだ)
僕だけの。
だれにも、渡したくない。
からみあった尾びれから、嬉しそうに笑うネロの振動が伝わってきて、シェルを貫くネロの昂ぶりが最奥でドクンと脈打った。
それから、ネロは毎晩あらわれるようになった。
サンゴの森が夕闇に沈む頃、谷底から泳いできて。
一晩中シェルとからみあって、夜明け前の薄闇のなか、また谷底へと帰っていく。
ネロの気まぐれがいつまで続くのか、シェルにはわからなかった。
(今夜は、来ないかもしれない)
朝、ネロの腕の中で目覚めるたびに。
黒い尾びれが泳ぎ去っていくのを、波の向こうへ見送るたびに。
心臓がぎりぎりしめつけられた。
(だめだ、溺れちゃ)
そう自分に言い聞かせた。
ネロとすごす夜は激しくて、ネロが帰った後、シェルはぐったりして食事をする気にもなれず、サンゴの大樹が落とす木陰にうずくまって、ぼんやり波のむこうを見つめている。
(だって、僕にはこれしかできない)
なんの取り柄もない中途半端なシェルが、メスたちに勝つには。
この、いやらしい呪いを利用するしか。
ネロの興味が、シェルからそれてしまわないように。
交尾に誘ってくるネロを、シェルは一度だけ、断りかけたことがあった。
――イヤか?
そう訊いたネロの傷ついた顔に、シェルはそれ以上言えなくなった。
拒めば、ネロはきっと来なくなる。
(もう逢えなくなる)
今度こそ、きっと、永遠に。
(いやだ)
それくらいなら、僕の身体なんて、泡になって跡形もなく溶けてしまってもいい。
本気でそう思っていた。
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