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永遠のつがい 3

『君の、目』 「目? 問題なく見えてるぜ。すこぶる調子がいい」  ううん、とシェルが首をふった。   『言われたんだ。手遅れかもしれないって。もしそうだったら、この薬を飲ませたらネロはネロでなくなるって』  ネロは自分の手に視線をおとした。  シェルの痩せた背中抱きしめているその手は、妙につるんとしていて、貧弱に見える。黒い爪もなんだか短くて、獲物を引き裂くには心もとない。弱って寝込んでたせいだと思ってたが。   「俺は、どう見える?」  シェルが一瞬目を泳がせて。やさしく笑った。   『……きれいだよ』 「はい、ウソ。バレバレだっつーの」 『本当だよ』  あわてて首をふって否定して、「だけど」とシェルがつけくわえた。 『……ふつうの人魚みたい』 「ふつう?」 『まるで、浅瀬の人魚たちみたい。僕が好きになった谷底の君じゃない。ひれのカタチもちがうし、目だって……』  そう言われて、自分の尾びれを見下ろして、なるほど、とネロはようやく気がついた。  谷底の闇よりも黒かったはずの尾びれが、いまは日没の空のような藍色。ひらひらして、波を切り裂く鋭さはない。どおりで。ちっとも前に進まねえと思った。  シェルの手がそっと、ネロの目元にふれた。  ネロを見上げてくる青い目の奥から、見知らぬ人魚がネロを見ていた。  ネロのようなのに、なんとなく、どこもかしこも違う。  妙に丸いっつーか、のっぺりしてるっつーか。たしかに浅瀬の連中だ。 (トゲがぬけちまったウニみてぇ)    マヌケに見えるのは、目のせいかもしれない。  浅瀬ののんきな人魚たちを震え上がらせた血のような紅眼は、なんだかボヤけた冴えない色に変わっていた。  シェルが浮かない顔をしている理由がわかった。  あの紅色の目を、シェルは本気で気に入っていたみたいだから。  けどまあ。 「なんか問題あるか?」  悲しそうなシェルをのぞきこんで、ニィッと笑ってやった。  たしかに、はやく泳げねえのはちょっと不便だけど。    「見た目なんか、どーでもいいよ。浅瀬で暮らすにはむしろ都合がいい。だろ? 俺はもう谷底に戻る気はねえんだ。それとも、シェルはこの俺じゃイヤか?」 『そんなことないっ!』  シェルが尾びれをゆらして叫んだ。 「んじゃ、なんも問題ねえな?」  うなずいてほしいのに。  シェルはまた、目を泳がせた。  にぎりしめた手のひらに、爪がくいこんでいる。 「おい、シェル」    腹が立ってきて、シェルのおでこを突っついてやった。 「もうやめろよ。俺から逃げる口実さがすの」 『そんな、僕っ……』  ハッとした顔をして、ネロに反論しようとして、シェルがその目をふせた。  ほらみろ。  思い当たるんじゃねえか。  うつむいたままのシェルを、ぎゅっと抱きしめて。  やわらかい髪に顔をうずめて、シェルの耳にささやいた。 「俺、うれしいんだ。またこの目でシェルを見られる。だからさ、笑ってくれよ」  何度だって言う。  俺は、笑ってるシェルが好きなんだ。  シェルが俺に、はじめて笑ってくれたときから。 『ネロ』 「俺は、まだシェルと一緒にいたい。離したくねえ。ずっと。死ぬまで。……シェルは?」 『僕は……』  腕の中のシェルがためらっている気配がした。  欲しいものを、欲しいと言えない。  子どものときから、シェルはそうだった。 (また「おばあさま」か)  ……クソッ。  どんだけシェルを苦しめれば気がすむんだ!  僕なんて。  僕なんかじゃ。  きっとシェルはそう答える。  自己否定のカタマリ。   (言ってみろ)  そんなクソみてえなもん、俺が海の果てまで蹴り飛ばしてやる!    ネロの腕の中で、シェルが顔をあげた。  その青い目が、まっすぐネロを見た。 『僕は、もう逃げたくない』  思いがけない言葉だった。  ネロままじまじと、シェルのまっすぐな目を見つめた。   『ネロと、一緒にいたい。ずっと。死ぬまで。……だから、もう、逃げない』    抱きついてきたシェルを、ぎゅっと抱きしめかえして。  胸の奥からこみあげてきて溢れそうになる涙を隠したくて、シェルに唇を重ねた。  深く、ふたりの身体がひとつに溶けあってしまうほど、深く。  唇をはなして、シェルが照れたように笑った。   『ねえ、ネロ』  青い目をきらきらさせて、嬉しそうに言った。  久しぶりに見る、まぶしい笑顔だった。 『僕、最果ての海へ行ったんだよ。ひとりで』 「ああ。遠かったか?」 『すごく。何本も海流をのりついで、何度も道に迷った。もうたどりつかないかと思った。僕、泳ぐのが下手だから』 「すげえよ、シェル」 『次は一緒にいこう。僕が案内してあげる。元気になった君をつれておいでって言われてるんだ』 「よく洞窟がわかったな。看板が出てるわけでもねえんだろ? 観光地じゃねえんだし」 『ええと』    シェルが口ごもって、目をそらした。  なんだ、この反応?  あやしい。 『協力してくれたんだ』 「だれが?」 『……ダリオ』 「は?」 『あのね、彼の書庫には古い巻貝がたくさんあってね』 「待て、待て、待て」  思い出した。  シェルの外出が増えた頃、シェルからなぜかアイツのにおいがしていたこと。  クソッ、俺の爪がまだするどかったら、今すぐ引き裂きにいくってのに。 「協力? アイツが協力なんかするわけねえだろ」 『取引したんだよ』 「とりひきぃ!?」    声が裏返った。  あの性悪のことだ。  シェルにいやらしい提案をしたにちがいない。 「妙なことされてねえだろうな?」 『僕、すごく時間がかかったから。ネロが元気そうで安心した。ダリオはちゃんと約束守ってくれたんだね』 「約束だと?」 『君の面倒をみてほしいって。僕がいない間』 「はぁ!?」  頭がクラクラした。  額をおさえて、シェルをじろっとにらみつけた。 「お前、どんな取引したんだよ」 『ええと』  シェルがネロを見上げて、小さく笑った。  いたずらっぽい、ちょっとだけ悪い顔で。 『……内緒』 「シェル!」 『あのね、ネロ。僕にだって、ひとつ、ふたつ、秘密があるんだよ』  そう笑って、シェルが尾びれをくねらせて、ネロの腕からぬけだした。  岩陰から飛び出して、明るい光の中でふりかえって、ネロへ手をさしのべた。   『ネロ、競争しよう。あの海面まで!』 「待てってば、シェル!」  楽しそうに笑って、尾びれをひるがえして、シェルが上をめざして泳いでいく。  灰色の尾びれに陽射しが照って、一瞬、その姿が黄金色にかがやいて見えた。  まぶしい海面に、陽の光が溶けている。  その光を見上げても、もう目に突き刺さることも、頭が痛くなることもなくて。  子どもの頃のように、ただ、泳いでいくシェルの姿がきらめいて見えた。    ちょっとだけ、泣きたいような気持になって。  ネロはこみあげてくる喜びを嚙みしめて、あたらしい尾びれを蹴って、シェルのあとを追いかけた。      

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