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ほろ苦い蜜月 1
ふっと、シェルは目を覚ました。
(どこだろう、ここ)
薄闇をぼんやり見つめ、寝ぼけた頭で考える。
岩穴の書庫じゃない。
でも、知っている場所のような気がする。
満月はどうなったの。
あのオスたちは……
僕、何してたんだっけ……
やさしくゆれる波は、なんだか懐かしいにおいがした。
すごく安心するにおい。
僕、このにおいが大好きだった。
なのに、胸が苦しくなる。どうしてだろう。声をあげて、子どもみたいに泣きたくなる。
においに顔をうずめると、ぎゅっと、温かい腕がシェルを抱きしめた。
おどろいて顔をあげたら、ガーネットみたいに紅いふたつの目が、じっとシェルを見つめていた。
「……ネロ?」
「おはよ、シェル」
ネロが微笑んだ。
ぼんやり見あげているシェルのあごに手をそえて、目を細めて、唇を重ねてくる。
そっと、触れるだけの口づけ。
全部、思い出した。
昨日の夜のこと。
長くて熱い夜。
(夢じゃ、なかったんだ)
あたりの波が甘く匂って、頬が熱くなった。恥ずかしくて、居たたまれなくて、尾びれをゆらしてネロの胸に顔をふせた。
昨夜、月明りにきらめく海面で、何度も何度も繋がって。
ぐったり倒れこんだシェルを抱えてネロが最後に泳ぎついたのは、緑色のサンゴの森だった。
子どもだったふたりが、最後に一緒に暮らした場所。
ケンカ別れになった、あの場所。
白い砂のうえに寝かされて、また何度も熱を注がれて。絡みあったまま、ふたりで気を失うように眠りに落ちた。
「……いくの?」
起きあがったネロの背中に、手をのばしかけて。
その黒い背びれにふれる寸前で、シェルは手をとめた。今すぐ抱きついて、泣きわめいて引きとめたい気持ちを必死におさえこんで。
「ネロ」
かすれた、ひどい声。
当然だ。あんなに叫んだんだから。
なんでもない風を装ったつもりだったのに、声が震えていた。
「また来るよ」
ネロの紅い目がシェルを見つめてやわらかく笑った。
(やめてよ、その目)
僕を勘違いさせる目。
ネロに、愛されているって。
ネロがまたキスをして、シェルの髪に顔をうずめた。昨夜よりだいぶ薄くなった、でもまだかすかに波に漂っている甘い匂いを胸いっぱいに吸いこんで、腕の中のシェルをもう一度強く抱きしめた。一晩中シェルに絡みついて離さなかった腕が、するりとシェルからほどけていく。
(イヤだっ)
とっさにネロの腕をつかんだ。
腕をのばして、ネロの首にしがみついて、シェルから唇を重ねた。
一瞬、ネロが驚いたのがわかった。でも嬉しそうに笑って、シェルを抱きしめ返してくれる。シェルの舌をネロの熱い舌が追いかけてきて、絡みついて、こすりあわされて、息があがる。密着した下腹部に首をもたげたネロの先端を感じる。昨夜の激しい熱を思い出して、シェルのスリットがひくついた。甘い匂いが立ちのぼって、周囲の波に溶けていく。
「……やるか、もう一度?」
ネロが熱っぽい目で見つめてきた。
笑ったネロの唇に、するどい歯が光っている。大きな手のひらがシェルの腰を意味深に撫でた。
「いいよ」
まだ、ネロを引きとめておけるなら。
もう少しだけ。
僕のもとに。
そう思ったら、勝手に身体が動いていた。
尾びれを絡ませて、ネロの昂りに下腹部をこすりつけて、ネロに深く唇を重ねていた。ネロの紅い目がギラついて、焦れたように力任せに抱き寄せられる。
でも、ネロはシェルを一度きつく抱きしめると、その腕をゆるめた。
「……やめとこう。離れられなくなる」
ネロが笑って、シェルのまぶたに軽く唇を落とした。
名残惜しそうにシェルの頬にもキスをして、ネロの腕が離れていく。
(行かないでよっ!)
そう、叫びたかった。
だけど声が出なかった。
夜は明けはじめている。
頭上の梢から少しずつ、夜の闇がひいていく。
ネロはちっとも顔に出さないけど、平気なはずがない。きっと気力だけで耐えてるんだ。
これ以上引きとめたら、ネロは……
「また、今夜な」
ネロが耳元でささやいた。
「うん」
ウソつき。
わかってるよ。
ロマンチックなウソだって。
きのう、たくさん囁いてくれた愛の言葉とおなじ。
(泣くな、僕)
腹の底に力をこめて、にじみそうになる涙を必死に耐えた。
(これが、最後)
本当に。
今度こそ、二度と逢えなくなる。だから、笑わなきゃ。
ネロの記憶に残る僕が、みじめな泣き顔なんていやだ。
(笑え)
少しでも長く、ネロの心に残れるように。
薄明りの中、泳ぎ去っていく黒い尾びれを見送って。
まばたきした目の端から、ずっと堪えていたものがこぼれ落ちた。
ポロポロ、ポロポロ、転がり落ちた涙が、砂のうえで光っている。
「……さよなら、ネロ」
ネロはもう、戻ってこない。
僕の恋は、終わってしまった。
無意識に下腹部に手がのびていた。
(ちゃんと、変われていたら)
そうすれば宿せたかもしれない。
僕とネロの、子どもを。
ネロはあんなにくれたのに。一晩中、溢れるほど注がれたネロの熱は、ただの異物としてシェルの身体から流れ出てしまった。
ひとりになった途端、ひどく寒かった。
僕はちっぽけだ。この海で一番みじめで、独りぼっちだ。
「ネロっ……!」
砂のうえに崩れ落ちて、尾びれを抱えて縮こまった。
泣きながら、何度も、何度もネロを呼んだ。
森にさしこむ朝の光のなか。
届かない叫びは波にくだけて、虚しい涙だけが積もっていった。
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