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愛の代償 1
ふたりが新しい巣穴を探しにきたのは、谷底へとつづく崖だった。
ぽっかり口をひらいた深い谷。
その断崖のあちこちに、横穴がぽつぽつ空いている。
闇の底からあがってくるひんやりした波が、ネロの黒髪をゆらして流れていく。
ほんのりカビ臭い、泥のにおい。
このにおいを嗅ぐたびに、ネロは複雑な気持ちになる。
(帰ってきた)
深い安堵が尾びれの先まで満ちていくのに、背後にきらめく明るい浅瀬が一気に遠ざかっていくように感じて。
(あの光のなかじゃ、俺はやっぱり異物なんだな)
苦い絶望が胸をしめつける。
この谷のにおいは、ネロにとってはなじみ深い。
でも、シェルが怯えないか心配だった。
ここにしようと言い出したのはシェルだった。
ネロはもちろん、反対した。
サンゴの森に棲めばいい。ネロの寝床は洞の奥に作れるし、シェルのために枝という枝にありったけのランプを吊してやる。
でも、シェルはうなずかなかった。
ネロはうまく隠せている自信があったのに、シェルはとっくに気づいていたらしい。大人になったネロの目には、もうほのかな月明かりですら毒になることを。
夕暮れの谷底は、ネロの目でなければ見通せないほど闇が濃い。
でも上のほうなら、それほどじゃない。
昼でも黄昏のように薄暗いけれど、夜になってもかろうじて月の光がとどく。
ネロはあらかじめ、よさそうな穴を探しておいた。
きれいで、安全で、なるべく上層に近い穴。万が一にも、シェルの匂いを嗅ぎつけて谷底の乱暴な連中が上がってこない場所……
何日もかけて泳ぎまわって、崖の穴という穴をの調べつくした。今度こそ、失敗するわけにはいかなかった。
シェルの手を引いて、横穴の入り口まで連れてきて、ネロはもう一度念を押した。
「大丈夫なのか、本当に?」
「問題ないよ」
シェルがきっぱりうなずいた。
シェルの白い横顔は、暗闇に怯むことなく穴の奥を見つめている。
でも、ネロが握っている細い手はゾッとするほど冷たくて、かすかに震えていた。
悲しくなった。
一緒に棲もうと言ったのは、そばにいたかったのは、シェルに笑っていてほしいから、ただそれだけなのに。
「無理すんな、シェル。俺はあの真っ白な洞穴だっていいんだ」
「大丈夫だって」
シェルがムッと唇をとがらせてネロを見上げた。
「これくらい平気。僕がちょっとだけ、我慢すれば」
「しなくていいよ我慢なんか。シェルが臆病なわけじゃねぇだろ。俺にとっての光と同じなんだ」
「もう、ネロ。言ったでしょ? 僕、決めたんだ。ネロに甘えてばかりじゃダメだって。……けど」
シェルがすこし顔をふせて、繋いだ手に力をこめた。
長い睫毛の下から、上目づかいにネロを見てつぶやいた。震えそうになるのを必死に堪えて。
「そばに、いてくれる?」
震えている手を引いて抱きよせて、骨が軋むくらい抱きしめた。
それでも足りなくて、シェルの白いおでこにキスをして、やわらかい耳を甘噛みして、低い声でささやいた。
「……これくらいでいいか?」
「ちょっと、近すぎ」
ネロの腕の中のシェルが、尾びれをゆらしてクスクス笑った。
――怖くないよ、ネロがいるから。
それがシェルの強がりでしかないのは、ネロにもわかっていた。
崖の巣穴で過ごすうちに、シェルはどんどん元気がなくなっていった。
いつでも穴の奥深くにいて、入り口のそばにはけっして近寄らない。壁を歩くカニの足音、二枚貝があくびする音、遠い波のむこうから響いてくるクジラの歌声……なんでもない些細な物音にも飛びあがって、青ざめた顔であたりをうかがって、尾びれを抱えてビクビクしている。
夜はケルプにくるまって、ネロの腕のなかで目を閉じているけれど、眠れていなのが一目でわかった。
白い目元に目立つクマにそっとキスすると、シェルはくすぐったそうに笑う。けれどその笑顔からは、ネロの心をとらえて離さない海面のようなきらめきが、日に日に失われていった。
それに、あんなに寝相の悪かったシェルが、一晩中ネロの腕の中で大人しく縮こまっている。
シェルのために作ったランプぎっしりの読書部屋も、最初はあんなに喜んでくれたのに、閉じこもって本棚の陰で震えているだけで、いつの間にか、砂が白く積もっていった。
「シェル」
煌々とかがやくランプの、目に沁みるような明かりの輪の奥に、ネロはそっと声をかけた。
「……なあに、ネロ」
弱々しい、かすれた声がかえってくる。
本棚の陰から、うずくまっていた白い人魚が顔をあげた。骨が浮いた、瘦せこけた背中。白銀にきらめいていたはずの尾びれも、鈍くくすんでいる。
心臓がぎりぎり痛んだ。するどい鉤爪でえぐられているようで、喚きちらしながら暴れまわって、本棚という本棚を尾びれで粉々にしてしまいたくなった。
「シェル、もういいよ」
「え……」
シェルが顔を曇らせた。
大きく目を瞠って、その目が傷ついたようにゆれた。その目から涙がこぼれる前に、ネロはそばへ泳ぎよって、シェルの痩せた身体を抱きしめた。
「もういいんだ。シェル」
「……もう、僕に飽きちゃった?」
「んなわけねぇだろ」
自嘲気味に笑おうとするシェルの目元に唇をおとし、にじんだ涙を舐めとって、ネロはぎゅっと、シェルを抱きしめた。
「帰ろう。浅瀬に。俺、シェルには笑っててほしいんだ」
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